11.再検地
新しい代官の元で、再検地が行われ、水梨は1万石の天領となった。それを見届けると、勘定吟味役に出世した竹三郎は、隠居届をだした。彼は、妻を娶ることもなく、生涯を学問に費やした。
先代将軍のご落胤の美雪も生涯を独身で過ごした。乗平は、他家に養子に行き、5万石の藩主となった。老中に推挙されたが、乗平は辞退した。賢明な乗平は幕政改革が不可能なことを知っていたのかもしれない。
島原の乱の後、天草代官の鈴木重成は検地のやり直しと年貢の減免を幕閣に訴えたが、聞き入れられず、切腹をした。幕閣は、代官に抗議の切腹をされたことを隠し、病死と発表した。重成の兄、鈴木正三の子が天草代官の後を継ぎ、検地のやり直しが行われ、石高は半分になった。江戸時代の百姓一揆の多くは、年貢が高すぎたことが原因であった。その原因は、実際の石高と数字の上の石高が異なっていたことも原因の一つであった。
この後、老中の田沼意次をはじめ、米作りよりも商業、産業を重視する少数の重商主義者が現れ、農本主義の改良を訴えたが、日本が米中心主義から脱却するのは明治政府の樹立により、近代化が成功してからである。
吉田松陰の叔父、玉木文之進は代官を歴任していた。石高はわずか40石である。
後世、明治天皇の殉死によって最後の武士と呼ばれた乃木希典大将と吉田松陰を育てた、松下村塾の初代塾長、玉木文之進ですら代官を歴任しても40石しかなかったのである。
代官は、人から憎まれる仕事である。考えてみれば、当り前であろう。農民や町民、商人からすれば、税を徴収し、労役を課すのだ。
時代劇において多くの代官は悪く書かれる。しかし、目付からは公金横領を常に疑われ、勘定奉行から年貢の催促を受ける現代風に言うならば、ブラックすぎる中間管理職の代官のなり手は少なかった。
明治維新後、子爵家となった乗平の子孫が、部屋住み時代の乗平の日記を見つけ、『水梨日記』として自家製本したのは、乗平没後、150年先のことであった。
『水梨日記』が平成の世に新書として復刊されるにあたり、乗平の子孫にあたる松平家の当主は、「なぜ、時代劇で代官はみな、悪く書かれるのか。それは代官の実態を良く知らないからではないか。現代でも、税金を徴収しに来た税務署を批判する人もいるが、税金制度を決めたのは国民が選んだ政治家である。『水梨日記』は、現場の責任者と制度を誰が決めているのかという問題を現代人にも問いかける書ではないかと思い、この度、出版社の申し出を受け、復刊するものである」とあとがきに書いたのである。
(終)




