85. 波間の月、君の涙
波間の月、君の涙
吐息が混じる。甘く、潤んだ、彩子の吐息が。
「…敏行さん」
俺の腕の中で、彼女がかすれた声を漏らす。窓から差し込む月明かりが、汗で首筋に張り付いた彼女の髪を照らしていた。部屋の電気は消しているのに、彩子の瞳だけが、爛々と輝いて見える。その瞳に見つめられると、俺の心臓は意味もなく速度を上げた。
「…好き」
囁きと同時に、しなやかな指が俺の背中に回る。爪が、ゆっくりと、シャツの上から肌をなぞった。ぞくり、と背筋に走る甘美な痺れ。もう、我慢の限界だった。俺は彩子の顎にそっと指をかけ、上向かせる。彼女の唇が、熟れた果実のように艶めいて、俺を誘っていた。あと数ミリ。その距離がもどかしくて、永遠のようにも感じる。唇が触れ合う、その刹那――。
これが俺たちの日常になったなんて、あの夜のことを思えば、まるで夢のようだ。いや、あの夜は悪夢だったか。そう、すべての始まりは、最高に気味の悪い、夏の夜のことだったんだ。
◇
「―――助けて」
夜光虫がぼんやりと光る、夏の夜の海。防波堤の先端、いつもの特等席でアジを狙っていた俺の耳に、その声は届いた。 竿を握る手に、じっとりと汗が滲む。波がチャプチャプと堤防を叩く音と、遠くで鳴く虫の声だけが響いている。聞き間違いか?いや、聞こえた。女の声だった。
「…た、助けて…」
今度はもっとはっきりと。声は、海の中から聞こえてくるような気がする。背筋が凍りついた。おいおい、マジかよ。これ、アレじゃないのか?海難事故で亡くなった人の霊が、仲間を求めて旅人を呼ぶってやつ。釣り人の間じゃ有名な怪談だ。
正直、めちゃくちゃ怖い。今すぐ、全力で逃げ出したい。でも、もし、本当に誰かが助けを求めていたら?その声を聞いて見殺しにしたなんてことになったら、一生後悔する。俺はごくりと唾を飲み込み、意を決して声がした方へ、ライトの光を向けた。
「だ、誰かいるんですか!?」
震える声で叫ぶと、暗い海面の一部が、ばしゃり、と大きく揺れた。 「うわっ!」 心臓が口から飛び出そうになる。光が、揺れる水面を捉える。そこにいたのは――ずぶ濡れの、人間…だった。いや、本当に人間か?長い髪が海藻のように顔に張り付き、その姿は、正直、ホラー映画のワンシーンにしか見えなかった。
「あ、あの…人間、ですか?」 我ながら、ひどい質問だとは思う。でも、恐怖が理性を上回っていた。すると、その「何か」は、げほっ、と激しく咳き込みながら、俺のライトに向かって顔を上げた。
「人間だよ!早く引き上げてよ、このどアホ!」
…人間だった...めちゃくちゃ口の悪い。 恐怖心が一気に吹き飛んだ。俺は慌ててタモ網を伸ばし、その女性――田中彩子との、最低で最高な出会いを果たしたのだった。
聞けば、彼女も釣り人で、テトラポッドで足を滑らせて海に落ち、這い上がれなくなっていたらしい。俺が差し出したタオルを雑に受け取ると、彼女はぶっきらぼうに言った。 「私は田中彩子。あんた、命の恩人だから、今度なんかお礼させて。連絡先、教えて」
そう言って、スマホを操作する彩子の姿は、さっきまで海で溺れかけていた人間には見えなかった。男勝り、という言葉がこれほど似合う女性に、俺は初めて会った。
◇
それからだ。俺と彩子の奇妙な交流が始まったのは。 お礼と言いつつ、彼女からの連絡は決まって「今週末、〇〇港で青物釣れてるらしいけど、行かない?」とか「新しいエギ(イカ釣りのルアーだ)買ったんだけど、試しに行かない?」とか、全部釣りの誘いだった。
彩子は、俺よりずっと釣りが上手かった。知識も経験も豊富で、どんな状況でも的確にポイントを読み、次々と魚を釣り上げる。その姿は、見ていて惚れ惚れするほど格好良かった。
ある日、二人で沖堤防に渡ってヒラマサを狙っていた時のことだ。俺の竿に、とんでもない大物がヒットした。ドラグが悲鳴を上げ、竿が根元からひん曲がる。格闘すること数分、腕はパンパンになり、もうダメだ、と諦めかけたその時だった。
「敏行、しっかりしろ!ここで諦めたら、そいつは一生あんたを笑うぞ!」 隣で竿を出していた彩子が、檄を飛ばす。 「こいつはただの魚じゃない!あんたが戦うべき相手だ!もっと腰を落として!竿を立てろ!」 その声は、いつものカラッとした声じゃなく、真剣で、熱を帯びていた。俺はその声に背中を押されるように、最後の力を振り絞った。そして、数分にも及ぶ死闘の末、海面に銀色の巨体が姿を現した。メーター超えの、立派なヒラマサだった。
堤防に横たわる魚を見て、俺はへなへなと座り込んだ。彩子は「やったじゃん」と笑って、俺の頭をガシガシと撫でた。その手が、やけに温かかった。
そんな日々を過ごすうち、俺は彩子が「アヤコ船長」という名前で活動する、釣り系の人気ユーチューバーだと知った。チャンネル登録者数は十数万人。動画の中の彼女は、いつもカラッと笑っていて、豪快に魚を釣り、捌き、美味そうに食べる。コメント欄は「船長、マジかっけー!」「こんな姉ちゃん欲しかった」というような、男女問わずのファンからの称賛で溢れていた。
動画を見るたびに、俺は不思議な気持ちになった。画面の向こうの「アヤコ船長」は、確かに俺の知っている彩子だ。でも、二人きりでいる時に見せる、ふとした瞬間の、少し不安そうな顔や、釣れない時に本気で悔しがる顔、そして、俺が大物を釣った時に見せた、あの太陽みたいな笑顔は、俺だけが知っている彼女の顔だと思った。
気づけば、俺の心は完全に、田中彩子という名の荒海に釣り上げられていた。
その日の帰り道。車を運転する俺の隣で、彩子は疲れたのか、こくりこくりと舟を漕いでいた。その無防備な寝顔を見ていたら、どうしようもなく気持ちが溢れてしまった。
「彩子」 「…んー?」 「好きだ。付き合ってほしい」
赤信号で車が停まる。俺の言葉に、彩子の目がぱちりと開いた。その目は驚きに見開かれ、やがて、みるみるうちに赤くなっていく。
「…な、なんで、あたしなんか」 「彩子だからだよ。男勝りで、強くて、でも、誰より優しくて。そんな彩子が好きだ」 「…あたし、可愛げないし、料理も魚捌くのしかできないし、色気も、ない…」 「知ってる」 「知ってんのかい!」 「でも、そんな彩子がいいんだ」
青信号に変わり、俺は車を発進させた。隣の彩子は、顔を真っ赤にして窓の外を見ている。その耳まで赤くなっているのが、サイドミラー越しに見えた。しばらく沈黙が続いた後、彼女はぽつりと言った。
「…あたしで、いいなら」
その声は、今まで聞いたどの声よりも、可愛い声だった。
◇
付き合い始めてからの日々は、天国だった。 二人で釣りに行き、二人で笑い、二人で飯を食う。彩子が俺のアパートに手料理(もちろん魚料理だ)を持ってきてくれることもあった。彼女が作るアジのなめろうは絶品で、俺はそれを肴に飲むビールが何よりの楽しみになった。
彼女の動画の撮影を手伝うこともあった。もちろん、カメラの後ろで、だ。画面に映る彼女は、相変わらず格好いい「アヤコ船長」だったけど、カットがかかった瞬間に俺に見せる「彩子」の笑顔は、俺だけの宝物だった。
この幸せが永遠に続けばいい。本気でそう思っていた。しかし...
事件が起きたのは、ある生配信の日だった。その日は、俺も現場に同行していた。釣りを終え、港に戻ってからの雑談配信。彩子がリスナーからの質問に答えていた時、一つのコメントが流れた。
『船長、最近彼氏できました?なんか雰囲気変わった気がする』
彩子の動きが、一瞬、止まった。俺も、心臓がどきりとした。隠していたわけじゃない。ただ、言うタイミングを逸していただけだ。彩子はプロだ。プライベートなことを軽々しく公表して、ファンをがっかりさせたくない、という気持ちがあったんだろう。
「えー?彼氏ぃ?いないよぉ」
彩子は、いつもの調子で笑ってごまかそうとした。だが、その時だった。配信を手伝っていた別のスタッフが、俺に向かって何気なくこう言ったのだ。
「浜崎さん、この機材、車まで運んでもらえます?」 「あ、はい」
その声が、配信用のマイクに、しっかりと乗ってしまっていた。
コメント欄が、一気にざわついた。 『浜崎さん?男の声したぞ』 『今、返事した男、誰?』 『彼氏じゃんwww』 『隠すとか、ダサ』
まずい。そう思った時には、もう手遅れだった。その日の配信は、彩子が気まずそうに笑って、早々に切り上げられた。そして、その夜から、地獄が始まった。
SNSや動画のコメント欄は、俺たちのことを詮索する書き込みと、そして、誹謗中傷のメッセージを送りつけてきた。
『お前みたいな一般人がアヤコ船長に近づくな』 『金目当てだろ』 『船長を返せ!』
俺への誹謗中傷は、まだいい。耐えられた。だが、本当に辛かったのは、彩子に向けられた、心ない言葉の数々だった。
『男できてファンを騙してたのか。がっかり』 『どうせすぐ別れるに決まってる』 『媚び売るようになったら終わりだな』
男勝りでサバサバした「アヤコ船長」のイメージが強かった分、その反動は大きかった。彼女は「ファンを裏切った嘘つき」というレッテルを貼られ、激しいバッシングに晒された。
あれだけ輝いていた彩子の笑顔が、みるみるうちに消えていった。動画の更新は止まり、部屋に引きこもるようになった。俺が会いに行っても、「ごめん、今は誰にも会いたくない」とドアを開けてくれない。電話にも出ない。
俺は、無力だった。彼女をこんな目に遭わせたのは、紛れもなく俺の存在のせいだ。俺がいなければ、彩子は今も、ファンの皆に愛されて、笑っていたはずなんだ。 俺が、彼女から笑顔を奪ってしまった。
別れた方がいいのかもしれない。 何度も、そう思った。でも、彩子のいない人生なんて、もう考えられなかった。ヒラマサとの死闘の末に、俺の頭を撫でてくれた、あの温かい手を、離したくなかった。
どうすればいい。どうすれば、また彩子は笑ってくれるんだ。 俺は数日間、眠れない夜を過ごし、そして、一つの覚悟を決めた。
◇
俺は、彩子のマンションのドアを、何度も叩いた。 「彩子、俺だ。大事な話がある。開けてくれ」 中から、返事はない。でも、俺は諦めなかった。 「彩子!頼む!俺を信じてくれ!」
しばらくすると、ガチャリ、と小さな音がして、ドアが少しだけ開いた。チェーンの隙間から見えた彩子の顔は、憔悴しきっていた。
「…なに」 「次の生配信、俺も出させてくれ」 「…は?」 彩子の目が、わずかに見開かれる。 「俺が、全部話す。俺の口から、俺たちのことを、ちゃんと説明させてほしい」 「やめてよ!そんなことしたら、もっと敏行さんが叩かれるだけだよ!あたしのせいで、これ以上、敏行さんを傷つけたくない…!」 「俺は傷ついてない。俺が一番辛いのは、彩子の笑顔が見られないことだ。だから、頼む。俺にチャンスをくれ」
俺は、チェーン越しに、必死で訴えた。彩子はしばらく黙って俯いていたが、やがて、小さな声で「…わかった」と呟いた。
そして、生配信の日がやってきた。 久しぶりに更新されたチャンネルには、多くの視聴者が集まっていた。そのほとんどが、野次馬か、アンチだろう。コメント欄は、配信開始前から、辛辣な言葉で埋め尽くされていた。
「どうも、ご無沙汰してます。アヤコです」
カメラの前に座った彩子の声は、震えていた。笑顔も、どこか引きつっている。 「今日は、皆さんに、お話したいことがあります。…隣にいる、この人は…」
彩子が俺の方を見る。俺は、ぐっと拳を握りしめ、カメラの前に頭を下げた。
「初めまして。浜崎と申します。この度は、僕の不注意で、皆さんを混乱させ、彩子さんを傷つけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
コメント欄の速度が、さらに上がる。 『うわ、本当に出てきた』 『謝罪風の言い訳か?』 『顔、普通だな』
予想通りの反応だった。でも、ここで怯むわけにはいかない。俺は、ゆっくりと顔を上げた。そして、カメラのレンズを、まっすぐに見つめた。
「僕は、アヤコさんと、お付き合いさせていただいています」
はっきりと、宣言した。彩子が隣で息を呑むのがわかった。
「皆さんが『アヤコ船長』を大好きなように、僕も、一人の男として、彩子という女性が、大好きです。彼女が海で見せる真剣な顔も、魚が釣れて子どものようにはしゃぐ顔も、悔しくて涙を流す顔も、全部見てきました。彼女は、皆さんが思っている通り、裏表のない、最高に格好いい女性です。そして、僕が知る限り、誰よりも繊細で、優しい女性です」
俺は、一度言葉を切り、彩子の方を見た。彼女は、大きな瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「そんな彼女の笑顔を、僕のせいで曇らせてしまったことが、本当に悔しい。でも、僕は、彼女の手を離すつもりはありません。僕が、一生かけて彼女を守るし、幸せにします。だから…どうか、信じてくださいとは言いません。でも、これ以上、彼女を傷つけることだけは、やめていただけないでしょうか。お願いします」
俺は、もう一度、深く、深く頭を下げた。 スタジオは、静まり返っていた。コメント欄の動きも、一瞬、止まったように見えた。 やがて、ぽつり、ぽつりと、これまでとは違うコメントが流れ始めた。
『…なんか、この人、本気っぽいな』 『船長の泣き顔見たら、なんか言えなくなった』 『確かに、俺たち、船長のこと、なんも知らなかったのかも』 『敏行さん、船長のこと、頼んだぞ!』 『幸せになれよ、二人とも!』
そのコメントは、最初は小さな流れだった。だが、それは次第に大きなうねりとなり、画面を埋め尽くしていく。非難の言葉は、いつの間にか、温かい応援のメッセージに変わっていた。
「…敏行さん」 隣で、彩子が嗚咽を漏らす。俺は、そっとその肩を抱き寄せた。 「ありがとう…ありがとう…」 「いいんだ。俺が、そうしたかっただけだから」
その日の配信は、俺たちの人生を大きく変えた。誠実(だと、皆が言ってくれた)な俺の態度と、涙ながらに感謝する彩子の姿は、多くの視聴者の心を打ったらしかった。「浜崎敏行」は、一夜にして「船長を託せる唯一の男」として、ファンに認知されたのだ。 それからの彩子は、水を得た魚、いや、海に帰った魚のように、みるみる元気を取り戻していった。
◇
そして、今日。 俺たちの関係が公になってから、半年が経った。彩子のチャンネルは、以前にも増して人気が出て、今では「カップル釣りチューバー」なんて呼ばれることもある。
俺は、ある計画を立てていた。 「なあ、彩子。今週末、俺たちの出会った、あの防波堤に行かないか?」 「え、いいけど。なんでまた、あそこ?」 「んー、初心に帰ろうかなって」
週末、俺たちは思い出の防波堤に立っていた。夕日が海をオレンジ色に染め、世界が優しい光に包まれている。俺は、車のトランクにこっそり仕掛けておいた小型カメラのスイッチを入れた。もちろん、今日のこの様子も、隠し撮りで生配信されている。炎上を乗り越え、俺たちを応援してくれているファンに、一番に報告したかったからだ。
「なんか、変だよ、今日の敏行さん」 彩子が、不思議そうな顔で俺を見る。 「そうかな?」 「うん。そわそわしてる」 「…バレたか」
俺は苦笑いして、彩子の前に、片膝をついた。 「え、ちょ、な、なに!?」 驚く彩子の手を、俺は両手で優しく包み込む。ポケットから、小さな箱を取り出した。
「彩子さん」 俺の声が、少し震える。 「初めて会った時、あなたは海の中にいて、正直、めちゃくちゃ怖かったです」 「う、うるさいな!」 「でも、あなたの口の悪さと、強さと、そして誰より優しい心に、俺は救われました。あなたが海に落ちてくれたおかげで、俺はあなたに出会えた。だから、俺は、あの夜に感謝してる」
彩子の瞳が、また、あの日のように潤んでいく。
「あたしは、今まで、男勝りだからって、誰にも本当の自分を見せられなかった。恋愛なんて、あたしには無理だって、ずっと思ってた。でも…敏行さんが、そんなあたしを、丸ごと好きだって言ってくれた」 ぽろぽろと、大粒の涙が彼女の頬を伝い、俺の手に落ちる。 「あたしの方こそ、敏行さんに出会えて、幸せだよ…」
コメント欄は、祝福の言葉で溢れかえっていた。 『うわああああ!泣ける!』 『船長、きれいだよ!』 『敏行さん、男だ!』 『おめでとう!末永くお幸せに!』
俺は、箱を開けた。中には、シンプルなデザインの指輪が、夕日を浴びて光っている。
「彩子。俺と、結婚してください。世界一、いや、宇宙一、幸せにします」
彩子は、もう声にならなかった。ただ、涙と笑顔でぐしゃぐしゃの顔で、何度も、力強く頷いた。 俺は、その薬指にそっと指輪をはめ、立ち上がって、彼女を強く抱きしめた。波の音が、祝福の拍手のように、いつまでも、俺たちを包んでいた。
こうして、俺と彩子の物語は、たくさんの人に見守られながら、新しい航海へと漕ぎ出した。もちろん、この先も、凪の日ばかりじゃないだろう。嵐の日も、大時化の日もあるかもしれない。 でも、大丈夫だ。 俺の隣には、宇宙一格好良くて、可愛い、最高の船長がいるんだから。




