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第八話

 千里が椚の間に戻ると、千春もすぐにやってきた。来客の準備をしようと、千里は少し奥まった場所にある給湯室へと向かう。

 給湯室と言っても排水用の流しと冷蔵庫、それに茶器があるだけだ。冷蔵庫には『井戸水冷やしています』という張り紙があり、中を開けると木桶や筒状の硝子容器に水が保管してある。筒の容器を取り出して中身を湯沸かしポッドに入れると、千里は電源ボタンならぬ霊源ボタンを押した。

 この世界では、電力というものが霊力に置き換わっている。それさえ理解してしまえば単純で、初日は気が付かなかっただけで古泉家には冷蔵庫と炊飯器以外にも霊化製品が存在していた。古泉家ではやかんも元気だったが、座卓の上に置いておくことを考えればポッドの方が安全で保温性が高い。千里は祖父母の家でくらいしか湯沸かしポッドに触れたことがなかったが、幸い構造と使用方法が簡単なので迷うことなく扱えた。

 ちらりと座卓についた千春に視線を向けると、彼は何やら複雑そうな顔をしている。数日古泉家で過ごしてわかったことだが、普段の彼であればまず間違いなく、こうした場面では『俺がやるよ』と名乗り出ていた。灯子や千冬は千里を家族の一員かのように扱うが、千春は明確に千里を『客』扱いするのだ。だから、千里が茶の用意をしようものならすっ飛んで来るはずなのだが、今は考え事に集中しているのか全く動く気配がない。

 千里としては、すでに古泉家にも千春にも十分に世話になっているので、彼の油断はありがたいことだ。ほぼ確実に、茶を出した時点で『ありがとう』と『ごめん』を口にするだろうなと考えて、千里は上機嫌でポッドから急須に湯を注ぐ。茶こぼしと湯呑、茶葉を用意し終わったところで、部屋の扉が控えめにノックされた。

「どうぞ」

 音に気が付いた千春がそう声をかけると、木製の引き戸がゆっくりと開かれる。すると座布団の上でゆったりとしていたむーたんが立ち上がり、帽子を脱いだ青年の元へ駆けて行った。

「……なんかヴィオ、懐かれてない?」

「ふむ? 魚の匂いにでも釣られているんじゃないか?」

 それ以外に思い当たる節はないなと考えて、青年はかがんでむーたんの頭を撫でる。むーたんは彼の手のひらにぐりぐりと頭を押し付けると、先ほどまで自分が座っていた座布団の傍へ移動し、しっぽでぽんぽんと座布団を叩いた。

 ここに座れ、という意味らしい。青年は特に反対する理由も無かったのか、勧められるがままに座布団に腰を下ろす。するとむーたんは満足したように破顔し、給湯室の千里の元まで走ると一仕事しましたぜとでも言いたげに彼女の足に擦りついた。

 そこで初めて、千春は千里が給湯室に立っている事に気が付く。

「あ、ごめん。気が付かなかった。ありがとう」

「いえいえ、これくらいはできますから」

 千里が盆を持ってやってくると、千春は申し訳なさそうな表情を浮かべる。最初に青年の前に湯呑を置き、次に千春の前に湯呑を置いた千里は、最後の一つを自分の前に置いて手前の座布団に腰を下ろした。そして、すかさずむーたんが膝の上によじ登る。

「それで、どこから話したものか……」

 千春はどのように切り出すか悩んでいるらしく、腕を組んで苦々しい顔つきをしている。そこで、千里は助け船というわけではないが先に確認しておきたいことを聞いてみることにした。

「あの、千春さんが訪ねる予定だったのがヴィオさん……で、いいんですよね?」

「ああ、うん。そうなんだ。そうだね、まずは俺たちの目的から話そうか」

 思考がややまとまったのか、千春は自分たちが青年――ヴィオに会いたがっていた理由から話すことにした。

「彼女は千里といってウチの神社のお客さんなんだけど、諸事情あって外国で暮らさせてあげたいんだ。それで、国境付近の街に滞在していた君に、協力してもらえないかと思って」

 大分省いたな、と千里は横で聞きながら真顔を貫いた。彼なりに理由があるのだろうと判断し、口は突っ込まずに聞き手に回る。するとヴィオは湯呑を持ち上げて一口茶を飲んでから、ちらりと千里へ視線を向けた。

「その娘――千里が、お前のところの先祖の生き写しだから、千狸浜では安寧に暮らせない。そういう事か?」

「理解が早くて助かるよ。……それで、どうかな。急にこんなお願いをするのも何だとは思うんだけど、俺も出来る限り助力するから、彼女の生活を手助けしてあげてほしいんだ」

「よろしくお願いします。やる気はあります」

 面接に何も準備せずに挑んでしまったかのような言葉を紡ぎ、千里は頭を下げた。何せ、千春から聞かされていた日程でははたご村の巡回を終えてからベルニュートへ向かうとのことだったので、千春の知人と会うのはあと数日は先の予定だったのだ。

「まあ、面を見た時からなんとなく予想はついていた。構わん、古泉家には世話になっているし先祖の恩もある。で、お前は何が得意だ?」

「……文書偽造です!」

 隣に座っていた千春が、ずるりと斜めに傾く。何を言っているだという若緑色の視線に晒されながらも、千里は至って真面目な顔でヴィオに向き合う。

「ほう。具体的に聞いても?」

「他人の筆跡を真似るのが得意で、地元では相当数の書類を代筆してきました。こちらに来てからは一件だけですが実績があります。ね、千春さん」

「そ、そうだね。その点は……俺も保障するよ……」

 彼の脳裏には、家宝の団扇が浮かんでいることだろう。頼むから突っ込んで詳しいことを聞かないでくれ、という千春の無言の懇願が通じたのか、ヴィオはその点について言及する気は無さそうだ。

 千里が主張した技術は、何も口から出まかせではない。彼女は高校二年の六月中旬から三年の同時期にかけて生徒会に所属しており、書記としてその特技を活かしていたからだ。何かと忙しい会長に代わって千里が彼の筆跡を真似て代筆するのはもはや日常茶飯事で、それ以外にも公にしずらい行為に手を染めている。千里のモットーは清廉潔白というより、『やるならやれ、証拠を残すな』といった類の方向性であり、他者に迷惑をかけずに目的を遂行できるのであれば、多少規則に違反してでも実行するというのが彼女のスタンスである。

「千春、紙と書くものを貸してくれ」

「……はい」

 ヴィオの言葉に、千春は小さく頷いて袖の中から小さなメモ帳を、そしてポケットからは筆ペンを取り出した。それを受け取ったヴィオは、さらさらと何かを書くとペンに蓋をして紙を千里の前に差し出す。

 実際に腕前を見せてみろということだと理解した千里は、真剣な表情で紙面を見つめた。

「あのさ、ヴィオ。もしかして一人で来てる?」

「ああ。テグは街に置いてきたが」

「……あんまり心配かけないようにね」

 千里が受験本番のような面持ちでペンを持つ隣で、千春はヴィオに向けて仕方ないなとでもいうような視線を向ける。どこか年下を相手するかのようなその物言いに、ヴィオは手のひらを上に向けてからりと笑った。

「何だ、お前も一丁前に俺の身を案じるほど成長したのか」

「いや、俺は君じゃなくてテグさんの心配をしてるんだよ。ヴィオが一人でふらふらどこかに行っちゃうから、きっと心配してるだろうなって」

 そういう意味ではないと首を振る千春に、ヴィオはふん、と鼻を鳴らして座卓に頬杖をついた。

「やはり俺をガキ扱いしているじゃないか。生まれたのがほんの数か月早いだけだろう、お前は」

「君って自分の立場をよく忘れるというか、考慮してない節があるよね」

 じとり、と千春はヴィオを軽く睨みつける。そんな視線もどこ吹く風といった様子で、ヴィオはつんとした表情で話を続けた。

「そうだな、今の椅子にこだわり続ける必要もあるまいと考えている。無論、最終手段の話だがな」

「……何の話だい?」

「いやなに、独り言だ。……さて、その顔だと自信作と見える」

 筆ペンを置いて、ヴィオに視線を向ける千里の表情は達成感に満ちていた。ヴィオは彼女からメモ帳を受け取ると、どれどれと自分の筆跡と比べてみる。

 一字一字詳細に観察していったヴィオは、座卓の上にメモ帳を置くと「ふむ」と顎に手を添える。

「想像以上だ。相当数を代筆してきたという主張は過言ではなかったようだな。このまま俺の代理を務めさせてもいいほどだ。まあ、信用が無いから無理だが」

 今度は千里がずっこけた。座っているので正確には転んではいないが、それでは結局仕事に繋がらないのではないかと気落ちする。

「だが、まっとうな代筆業であれば仕事もあるだろう。しかし代筆で食べていけるのは書類が飛び交う場所……ベルニュートでは王都とその他いくつかの都市に限られる。そして、そうした仕事を紹介できるのは信用できる人物のみだ。まずは、お前という人間を把握したい。俺が今滞在している国境付近の街トゥルフで、しばらく別の仕事に従事する……というのはどうだ? 丁度食堂の人手が足りないと相談があった所なんだが」

「勿論大丈夫です! ……ところであの、食堂ってむーたんは立ち入りできますか?」

 千里が働いている間、むーたんを一匹にはしておけない。本物の動物ではなく紙で出来たタヌキだが、無用なトラブルを防ぐために飲食店には立ち入り禁止と言われる可能性がある。もしもそうなったら、再度頭を下げて別の仕事を紹介してもらうしかないだろう。

「問題ない。トゥルフには度々千春も訪れている。街の人間は式神を見ても驚きはしない」

「それならよかったです。むーたん、これから一緒に頑張ろうね!」

「む!」

 式神を傍に置いていることで迷惑がかかることはないというヴィオの言葉に、千里はほっと胸を撫で下ろした。

「で、いつ来る?」

「明日、はたご村に着く予定で、そこで巡回して一泊する予定だから……。村に問題がなければ、最速で明後日ごろかな」

「そうか。俺ははたご村には立ち寄らずそのままトゥルフへ戻るから、お前たちの用事が済み次第来て構わんぞ。どうせしばらくはあの街にいるから、多少遅れても問題は無い」

 二人のやりとりを聞いていた千里は、ヴィオの言葉に疑問を抱いた。

「ヴィオさんって、普段はトゥルフの街にいないんですか?」

「ああ、今は仕事で滞在しているだけだ。もっとも、あの街にはちょくちょく顔を出しているがな。千春たちを鍛えてやるのも、大抵はあそこだ」

「あ、じゃあ千春さんたちの師匠ってヴィオさんなんですか!? こないだみんなの戦いっぷりを拝見する機会があったんですけど、千春さんってば初手で」

 千里が興奮した様子でこぶしを握ると、すかさず千春が千里の口をふさいだ。彼はふるふると首を横に振り、話さないでくれと意思表示している。

「なんだ千春、いきなり年頃の娘の唇を無暗に触ったりして。ベルニュートでは明確な誘惑行為にあたるぞ」

「やたらと艶めかしい言い回しはやめてくれ。別に君の耳に入れるような話じゃないから……」

 そう言って、千春は「ごめん」と小さく言って千里の口から手を離した。それに千里は大丈夫ですよと笑って返し、ヴィオに向き直る。

「頭突きを賊の顎にぶちかましたんですよ!」

「うわあああ!」

「ほほう、手荒な真似が嫌いなお前がなあ。あれだけ穏便に解決したいとか言っておいて、どういう風の吹き回しだ?」

 千里が派手に暴露すると、千春は両手で顔を覆った。隠し切れない頬が薄っすらと赤く染まっているのが見てとれ、ヴィオはニヤニヤと口角を上げる。

「こいつ、才能はあるくせに気質がとことん荒事に向いていなくてな。常に手加減を考えて、相手を傷つけないように対処するという思考が染みついている。だがそこまでしたとなると……()()()()()()()()でも持っていたのか?」

「ヴィオさあ、わかってて言ってるんだよね……?」

 怒りと羞恥が交じり合ったような顔でひくひくと頬を引きつらせる千春を見て、千里はハッと口元を押さえた。

「ご、ごめんなさい。てっきり戦い方を教わったヴィオさんに活躍を報告することを気恥ずかしく思っているんだと思って、出しゃばってしまいました」

「なに、実際その通りだろうよ。千春はどうも人を殴ったりする場面を親しい人間に見られるのが嫌いなようでな。それには兄弟も含まれる。あいつらは、こいつのことを品行方正で温厚篤実(おんこうとくじつ)な人間だと思っているからな」

 それだけの話だ、とヴィオは湯呑に口をつける。彼の言葉の意味がわからなかった千里は、不思議そうに首を傾げた。

「えっと、思っているも何も実際その通りなのでは……?」

「そうだな、半分くらいは元々のこいつの性格だろう。だがあとの半分は、環境によってもたらされたものだと俺は考えている。少なくとも、ガキの頃の千春はもっと自由人だった」

「あ……」

 ヴィオの言葉に、千里は団扇の件を思い出した。あの一件も、千春の子供らしい発想と行動力の結果起きた事件である。あれから兄弟も増えていく内に、長男である千春がしっかりしなくてはと自省するのはごく自然な流れだ。年長者はいつだって、年下を気遣うのが役割なのだから。

 千里が横に座る千春の様子を確認すると、彼は両目を伏せて何やら黙り込んでいる。怒っているというよりは何かを考えている風であるが、先ほどの自分の発言に腹を立てているのだろうかと千里が再び謝罪を口にしようとしたところで、彼は深く息を吐いて座卓に肘をついた。

「せめてもうちょっと『いい人』を演じていたかったんだけど?」

「はは、俺と出会ったのが運の尽きだったな」

「……」

 ヴィオが笑うと、千春は姿勢よく正座していた足を崩して胡坐をかく。数日古泉家で過ごしていて、千春のそんな姿を見たことがなかった千里は、彼がこれまで家ですら自分の素を見せていなかったことに驚愕した。

「えっと、ごめん。ヴィオの言う通り、俺は元々そんなに真面目じゃなくて……。だからほら、君に夜逃げ紛いのことも提案したし、爺様の許可も取らずに祓具も貸そうとしたし……」

「な、なるほど……?」

 驚きではあったが、そう言われると納得できると千里は頷く。歴代でも高い霊力を持つという千春は幼い頃から周囲に期待されていただろうし、弟たちのお手本になれるような存在であろうとしたのは想像にかたくない。

「何だ、その愉快な話は。祓具を貸そうとした?」

「……」

 これは話していいことなのか、と千里は千春の反応を伺う。すると千春は深刻そうな様子も見せず、あっけらかんと言った。

「ああ、ヴィオは定期的にウチに泊まりに来ててセンリ様の事も知ってるから話して問題ないよ。君の能力のことも、トゥルフの街で説明しようとは思ってたんだ」

「それならよかったです」

 千里がほっと息を吐くと、千春はこれまでの経緯を説明した。数日前に突然千里が裏山で発見されたこと、むーたんの支配権を書き換えた事、センリの残した祓具を扱えたことなどを話すと、ヴィオは納得したように腕を組む。

「確かに、今の千狸浜を一人で救おうなどとは荒唐無稽な話だ。重すぎる荷に潰されるのが目に見えている。本来、千狸浜には神園大社からの支援があってしかるべきだが……」

 この数日で、千里は上ノ國のお国事情について少しばかり千鶴たちから教えてもらっていた。上ノ國を治めているのは神園家という皇族で、彼らは神園大社を総括し政治を行っている。上ノ國の各地では神園大社から派遣された神職がそれぞれの神社を管理しているが、千狸浜は違うというのだ。

「残念なことに、神園大社は千狸浜を重要視していない。西からの流民が多いことには気が付いているだろうが、だからといって金と時間、人員を割く価値はないという考えだろう。そして更に厄介なのは、『千狸浜神社は目立ちすぎてもいけない』ということだ」

「……どういうことですか?」

 上ノ國にある神社はほとんどが神園大社の管理下にあるというが、千狸浜はセンリが興した土地に創建されたということで、代々彼女の血を引く古泉家が運営してきた。そこまでは聞いていた千里だが、千狸浜神社が目立ってはいけないという話は初耳だ。

「どの国でも、都というのは優秀な人材を集めている。仮に、千春が神園大社の管理職にでも遭遇しようものなら、問答無用で出向命令が下る。そして、代わりの人材が派遣されてくるだろう。千狸浜の未来になど対して興味もない、熱意の無い人間がな」

「……それは、衰退を加速させる行為ですね」

 だから迂闊に援助してくれとも言えないのか、と千里は唇を噛む。そして、すぐに最悪の展開に思い至った。

「もしかして、古泉家の人たちってほとんどがその出向対象になるんですか?」

「……そうだね。母さん以外は、神園大社の求める能力を備えていると思う。爺様と婆様は、年齢を理由に断れるかもしれないけど」

 それはすなわち、古泉家の離散を意味する。そして、代々千狸浜を管理してきた古泉家が千狸浜を離れれば、復興の指揮を取る人間がいなくなるのだ。

 だから、彼らは千里に救いを求めた。かつての英雄と似通った容姿と能力を持つ彼女に、縋らざるを得なかったのだ。

「前にも言ったけど、君が気に病む必要はないからね。千狸浜の管理者として、古泉家が上手くやれなかっただけの話なんだ。きっとどの代でもかすかな綻びはあったんだろうけど、それがたまたま俺たちの代で明確な亀裂になったってだけで」

「まあ、そうだな。古泉家は優秀な分、里の民に負担をかけないようにと何でも背負いすぎた。業務をある程度細分化して、もっと民に割り振るべきだっただろう」

 誰も気づかない内に、静かに朽ち始めていた。千春の言葉に賛同したヴィオは、やれやれと肩をすくめる。

「何せ、はたご村もこいつらの巡回で安全が成り立っているようなものだ。あちらはトゥルフの街との交易で生活こそ困窮してはいないが、『崩れ社』があのままである以上怨霊の脅威は尽きない」

「崩れ社?」

 初めて聞く単語だ、と千里は目を丸くした。名前の通りであれば特に曰くはないようにも思えるが、どうやらそのせいで定期的な巡回を必要としているらしい。

「ああ、そもそもはたご村のあたりは大昔、ベルニュートの土地でな。手の付けられない獣が暴れまわったことが原因で、放棄した場所だ。それを、当時の古泉家の人間が退治した。だが、元凶の獣が倒されても奴の住処だった森には瘴気が残り、人々の生活に悪影響を与えていたんだ。その対策の為に建てられたのが社だったわけだが、長い時が経ったことで劣化が進み、今ではボロボロの有様というわけだ」

 そういえば千春からヴィオは古泉家に恩があるから協力してくれるはずだと教えられていたな、と千里は思い出した。確かにヴィオもそのような話をしてくれたが、それだと少しおかしい気がするなと考える。ヴィオがはたご村に近いトゥルフの街で生まれ育ったのであればそういった逸話を聞かされてきただろうが、彼は仕事で滞在しているだけだという。千春がわざわざ先祖の行いを彼に話したとも考えにくく、ヴィオがその件で古泉家に恩があるとするのはどこかしっくりこない。

「その社って、修繕はできないんですか?」

「難しいね。何しろ、普通の人は近づけないんだ」

「千春がたびたび巡回に来るのはこいつの霊力が高くて瘴気への対抗策があるからで、並の神職では気軽には近づけん。ウチの悪魔祓いも何度か派遣したが、全く手が出なかった」

 どこかやるせないような雰囲気で息を吐くヴィオに、千里は素朴な疑問をぶつける。

「ヴィオさんって、どんなお仕事をしてるんですか? 聞いてる感じだと、管理職っぽいですけど……」

 千里がそう問うと、千春はちらりとヴィオに視線を送る。その意図に気が付いたヴィオは、彼女の言葉を肯定した。

「そうだな、色々だ。人材の割り振りや各種業務の最終決定のほか、トゥルフでは主に建設業の指揮を取っている」

「……もしかして貴族とかですか?」

「まあ、近いな」

 千里の問いに、ヴィオは正解ではないが概ねそのようなものだと語る。貴族とは言わないまでも強い権力と資産を持った地方の豪族のお坊ちゃんとかかなと考える千里の横で、千春はたしなめるように口を挟む。

「ヴィオ、そんなに省略してたらトゥルフの街に着いた時に彼女が混乱するよ。えっと、ヴィオは周囲の人から『殿下』っていう渾名で呼ばれてることが多いんだけど、気にしないでね」

「ああ、なるほど。お上品な人が遠巻きに姫って呼ばれるようなものですね、私の学校でもありましたよそういうの」

 理解できる風潮だと千里が話すと、ヴィオは興味深そうに視線を上げた。

「学校に通っていたのか? ……では、もっと働き口は多いかもしれんな」

「この辺りって、学校が少ないんですか?」

 上ノ國は都に教育機関があるという話だったが、ヴィオの口ぶりからするとベルニュートでも学校に通う者はそう多くないようだ。

「大抵は国に一つか二つ程度だな。よほど怠惰な学生生活を送っていない限りは、卒業した時点でそれなりの仕事に就ける。千春なんぞ、上ノ國の都である城ケ崎の大学に行っていれば主席確定でゆくゆくは官僚コースだ」

 だがそれは、千狸浜に戻れなくなることを意味している。せっかく実力があるのにそれが公になれば故郷の衰退を助長するというのは、あまりにも酷だと千里は思った。部外者である千里が千狸浜復興の旗頭になってほしいという願いは、至極最もである。

「さて、俺はそろそろ戻るとする」

「え、今から帰るのかい?」

 そう言って、ヴィオは立ち上がった。夕方まではまだ少しあるが今から出るとはたご村に着くまでに日は沈んでしまうだろう。村に立ち寄らずにまっすぐトゥルフの街に帰ると言っていたヴィオを千春が案じると、彼はいいやと軽く首を振る。

「俺の部屋にだ。宿の親父に魚の礼がしたいから泊まってくれと言われてな。折角だから好意に甘えることにした」

「だったら明日、はたご村まで一緒に行かないか?」

 はたご村がトゥルフの街への経路にある以上、途中まで目的地は同じだ。これから先世話になるヴィオと千里の話す時間を作りたいと思ったのか、千春は道中を共にしないかと提案する。

「俺は構わんが、お前はそれでいいのか? 俺がいない方が都合がいいのでは?」

「ヴィオ、ちょっとその件について夜にでも話そう」

 何やら含みのある物言いに、千春は貼り付けたような笑みで返す。それにフッと軽く笑い返して、ヴィオは見送りの為に立ち上がった二人にではな、と告げた。

「……」

 ヴィオを見送った二人は、無言で座卓へと戻る。座る際に視界に入ったヴィオの湯呑が空になっていることに気が付き、千里はふふっと頬を緩めた。

「その、さ。詮索するわけじゃないんだけど……」

「はい」

 千里が元の位置に腰を下ろすと、千春は広縁に立って外を眺めながら問いかけてくる。

「君、ヴィオと会ったことがあるのかい?」

「……多分」

 千春の疑問に、千里ははっきりと答えることはできなかった。何せ、千里がヴィオらしき少年と出会っていたことを思い出したのは彼が目の前から去った後で、その話を聞こうにも千春を交えて今後の生活の相談等をする流れになったからだ。容姿の特徴や彼が口にしていた言葉からほぼ間違いないと思われるが、本人に確認を取っていない以上断言はできない。

「それで気が付いたんですけどやっぱり私って、頭を強打した時に一時的にこっちに来てたっぽいんです。けど私が記憶してるのは二回だけなので、流石に三度目はないかなって思ってます」

「その時も、俺の時みたいにすぐ戻ったのかい?」

「はい、時間にして五分から十分くらいだったかと」

 千春との邂逅と同じくらいだったと千里が話すと、千春は思案するように顎に手を添える。

「けど、何故か今回は数日経っても君はここにいる。……考えても仕方ないか。とにかく、ヴィオの協力も取り付けたし街での生活は安心していいと思う。あの通り、気さくなやつだしね」

 さて、と千春は振り返り、荷物の中から一冊の本を取り出した。

「じゃあ、予定通り残りの時間は勉強にあてよう。ウチでもある程度の基礎知識は婆様に学んだと思うけど、まだ教えられていないことがたくさんあるからね」

「はい、よろしくお願いします」

 暦でいうところの昨日、千里は釣りのほかに彼らから一般常識を学んだ。算術や炊事洗濯はできても、この土地特有の風習や歴史にあまりにも無知だったからだ。

「まずは復習といこう。上ノ國にベルニュート王国、オストア大洋国にローレン・グロシア仙境国、この四つの国家からなるこの大陸の名前は?」

繋紡(けいぼう)大陸です!」

 ほんの少し前まで受験勉強に明け暮れていた千里にとって、また新たに知識を蓄えるのは気持ちの上でやや憂鬱ではあったのだが、この土地の知識を学ぶこと自体は辛い事ではなかった。モニターや紙面と向き合うだけのそれまでとは違い、実際に自分がその文化に触れているということがモチベーションを保つ意味でも大きい。

「うん、正解だ。じゃあ、この四つの国家間に連なる大陸最大の山脈は何と呼ばれているかな?」

「神の棚です」

 千里が二つ目の問題に解答すると、彼女の横で丸まっていたむーたんがふわぁと眠そうに欠伸を零す。そんなむーたんの頭を撫でながら、千里は夕食の時間まで千春と繋紡大陸についての基礎的な知識を反復するのだった。

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