第七話
「はい、じゃあ今日はここで一泊しよう」
そう言って、千春は二階建ての木造建築物の前で立ち止まった。旅行鞄を手に提げた千里は、カンカン帽を少し傾けて建物を見上げる。
「半滝旅館……この辺りって滝があるんですか?」
「うん、旅館の裏手をずっと進んでいくとね。でも足場が悪くて危ないから、近寄っちゃ駄目だよ」
古びた看板を読み上げた千里に、千春は危険だから滝には近づくなと忠告する。千里はそれに静かに頷いて、玄関の戸を開ける彼の後ろについていった。
二人は今、ベルニュート王国の国境近くの村、はたご村と千狸浜の中間地点にいる。千春の巡回に千里が同行するという提案は、あっさりと可決されたのだ。
それというのも、一夜明けても一部の里の人間が縋るように賽銭を持ってお参りに来たからである。しばらく千狸浜を離れ人々の落ち着きを取り戻させるという名目で、千里は無事に夜逃げへの第一歩を踏み出していた。
二人が案内されたのは、二階の端にある椚の間だった。寝室は襖で二部屋に区切られるようになっており、広縁からは山の景色が楽しめる。道中は緩やかな上り坂で、慣れない下駄で少し足の疲れを感じていた千里はふう、と大きく息を吐いた。千里が元々履いていたスニーカーは灯子がきちんと保管してくれていたが、この辺りでは悪目立ちしてしまう。
「すみません、ゆっくり歩いて貰っちゃって」
「仕方ないよ、慣れない履物だと足に負担がかかるものだし……。少し宿の人と話してくるから、ゆっくり休んでてくれ」
そう言って、千春は一度部屋を出ていく。宿の人間と話すという彼の言葉に、千里は少々不安を覚えた。というのも、部屋を取る際に金銭的な負担を負担を減らそうと受付で少々強引な手を使ったからだ。
端的に言うと、二部屋取ろうとしていた千春より先に口を出し、より安い夫婦用の部屋にすると千里が先んじて発言した。千春は驚いた顔をしたが、従業員はそんな様子に気づかずにてきぱきと作業を進め、二人は部屋の鍵を預かった。
そのことで千春が旅館側に働きかけるのではと考えたが、もし彼がそうまでして部屋を変えるというのであればそれ以上は干渉できないと千里は諦めるつもりだった。旅館には他の客も泊まっているようで、人目が気になると言われれば宿泊費を出してもらう以上、千里に意見を通す権限はない。
一人になった室内で、千里は広縁からの景色を楽しみながら頭の中を整理し始める。
二度朝を迎えても、千里が元の場所に戻ることは無かった。この日は千里が千狸浜にやってきて三日目にあたるが、未だ夢から覚めるような兆しはない。意識ははっきりしてるし、起こる出来事も人々との会話にも矛盾なく、現実と変わらないように思える。
夢だと認識していないだけで、夢を見ているという可能性はある。何せ、異世界だのタイムトラベルだのは創作物におけるシチュエーションでは珍しくないものだ。ただ、言葉では形容しきれない部分で千里は理解していた。これは現実で、自分は今日本ではないどこかにいる、という事を。
「むー……?」
「あ、もう出てきていいよ。ほらむーたん、景色が綺麗だね」
体の大きさを変化させて千里の衣服のポケットに身を潜めていたむーたんは、周囲に他の人気がなくなったことに気がついたのか控えめに顔を覗かせた。むーたんは紙で出来ているので、毛や糞などで迷惑をかける恐れはない。千里はむーたんを膝の上に載せると、いつも通りの大きさに戻した。
千里はこの『夜逃げ』において、むーたんをどうするかという事に少し悩んでいた。元は千春の式神であるが、千里が無意識の内にむーたんを眷属にしたことで、主従関係は完全に変化してしまっている。無論、ここでの生活が続くのであれば霊力を供給し続けてむーたんと日々を過ごしたいと考えているが……。
「もしあっちに帰れたら、むーたんは折り紙に戻っちゃうのかなあ」
はあ、とどんよりしたため息が漏れる。むーたんの角ばった尻尾を撫でながら、千里はぼんやりと窓の外を眺めた。
何せ、彼女はただの高校生である。小さい頃はおまじないやら占いやらにハマっていた時期もあったが、霊が見えるだとか不思議な力があるだとか、そんな特異性は持ち合わせていない。街中で急に露店の占い師に『呪われている』などと叫ばれたことはあるが、家族にも自分にも特別不幸が訪れたことはなく、幸いなことに健康体だ。
疑似的な生命とはいえ、千里から見てむーたんは愛くるしく愛おしい存在だ。前足を硝子に押し付けて景色を堪能する横顔は癒しそのもので、これからの異国生活での不安もむーたんがいればへっちゃらだとさえ思う。
仮に自分が元の場所に帰れた時、むーたんはどうなるのか。ここまでの道中で千春に尋ねた結果、『むーたんは千里以外の霊力干渉を受けないので、霊力が尽きたら自然と紙に戻るだろう』という結論に至った。
「そもそも、むーたんってこっちで生まれたから私の地元には一緒に行けないかも?」
そうなれば、いずれ別れは必定だ。突然の出会いではあったが、別れもまた突然訪れるのかもしれない。悩んだ所で答えが出るわけでもないしと自分に言い聞かせ、千里は脱いだ帽子を旅行鞄の角に引っ掛けた。
「……いるかい?」
丁度その時、千春が扉を開けて室内に入ってくる。しかし彼は千里に呼びかけただけで、靴を脱いで上がろうとはしなかった。
「はい、どうしました?」
「知人に会えるかもしれなくて、ちょっと外に出てきたいんだ。旅館の敷地内と庭辺りまでなら見学していていいから、悪いんだけど暇をつぶしていてもらえるかな。夕食までには帰ってくるから」
「わかりました。お気をつけて」
千里が顔を出すと、千春は知人を探したいと言って再び部屋を出ていく。その知人というのがこれから世話になる予定の隣国の人間なのか、はたまた別人なのかはわからないが、千里はすくりと立ち上がってむーたんを見下ろした。
「せっかくだから、少しお散歩しよっか」
「む!」
時刻は十五時を過ぎた頃合いで、暗くなるまではまだしばらく時間がある。足に疲労は感じるが一歩も歩けないというほどではなく、千里は意気揚々と館内探検に繰り出した。
「この辺りは桜が咲いてないんだね。千狸浜神社は一面に植えてあったけど」
旅館の裏手にある庭を通り過ぎると、踏みならされて自然にできた道が細々と続いてる。この道を行けば滝があるようだが、そこまで足を伸ばすことは千春に止められているので千里は一度立ち止まった。
「そうだむーたん、千狸浜には昔、たくさんのタヌキがいたらしいけど、むーたんって野生のタヌキと意思疎通とかできるの?」
地面に落ちていた小枝を拾い、千里は土の上をなぞって二匹のタヌキを描いた。片方はむーたんで、片方は普通のタヌキだ。二匹の間に吹き出しを付けたし、会話はできるのかとむーたんに問うと、むーたんは地面のらくがきを見ながら人間のようにこくこくと頷いた。
「むむ!」
「できるんだ。元は折り紙だけど、ちゃんとタヌキとしての性質が反映されてるんだね」
それならば野良タヌキに遭遇してもトラブルになることは無さそうだなと安堵して、千里は曲げていた腰を伸ばす。すると、正面の道から誰かが歩いてくるのが見えた。
滝の方からだ、と千里はまじまじとその人物を観察する。背格好からして男性で、手には何やら釣り竿とバケツらしきものを抱えている。容貌からして釣りをしてきたらしいと判断した千里は、釣りといえばと昨日の出来事を思い出した。
千狸浜は、ほぼ限界集落と化している。里の人間の多くは高齢で、店らしき店もほとんどなく、それぞれが自分たちの畑で取れたもので食いつないでいるような状況だ。肉を食べたければ自分で狩るか、隣の村まで行って買い付けてくるしかない。ただ、漁に出る船がないとはいえ、海や川で釣りをして魚を捕ることはできる。
中には外出が難しい里の民もおり、そうした人々の為に主に四兄弟が仕事の合間を縫って釣りに出かけ、魚を獲ってくるのが日常だという。千狸浜にいるうちに少しでも役に立ちたいと千里も釣りで食料を確保すると名乗り出たのだが、悲しいことにボウズで終わった。
「ちょっと釣りのコツとか聞いてみようかな。滝で釣りしてるってことは、多分素人ではないよね」
「む」
昨日の悔しさを振り返っているうちに、男性は大分近くまで歩いてきていた。千里は声をかける前にむーたんをどうしようか、と一瞬考えるが、結論が出るより先にむーたんが駆け出していく。
「あっ、むーたん!」
千狸浜では縁起のいいタヌキだが、他所だと害獣扱いだと千夏が言っていた。釣り人がタヌキ嫌いじゃないといいけどと思いながら、千里は駆け足でむーたんを追いかける。
「すみません、その子私のタヌキで……」
「……」
深めに被られた麦わら帽子の下で、ロイヤルパープルの瞳がまんまるに見開かれる。タヌキがどう見ても本物ではないこと、一般的に飼育される生き物ではないことへの驚きと捉え、千里はあまり気にしなかった。それよりも、彼の容姿の方が気にかかったのだ。
帽子のせいではっきりとは見えないが、頬の横に落ちる髪は青みがかった灰色で、浅黒い肌はこの辺りでは珍しく映る。年は二十代前半から中半といった雰囲気で、服装は至って普通の長袖のシャツにズボンだ。彼は駆け寄ってきたタヌキから視線を上げると、これまた絶句した。
「……?」
険しい、とも取れる表情で、青年は千里の顔を見つめる。帽子を部屋に置いてきたため、千里の顔を隠すものは何もない。もしやセンリ様との関係性を疑われているのではと考えた千里は、どう言い訳しようかと考え始める。すると、青年はバケツを地面に置いて浅く息を吐いた。
「まさか、こんな所でまみえるとはな」
「あははー、よく間違われるんですよ~。でも本当にちょっと似てるだけで御本人とは縁もゆかりもございませんので、お気になさらず……」
青年の足元のむーたんをひょいっと抱き上げ、千里はその場から退散する判断をした。しかし、青年は千里の言葉を聞くと考え込むように釣り竿を傾け、納得したように小さく頷く。
「ああ、なるほどな」
「はい、ではそういう事で……」
「ではその式神は?」
後ろを向きかけたところで、千里はぎくりと身体を強張らせる。むーたんは千里の腕の中から顔を出すと、挨拶するように青年に向けて片手をあげた。
「ほう、随分と人間らしい仕草をするタヌキだ。芸を仕込むのが上手いな」
「いえ、私は特に何も……」
「何もしていなくてこれだけ愛嬌があるのなら、大道芸でもやれば意外とウケるかもしれんぞ」
青年の言葉に、千里はむーたんを見下ろす。確かに、むーたんは器用だ。基本は四足歩行だが、やろうと思えば二足歩行も可能だし、身軽で身体能力も高い。移住先のベルニュート王国で需要があるだろうかと千里は真面目に考え始めたが、ハッと顔をあげて青年を見上げた。
「もしかしてお兄さん、ベルニュート王国の人だったりしますか?」
「そうだが」
「……じゃあもしかして、千春さんの知り合いだったりもしますか?」
つい先ほど出かけていった千春は、知人に会えるかもしれないと言っていた。あの言い方だと、この辺りで目撃証言があったがどこに行ったまでは定かではなかったと考えるのが自然だ。釣り竿を持っていたという情報さえ仕入れていれば、捜索場所は水辺に限られる。しかし滝の付近は危ないという話だったので、千春は別の場所を捜索に行った可能性がある。
そこまで思案して問いかけた千里に、青年はあっさりと頷く。
「ああ、確かに知己だが。……そろそろこちらも質問してもいいか?」
「あっ、はい!」
「俺の事を覚えていない、ということでいいんだな?」
バケツの中で、魚がぴちゃりと跳ねた。やけにその音が耳に残り、千里の意識は目の前に人物へと集約する。
少し前に、似た感覚を味わったのだ。身体のどこかがぞわぞわするような、精神が研ぎ澄まされたような不思議な感覚を、覚えている。けれど何かが足りなくて、根本まではたどり着けない。説明しようのない焦燥感に駆られる彼女へ、青年は続ける。
「他人の空似ということであれば、謝罪しよう。ただ、俺が十八年前に出会った人間にそっくりだったものでな」
すまなかった、と付け足して、青年はバケツを持ち上げた。するりと横を通り抜けていく彼の背中に、千里はなんと声をかけていいか戸惑う。
いつだったかが、思い出せない。ただ確かに、一度だけではなかったはずなのだ。千春に言われるまで彼と出会ったことがあったのをすっかり忘れていたように、十二歳の七夕の日以外にも、同じような出来事があったはずだ。
いつだっけ、と額を押さえる。十二歳、十三歳、十四歳……と頭の中で一年ごとの思い出をざっと並べていくと、唐突に目の前の霧が晴れたような気がした。
二度目は、秋だった。
その日、少女は友人と一緒に温水プールへ出かけていた。高校受験を控えた年であるが、冬になる前にどこかで遊ぼうと相談した結果、新しい遊具が増えたというプールに行くことになったのだ。
しばらく水遊びを堪能したころ、誰ともなく喉が渇いたと言い出す。一度上がって何か飲もうという流れになった時、先にプールサイドを歩いていた友人の一人が、つるっと足を滑らせた。
彼女は、とっさに腕を伸ばして壁近くの手すりを掴んだ……つもりだった。しかし、彼女が掴んだのは壁に設置してある手すりではなく、後ろに立っていた少女の腕だったのだ。
唐突に強い力で引っ張られた少女は、足の踏ん張りがきかずに横滑りに倒れこむ。そして倒れこんだ先の手すりに側頭部を強打し、少女は意識を手放した。
『お前のような人間は初めて見た』
幼い子供の、驚きと呆れに満ちた声が室内に響く。その声で、少女は顔を上げた。
『えっと、それは一体どういう……?』
言葉の意味が分からなくて、少女は座っている自分とそう変わらない高さにある少年の目を見つめた。
深い紫色は、少し苛立っているようにも見える。綺麗だなとしばしそのまま眺めていると、少年は腰に手を当てて再び口を開いた。
『主人をさしおいて、先に風呂に入るメイドなど見たことも聞いたこともないぞ』
『……お風呂? メイド?』
はて、と少女は首を傾げて周囲を見回す。そういえば自分はさっきまで温水プールにいたはずだが、よくよく見れば様子が違う。視界が開けていて比較的単調な内装であったプールは、いつのまにか豪奢なリゾートスパのように様変わりしていた。獅子像の口から流れる湯が絶え間なく広い浴槽に行き渡り、至る所に青々とした観葉植物が飾られている。
温水プールにこんな場所あったっけ、と側頭部に指を当てた少女は、そこでようやく思い出した。
そういえば、プールサイドで転んで頭をぶつけた気がする。であれば、これは夢だ。
『もしかして、私がお背中を流す係ですか?』
『お前、自分の当番すら把握していないのか? メイド長も変わった新人を連れてきたな……』
夢だと確信した少女は、改めて少年を見つめる。湯気ではっきりとは見えないが、青みがかった灰色の髪と深い紫色の瞳、それに浅黒い肌が特徴だ。風呂場という環境だからか、腰に巻いた布だけが身体を隠す唯一の存在である。まだ幼いが故なのか、自分の身体を見られることも他人の身体を見ることも抵抗は無さそうだ。夢とはいえ水着を着ていてよかった、と少女はひっそりと安堵する。これで全裸だったものなら、性犯罪者扱いされてもおかしくないだろう。
『すみません、では洗い場まで向かいましょう』
どうやら高貴な雰囲気を漂わせる少年に仕えるメイドという設定らしいと判断し、少女はそれっぽいことを言ってみる。すると少年はそれでいいとばかりに頷き、先陣切って歩き始めた。
『しかし、まさか異国の人間だとは思っていなかった。お前、どっちから来たんだ?』
『……どっち、とは?』
かわしにくい質問が来たな、と少女は周囲を観察しながら考えた。少年が立ち止まった場所は、公衆浴場のようにいくつかの設備が並んでいる。鏡の下の台には見慣れない瓶と布がいくつか置いてあり、少女はこれらが石鹸や洗髪剤、風呂スポンジに相当するものであると考えた。
少女は傍らに置いてあった風呂椅子を、少年の座りやすい位置へ運ぶ。気づくのが遅いと言わんばかり少し口をムッとさせ、少年は腰を下ろした。
『お前はどう見てもベルニュートの人間じゃないし、かといってオストア人にも見えない。特徴から言って東か西、だからどっちの人間だ、と聞いた。それで、どっちなんだ?』
『ひ、東です』
少年の問いに、少女は苦し紛れにそう答えた。住んでいるのは東日本だから嘘ではないなと自分に言い聞かせ、湯桶にお湯を貯めていく。
『戦から逃げてきたのか?』
『……まあ、大体そんな感じです。このところみんな目が血走ってて、中には他人を蹴落とそうとする人までいる始末で』
ありていに言えば受験戦争も戦みたいなものだろう。勝手にそう解釈して、少女は少年の話に頷く。
『……お前はどうなんだ?』
『え?』
『自分が座りたい席に、お前より無能が堂々と座っていたら、蹴落とさないのか?』
その問いには、およそ幼子らしくない葛藤が垣間見えた。どういった意図で問われたのかわからないが、少女は瓶の蓋を開けてタオルに垂らす。
『話し合いで解決せず、正々堂々と対決できる環境があるなら、自分の実力を示すと思います』
『正攻法で解決せぬ場合は?』
『んー、状況にもよりますけど譲っちゃいますね。そこに固執しているよりも、別に落ち着ける場所を探すかもです。案外、座りたかった椅子よりも座り心地のいい野良椅子が見つかるかもしれません』
どうしても座らなければならない理由がない限り、あまり執着はしないだろうと少女は返す。少年の問いに表面上の言葉だけではない深い意味があることには薄っすら勘付いていたが、彼が詳細を話そうとしないのであれば無暗に首を突っ込むべきではない。
『野良、椅子? ……変わった表現をするな。椅子に野良も飼いもあるまい』
『そうでしょうか、世界は広いですからね。野良の椅子くらい、どこかにありますよ。痒いところはございませんかー?』
『……』
タオルを泡立てて少年の背中に触れると、彼は押し黙ってしまった。五、六歳にしか見えないが大人と遜色ない言葉遣いをするその背中は、まだ小さくて頼りない。しかし成長したらきっと立派な人間になるのだろうと、少女は口角を上げながら手を動かした。
『……国が落ち着いたら、戻るのか?』
ぽつりと、少年は呟く。だが、返事は無い。
ふっ、と背中から温もりが消えた事に気がついて彼が振り返ると、そこにはすでに誰もいなかった。ただ、泡の付いたタオルだけが床に落ちている。
少年が無言で湯桶の中に残っていた湯を身体にかけると、混じり合った泡とため息がゆっくりと排水溝に吸い込まれて行った。
あの時の男の子だ。千里がそう思い出した時、彼はすでに視界から消えていた。追いかけるべきか、と千里はしばし逡巡する。
何せ、千春の時と全く同じ状況なのだ。頭を強打して、気が付いたら違う場所にいた。夢だと思い込み、気ままに振舞って、そしてその出来事を綺麗さっぱり忘れてしまう。
「向こうにいた時は、頭をぶつけたことは覚えてたけどこんな体験してたなんて少しも知らなかった。あの時に出会った人と関わると、思い出してる感じ……?」
そして、不思議なことはほかにもある。彼は、十八年前と言った。それは、千春から聞いたのと同じ数字だ。少年と出会ったのは風呂場であったので季節はわからないが、ともあれ千里は同時期に彼らの前に現れ、消えたことになるらしい。
「二度あることは、って言うし、もしかして私が覚えてないだけで他にも会ったことがある人がいるのかも……。でも、ほかに強く頭を打ったことなんてあったかな」
「むー?」
ぶつぶつと独り言を言う千里を、むーたんは不思議そうな顔で見上げる。とりあえず旅館に戻ろうと決めて、千里は足を動かした。
旅館までは目と鼻の先だ。さきほどの青年はいないかと千里が首を巡らせていると、一階の玄関のすぐそばで千春が誰かと話しているのが見えた。
「ヴィオ、なんでここに?」
「先日ここの親父に差し入れを貰ったからな。街の住人からの預かりものもあったし、まあ息抜きだ」
さっきの人だ、と千里は廊下の角に隠れて様子を伺う。部屋に向かう為には二人のすぐ横の階段を上らねばならず、かといってまた旅館を出るのは挙動不審だ。聞き耳を立てるような真似をしてはならないと、千里はむーたんを床に置いて両手で自分の両耳を塞いだ。
会話が終わるまでこのままでいようと彼女は目を閉じたが、しばらくすると足元に違和感を覚えて目を開ける。千里の足に寄り添っていたはずのむーたんが、いつのまにか姿を消していた。
「あれ、むーたん? 千里はどうしたんだい?」
「うーむ、どこからどう見てもお前の式神にしか見えん。一体どういうカラクリだ? あの娘が主のように見えたが」
がっくりとうなだれ、千里は壁によりかかる。むーたんは堂々と二人の前に姿を現し、愛嬌よくしっぽを振っていた。
「えっと、ご歓談中にすみません……」
こうなっては仕方ないと腹をくくり、千里はひょこりと顔を出す。ちらりと青年の顔を伺うが、彼は先ほどの出来事を千春に共有する気はないのか、彼への質問の答えを待っていた。
「うん、元は俺の式神だったんだけど彼女によく懐いててね。正式に譲渡したんだ」
千春の返答に、千里はふうむと心の中で首を傾げる。千春は今、誤魔化した。彼の言葉は嘘ではないが、千里がむーたんの支配権を書き換えたという真実を隠している。千里が夜逃げに至った理由を踏まえれば上ノ國では詳細を伏せるものだろうが、千里の記憶が確かであれば青年はベルニュート人だ。であれば、仮に千里の能力の一端が知られたところで困ることもないだろう。
「で、お前はその娘と新婚旅行でもしてるのか?」
「ヴィオ、君の冗談はわかりにくい。……街に着いたら説明する気だったんだけど、今って時間あるかい?」
ちら、と千春は青年の持つ釣り竿を見やる。すると、青年は「ああ」と言って釣り竿に視線を落とした。
「ここの親父から借りたんだ。返してくるから、部屋を教えてくれ」
「椚の間だよ。じゃあ、先に行ってるね」
どうやら、部屋で話をすることになったらしい。千里は青年にぺこりと頭を下げると、むーたんを抱きあげてそそくさと階段を上った。
「千春」
「ん?」
その後を追いかけようとする千春を、青年は呼び止める。
「お前、あの娘といつ出会った?」
「……え? いや、つい数日前のことだよ。だからそういう勘繰りはよしてくれ」
「千春」
二度目の呼びかけは、やや威圧的だった。どこか怒気を孕むかのようなその声に、千春はゆっくりと目を細める。
「……もしかしてさ。ヴィオも、『初めまして』じゃないのかな」
「俺『も』、ね。なるほど、よくわかった。面を見た時から予感はしていたが、どうも無関係ではいられんらしい」
そこまで言って、青年は千春に背を向けて廊下を進んでいく。彼が角を曲がってその姿が見えなくなるまで見送っていた千春は、ぽりぽりと頬を掻きながら深いため息をついた。