第六話
夜の縁側は、少し肌寒かった。用意してもらった羽織に袖を通して、千里は縁の下の草履へ手を伸ばす。向かう先は、蔵よりも奥にある離れだ。普段はあまり使われないというその場所で、彼女は待ち合わせをしていた。
ふと空を見上げると、そこにはいつもと何ら変わらぬ星が瞬いている。もしかしたら地元の星空とは何か違うのかもしれないが、その分野に興味が無かった彼女には同じような景色に見えて、特別な感情は抱かなかった。
もしもどこか、決定的に違う何かがあれば、もっと気持ちを切り替えられたのかもしれないと心のどこかで思う。現実ではあり得ないことはたくさん見たけれど、それらは彼女の認識を決定づけるには少しばかり足りなかった。
「お待たせしました」
千里が小声でそう声をかけると、先導していた灰色の鼠が建物の影に消える。入れ替わる様に姿を見せた千春は、無言で離れの縁側を指した。
「まずは、現状の確認をしよう。今、この千狸浜は存亡の窮地に立たされている。そして、君は千狸浜の英雄であるセンリ様と似た容貌と、性質を持って現れた。この地の人々が君を知れば、必ず君に期待を寄せ救世主扱いをするだろう」
「……はい」
だから、その状況が決定的になる前にここを離れる。昼間にそういった提案を持ち掛けられ、千里は頷いた。年配の人々が神社に詰めかけ、救いを求める姿を目の当たりにして、その期待を背負えないと思ったのだ。
「夕食の時に話に出たけれど、明後日俺は隣のベルニュート王国との国境付近の村に巡回に行くんだ。で、丁度俺の友人がその近辺に滞在してる。だから明日中に君を巡回に同行させる流れに持って行ければ、後はそのまま国境を超えるだけだ」
「けど、私が千春さんのお仕事に同行する自然な理由って何かありますかね?」
古泉家の人間が、定期的に近隣の村や町を訪れて怨霊退治や霊障に対処していることは夕食時に聞かされている。昼間のように里の中であれば案内してもらうという名目も立つというものだが、国境付近の村に向かうとなると馬車を使っても一日はかかるらしい。それでは気軽に同行するなどとも言い出しにくく、源太郎たちの共感を得られないのは想像にかたくなかった。
「上手くいくかどうかはわからないけど、里の人たちの興奮を抑制する意味でしばらく君に千狸浜を離れてもらうっていう提案をしてみるつもりだよ。……心苦しいけど、もしも明日誰かが今日みたいに訪ねてきたらそれも利用させてもらう」
本意ではないが、という千春の言葉に、千里も静かに頷いた。
「千春さん、聞きたいことがあるんですが」
「……何だい?」
縁側に腰かけて、千里は立ったままの千春を見上げる。遠くに見える月は雲に隠れようとしていて、紡ごうとしている言葉を飲み込んでしまいそうな自分と重なった。
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「え?」
「だって、これって私にしか得がないと思うんです。私が夜逃げみたいなことして隣国で暮らし始めたら、途中まで一緒だった千春さんが責任を問われますよね」
長い事千狸浜を守ってきた古泉家の人間として、これは裏切り行為に近い。里を守る者である彼は、千里に二代目の万化の巫女として千狸浜を救ってくれないかと頼まなければならない立場なのだ。
千里に断られたのならまだしも、千春は千里の揺らぐ心に寄り添って責を負う必要は無い、すぐにここを離れればいいと助言すらしてしまった。千春の行動を知った際に古泉家の面々がどういう反応をするか千里には想像できないが、彼が勘当されるようなことがあれば心が痛むどころの話ではない。
「うーん、里の人にはもしかしたら恨まれるかもしれないね。でもそれは、俺たちの力不足が招いた事態だから仕方のない事だと思う」
「……千春さんが千狸浜を追われるようなことになりませんか?」
「俺? いや、それは無いと思うけどな。俺がいなくなって困るのはウチの人間じゃなくて里の人たちだし」
あっさりとそう告げる千春に、千里はどういう意味なのかと視線だけで問いかける。
「自分で言うのもなんだけど、俺はセンリ様の時代から数えても霊力が高い方で……。単純な怨霊退治だけであれば、爺様や婆様よりも得意なんだ」
「そっか、古泉家の人たちは自分で怨霊に対処できるけど一般の人々は誰かの助けが必要なんですね」
古泉家で一番霊力が高い千春を追い出すという事は、自分たちの身を危うくすることと同じだ。ただでさえ手が回っていない状況で、そのようなことをするとは考えにくい。ただ、時には間違っていることに気づかずに感情のままに行動する人間もいる。絶対に千春に迷惑がかからないなどとは保障できないだろう。
「でも、家族の皆さんにはあらぬ誤解を受けちゃいますよ」
「誤解って?」
「その、家の立場的に芳しくないぞー的な……」
どう考えても褒められた行動ではないだろうと千里が視線を彷徨わせながら話すと、千春は悩ましげに腕を組む。
「別に問題はないかな。俺が家の方針と意見が違うってだけだし」
「……千春さんって意外と頑固なんですね」
温和な雰囲気を纏っている彼ならば、家族の意向と反対の意見を持つ自分に対して多少なりとも負い目のような感情を抱いているのではと千里は考えていたが、どうやらそうではないらしい。千春には確固とした意志があり、それを貫くことに戸惑いはないようだ。
「我儘、とも言うけどね。俺は家族の意思よりも、君の意思よりも自分の願望を君に押し付けたんだから」
「……」
その言葉に、千里はすぐに反応を返せなかった。そう、千春が何か明確な意図があって千里の夜逃げを手伝おうとしていることには、とっくに気が付いている。ただその理由が不透明で、それが気にかかるのだ。
そこに踏み込んでいいのかという、葛藤がある。聞いてみたい気持ちとは裏腹に、後戻りできない深い沼に自ら身体を沈めるような、そんな予感があった。
「千春さんの願望って?」
それでもいいか、と千里は気軽に踏み出した。何となく、わかっているのだ。これは夢ではなくて、これから先自分はこの場所で生きて行かなければならないのだと、根拠も何も無いがただ漠然と理解している。
だったら、目の前の疑問から逃げても仕方ない。明日目が覚めた時、まっさきに視界に入るのが見慣れた景色でなかったのならこれを現実として受け入れるだなんて、そんな遠回りをしなくたっていい。
千里の問いに、千春は少し考えるように視線を外す。言おうかしばし逡巡して、彼はにこりと微笑む選択をした。
「恩人である君が余計な重圧を背負わずに平和に過ごしていけること、かな」
「……」
誤魔化した、と千里は訝しげな視線を隠さずに千春に向ける。しかし千春はその無言の不満にも穏やかな笑みを浮かべるばかりで、これ以上自分の腹の内を晒す気はないようだ。
「恩人、ですか。……どちらかと言えば共犯じゃないですか?」
家宝の祓具を破損してしまった千春と、センリの署名を真似して霊力を注ぎ修復した千里。古泉家の面々はその事を知る由もなく、事実上二人だけの秘密となっている。
「おっと、確かにそうとも言えるね。君には俺の弱みを握られているわけか」
「千春さん、以前私に会ったことがあるって家族に伝えてないですよね。私がまた突然消えるかもしれないって言えば、少なくとも古泉家の人たちは千春さんの行動に理解を示してくれるかもしれないですよ」
千里が千春の夜逃げしないかという誘いに乗ったのは、それも大きな要因だ。いくら千里が覚悟を決めたとて、この場所に来たのは彼女の意思ではない。幼い千春と出会った時のようにまた急にいなくなるようなことがあれば、彼らにぬか喜びをさせるだけになってしまう。
「さっきも言ったけど、俺は家族の理解を得ようとは思ってないよ。君が昔の事を家族に話したいというなら俺に止める権利はないけど、どうしてもというわけじゃないのなら黙っていてくれるとありがたいかな」
「……理由を聞いてもいいですか?」
幼い頃の失敗を家族に暴露されたくない、などといった理由ではないことは、肌で感じている。千春が過去の出来事について口を閉ざす理由は何なのかという千里の問いに、彼はきょとんとした顔で答えた。
「え。だって君が俺に言ったんじゃないか。『内緒だよ』って」
「……」
その言葉に、千里は腕を組んで斜め上を見上げた。そしてたっぷり数秒悩んだあと、ぽんと手を叩く。
「あ、なるほど! ……って、そういう意味じゃありませんよ! 私が言った内緒っていうのは、団扇の件だけで千春さんと出会ったことまでは含まれてないですって!」
「ああ、そうだったのかい? でも、俺としてはやっぱり自分から皆に話す気にはなれないかな」
だからそれはどうしてなんだ、と千里は話が振り出しに戻ってしまったことに肩を落とす。そんな彼女を見て、千春はくすりと笑った。
「その内わかるよ、きっと」
「はあ、ならいいですけど……」
話は他にもある、と千里は背筋を伸ばす。
「あの、私自分だけの祓具が欲しいと思ってて」
「うん」
「なんかこう、特に価値の無い不要なものとかあったりしませんか。処分しようと思ってた竹箒とか……」
ガラクタ同然のもので構わないと話す千里に、千春はよくわからないというように顎に指を添える。
「ええと、流石にボロを使うのはどうかと思うよ。いくら祓具でも、耐久性ばかりはどうにもならないし」
「けど、私には代わりに提供できるものがありませんから……」
何せ身一つな状況だ。夕食時に聞いたところ、千里の荷物は身に着けていた衣服だけだったらしい。それも冬用の厚い生地で、この季節にはそぐわないものだ。どうしても衣類に関しては借りるほかなく、食事も寝床も用意して貰っている始末である。
「提供、か。昼間の件は君が対価を得る十分な活躍だったと思うけどね」
「むーたんのことですか?」
常に千里の傍にいようとするむーたんだが、今この場にはいない。何でも式神を始終行使していると霊力の消耗が激しいらしく、安全な場所では休ませておくことにしたのだ。今むーたんは、千里に用意された部屋の布団の中でぬくぬくと眠りについている。
「確かに、むーたんを巨大化させてからはあの人たちもすっかり大人しくなりましたけど……」
「俺が彼らを運ぶこともできたけど、霊力を大量に消費するからね。君はぴんぴんしてるけど、それってかなりすごい事だよ」
「はあ、一時的に疲れは感じるんですが少し経つと元通り……といった感じです」
意図せずむーたんを巨大化させてしまった際に感じた疲れも、歩いている内に気にならなくなっていた。いまいち霊力を消費するという感覚が掴めないが、考えても仕方ないかと千里は考えを改める。
「私の霊力って、私がきちんと操れれば使い道はありそうですよね」
「……そんなことは考えなくてもいいと思うよ。君は普通に、平穏に暮らしていきたいんだろう?」
自分の能力を活用したいと口にした千里に対し、千春は今目指している方向性とは違うことをやんわりと指摘する。確かに、千春の言う通りではあった。万化の巫女を名乗るのであれば成長は必須だが、そうでないなら頭を悩ませる必要などないのだ。
「うーん、ちょっと違います。もし私が意識的に霊力を操れるのであれば、センリ様の後を継ぐっていう選択肢も私の中では現実味を帯びるんです。ただ、現状の私はいつここから消えるかもわからない上に力も上手く使えないわけですから……」
だから周囲に無駄な期待を抱かせる前に、ここから消える。それが一番事を荒立てない方法だと考える千里に、千春は困ったように眉を下げた。
「なるほど、もしも君が自分の性質を自在に扱えるようになったら、二代目の万化の巫女として矢面に立つことはやぶさかではないってことだね。うん、じゃあ俺は君に今後霊力に関しての助言はしないでおこう」
「それって、私がセンリ様の後を継ぐのにふさわしくないからですか?」
「ううん、さっきも言ったけど君の平穏な生活の為だよ」
にこり、と千春は笑顔を見せたが、その表情は穏やかというよりは少し無機質で、彼の強い意志を感じる。千里はやや迷ってから、疑問に思っていたことを口にする。
「でも、千春さんは最初私に祓具を貸してもいいって言ってましたよね。それって、私の平和な生活を願うっていう話と矛盾してませんか?」
「あー、うん。あの時は俺もちょっと混乱しててね。とにかく、今後の生活については俺が責任をもって手配するから、君は難しく考えすぎないようにね」
あからさまに話をはぐらかしてくる千春に、千里も負けじとガンを飛ばすようにじっとりとした視線を向ける。
「何ですか、千春さんの責任って」
「これでも神社の跡取りだからね」
「ぜんっぜん説明になってないですよ。……ちょっと待ってください、閃きました」
幼少期のことで千里に恩を感じているので、千春は平穏な生活を送る協力をしてくれるという。そこに疑いを抱いているわけではないが、彼が自分を千狸浜から遠ざけたいという思惑とどうもその動機が一致しないと千里はしっくりこなかった。しかし、突如として彼女に天啓が訪れる。
「さては千春さん、好きな人がいますね」
「……え?」
「そして、私が千狸浜で出しゃばると千春さんとくっつけようとする風潮が生まれてしまいかねない。それを危惧して、千春さんは私に万化の巫女を名乗ってほしくない……」
古泉家の祖先が千狸浜の英雄センリなのだから、二代目の万化の巫女が現れたとなれば同じように古泉家に迎え入れる流れはごく自然だ。里の人間もそれを望むだろうし、もしも千春と恋仲の女性がいたのであれば千里の存在は目の上のたんこぶだろう。
つまりそういう事だと彼女が推論を展開すると、千春は困惑したように眉を下げた。
「ええと、それだとまるで俺が君を邪魔者だと思ってるみたいに聞こえるような……」
「勿論そんなことは思ってません。千春さんは想い人が肩身の狭い思いをしないように尽力しているだけです。……さらに閃きました」
どうすれば千春が周囲に非難を受けずに自分の目的が達成できるのかと考えていた千里に、またもや着想が舞い降りる。
「私が巡回予定の村で誰かに一目惚れしたことにしましょう! 千春さんのご友人が滞在している隣国の街の人が村に足を伸ばしていたということにして、彼を追いかけて行ったってことにすればいいんですよ」
我ながら名案だと千里は両手を合わせ意気揚々と立ち上がる。これまでの自分には全く無縁の設定であるが、この年頃の少女であれば恋愛に一直線という選択肢はままあることだ。
千里の提案に対し、千春はなるほどと頷く。
「確かに、ウチの家族はそういう話に弱いから有効だと思う。源爺様も婿入りする時すったもんだあったそうだし、母さんも決まりそうだった縁談を蹴って父さんと交際するって決めたらしいし……」
結構情熱的な一族なんだな、と千里は話を聞きながら古泉家の面々の顔を思い浮かべていた。源太郎が婿入りだという話は家族を紹介してもらった時に耳にしていたが、揉めたという話は初耳だ。
「すったもんだって、具体的に何があったのか聞いてもいいですか?」
「当時の千狸浜にはまだ活気があって、ちづ婆様と一緒になりたいって人は多かったんだよ。当時の源爺様は霊力の扱いなんて知らないし、畑と野球場の往復生活だったらしい。草野球をしてる時にたまたま見学してたちづ婆様に一目惚れして、声をかけて交流が始まったんだって」
「ライバルが多かったんですね」
それから千春は、祖父母の馴れ初めについて詳しく説明した。『呼応』という性質を持った千鶴は降霊術を得意としており、その能力の稀さと彼女の深窓の令嬢たる美貌から誘いの声が止んだ日はなかったという。そんな彼女に、源太郎はド直球に好意をぶつけたのだ。
『お前さんと一緒になるには、どうしたらええ?』
『……』
背の高い樹の下で、二人の男女が向かい合っていた。夏の日差しを受けてキラキラと輝く金色の髪をざっくりと切った短髪の少年は、土で汚れた格好のまま目の前の女性を見つめる。
ミルクティーのような色合いをした絹のような長い髪を揺らし、女性は少しだけ傘を傾けた。日差しを遮るための紺色の番傘の合間から、女性の若緑色の瞳が少年を捉える。彼女は口元に笑みを浮かべると、透き通った風鈴のような声で囁いた。
『わたしの友人になって下さるのでしたら、お教えいたしますよ』
『……それは、いわゆるお断りっちゅうやつか?』
『あら、わたしと一緒になるのだけが目的で、友人関係には毛ほども興味が無いとおっしゃるの?』
傷ついたと言わんばかりに、女性は口元を袖で隠して悲しげな表情を浮かべる。そんな彼女に、少年は慌てたように首を左右に振った。
『ち、ちがうわい! ……お前さん、野球に興味があるのか? こないだ、見とったろう』
『ええ、実はそうなんですの。みなさん楽しそうに木の棒を振り回していらして、器用に球を飛ばしていらっしゃるから、見ていて飽きないのです。あの遊戯は男性ばかりのようですけど、女性は参加できないのですか?』
『いや、わしの隣の家のちっこい娘っ子も兄貴と一緒に参加しとるぞ』
少年の言葉に、女性はほっとしたように表情を和らげる。しかし、少年は難しそうな顔をして頭を掻いた。
『ただなあ、お前さんが参加するならきちんとルールを覚えないかん。ポジション、バットの持ち方、色々あるが、まずはわしと一緒にキャッチボール……送球と捕球の練習から始めるのはどうだ?』
『まあ、それは嬉しい。友人と球遊びだなんて、子供の頃以来です』
綻ぶように美しく微笑む女性に、少年は照れたように顔を赤くする。そうして始まった二人の交流は、次第に恋愛関係に発展し今に至るのだ。
「爺様はその後、性質の扱い方を学んで自警団にも参加して、ならず者や怨霊退治をがむしゃらにこなしたんだ。当時の婆様の周囲は二人の結婚に反対だったみたいだけど、婆様が爺様とじゃないと一生結婚しないって譲らずに、まわりを黙らせたらしいよ」
「うんうん、愛し合う者同士が結ばれるのが一番いいですよ。傍から見ていても幸せな気分になれますし」
だから想い人がいるらしい千春の為にもここから去るべきだ、と千里は改めて決意する。若い人たちは生活の為に都に越してしまったというし、もしも相手が里帰りしてきた折にでも千里の存在を知ると厄介だ。古泉家で世話になるなど言語道断だなと千里は異国で暮らす覚悟を決めた。
「千春さん、隣の国って文字は上ノ國と一緒ですか?」
「うん、ただベルニュートはオストア由来の言葉が多く使われる傾向があるかな。野球も元々はベースボールっていう名前だったんだけど、こっちに入ってきてから上ノ國の言葉で呼ぶようになったんだ」
「ああ、それなら多分大丈夫です」
千春の言葉を聞いて、千里はこれまでに感じていた疑問の一つが解消できた。オストアという流行の発信源である国が、現代でいう英語を主言語とする国に相当するのだ。そして上ノ國が日本だとすれば、ベルニュートはまた別の国に類似していると推測する。
「気候とか文化に特徴はあります?」
「ベルニュートの特徴というと、芸術を重んじる国ってことかな。それと砂漠地帯が多くて、こっちとは気候が全然違うね。俺の知人が滞在している町は国境付近だからそれなりに雨も降るけど、王都の方は常にからっと晴れているらしいよ」
「なるほど、砂漠地帯……」
それは少々予想外だったな、と千里は考え込む。何せ、彼女が生まれてから十八年過ごしてきたのは北国だ。身体が暑さに慣れていない為、高温の環境にはやや不安がある。
「千春さん、寒い国ってあります?」
「寒い国? 大陸の東にあるローレン・グロシア仙境国かな」
「……そっちで働き口を見つけるのって難しそうですかね?」
基本的な言語や文字が一緒であるなら、気候が合う場所の方が過ごしやすい。千春の知人に世話になるというのも少々心苦しかった千里がそう問いかけると、彼はすぐに顔の前で片手を振った。
「いやいや、仙境国は結構物騒な国だからやめた方がいい。北のオストアと対立関係にあってね、しょっちゅう小競り合いをしてるんだ。文化は上ノ國に近いんだけどね」
「そうなんですか。ベルニュートは平和なんですか?」
「うん、少なくともここ五十年はよそと揉めたりはしてないかな。国内の統治も安定しているし、俺がすすめたのもそういう理由だよ」
千春の説明に、千里は無茶は避けるべきかとしぶしぶ納得する。いくら文化が近しくても、戦に巻き込まれるのは勘弁だ。
「わかりました、ベルニュートで余生を過ごすことにします」
「うん、それがいいよ。……そろそろ部屋に戻ったほうがいいね」
話はここまでだと言う様に、千春はそこで言葉を区切る。まだ聞きたいことは残っている千里だったが、焦る必要は無いかと静かに頷いた。
きっと、明日もここで目覚める。そんな予感があった彼女は、母屋に向かう前にくるりと振り返った。
「おやすみなさい、千春さん。また明日」
だから、その言葉をすんなりと紡げた。根拠も何もないけれど、きっとそうだと千里は確信していた。
「……」
おやすみ、と千春はなんとか声を絞り出す。
いついなくなるかもわからない、過去に突然やってきて突然消えた彼女を見ている千春にとって、その言の葉は特別だった。小さくなっていく背中を見送って、彼は空を見上げる。
闇夜に浮かぶ星々は、いつもと何ら変わりない。吹き付ける風も、静かな境内も、全てが日常のままだ。違うのはただ一つ、手を伸ばせば届く距離に、あの日幻のように消えてしまった彼女がいる。
ほんのわずかな、些細な出会いだった。彼女が始祖センリではないと気づいてから、むしろ千春は嬉しかった。自分のご先祖に懸想しているなんて、バツが悪いなんてものではない。彼女とセンリが別人であったことは、千春にとって望外の喜びだ。
しかしだからこそ、彼女はここにいてはいけないと考える。彼女は、センリではないからだ。同じ性質を持っているだけの、容姿が似ているだけの他人である。彼女の人生は彼女が決めるべきで、千狸浜という括りに縛り付ける必要は無い。
好きな人がいるのだろうと言われた時、千春は否定できなかった。それは紛れもない事実だったし、だからといって面と向かって好きだと言う度胸もなかった。何せ、今の状態では間違いなく困惑させてしまう。
ただ共通の秘密があるだけだ。そんなことで好きになったと言われても、どうしていいかわからないだろう。千春自身、あの出来事は思い出になりかけていた。幼い頃の自分は確かに彼女に焦がれていたと断言できるが、大人になってからはあの出会いを夢のようなものだと自身に言い聞かせていた。それくらい、彼女との出会いは唐突で、別れもまたあっという間だったのだ。
けれど、迷子だと思って見送った少女がかつての記憶と重なった時、千春は駆け出していた。たどり着いた砂浜で見た彼女の姿は、当時よりも大人びていた。いつの間にか自分の方が大人になっていたけれどそんなことはどうでもよくて、ただただ、実感したのだ。
自分は今、本当の意味で彼女を好きになった。それまでぼんやりとしていた輪郭がくっきりと形作り、次の瞬間には意思を持つ。
彼女に、幸せになってほしい。辛い思いをしてほしくない。あの時の恩を返したい。
雪崩のように、それらは千春の心を埋め尽くした。神社の跡取りとして周囲から一目置かれている千春だが、彼自身はけして立派な志を持っているわけではない。後を継ぐのは誰でもいいと思っているし、兄弟の誰かがそうなるのであれば支えるつもりでいる。
彼がこれまで品行方正だと言われ続けてきたのは、ひとえに今の瞬間の為だ。七月七日に出会った少女に再会できる日が来た時に、恥ずかしくない自分でいたい、という思いがあったからに他ならない。また泣いている、などとは思われたくない。出来るならば今度は、自分が彼女を助ける立場になりたい。
「千狸浜の人間からしたら、確かに俺は裏切り者だよ」
ぽつりと、千春は呟いた。
祖父母の代はまだ里にも人気があったが、二十年ほど前から千狸浜は次第に静けさを増していった。霊力を用いて性質を操ることのできる人間が減ったことで、怨霊退治に神社の人員を割かざるを得なくなったのだ。そうして地域の振興にまで手が回らなくなり、里はすっかり閑散としてしまった。
だからこそ、人々は救世主を求めている。かつてこの地に舞い降りた巫女センリのように、怨霊を祓って千狸浜を再び活気のある里にしてくれる人材を心待ちにしている。
しかし千春は、彼女に千狸浜の運命など背負ってほしくないのだ。そして、彼女が千狸浜を救う動機を得る前に、別の所で暮らしてほしい。この場所に、人に、愛着を覚える前に、遠ざけないといけない。
でなければきっと、彼女は背負ってしまうから。本当は以前会ったことがあると伝えることも、しないほうがよかった。だが千春が彼女を別の国へ誘う理由として、彼女に恩があることを説明しないといけなかったので仕方なく口にしたに過ぎない。
手放せなくなる前に、手放す。執着を持つ前に、未練を断ち切る。英雄として担ぎ上げるような真似はしてたまるかと、千春は自らの心とは裏腹に彼女と離れる選択をした。
また明日。そう言ってふんわりと微笑んだ彼女を思い浮かべながら、千春は母屋へむかってゆっくりと歩き出す。執着を抱きそうで名前すら満足に呼べない自分の弱さに半ば自嘲しながら、彼は強い眼差しで踏み出した。