第四話
「夜逃げって、どういう事ですか?」
困惑する脳内に静かにしろと叱責して、千里は千春の言葉の真意を探る。千春はふざけた様子もなく、至って真剣な様子で口を開いた。
「ちょっと言葉の響きが悪いけど、要するにここを離れて別の場所に行くのはどうかなってことさ。具体的に言うと、隣の国だね。ベルニュート王国っていうんだけど、そこに俺の知人がいて、彼なら君が一般人として暮らす手助けをしてくれるはずだ。一生世話してくれるってわけにはいかないけど、仕事を紹介してくれる程度のことは保障できるよ」
「……この国では、万化の巫女と知られると静かに暮らしていくことはできないからですか?」
千里の問いに、千春は静かに頷いた。この国は上ノ國という名前で、千狸浜は上ノ國の最西端でありお上の統治から見放された場所だという。しかし万化の巫女の偉業は知れ渡っているらしく、千狸浜を離れたとて上ノ國にいるのであればさほど意味がないのだ。
「けど、その人はどうして協力してくれるんですか?」
「俺たちのご先祖様のおかげさ。昔、ベルニュートが狂暴な獣のせいで大変だった時、古泉家の人間が手助けしたんだ。センリ様よりも前の時代のことだけど、俺の知人は義理堅いやつだから事あるごとに恩を返させろとしつこくて」
二つ返事で協力してくれるはずだと千春は語る。確かに期待を寄せられるのはやや重荷ではあるが、そこまでするほどのことだろうかと彼女が口を開きかけた時、玄関の方から灯子の焦ったような声が響いてきた。
「……母さんが何か騒いでるね」
「何でしょう、行ってみましょうか」
話をそこで一度区切り、二人は灯子の声がする方へ歩いていく。すると彼女は戸口の前で困ったように眉を下げ、数人の老人たちの相手をしていた。
「だからね皆さん、あの子のことはもう少し時間を頂きたくって」
「しかし、駄菓子屋の夫婦が言うにはセンリ様の生き写しだって話だべ。これで千狸浜も昔みたいな賑わいを取り戻すんじゃろ? ほれ、ウチで取れた米じゃ」
「うちは大したものを用意できないんだけれど、代々受け継いできた真珠の首飾りを巫女様に……」
それを目にした直後、千里は青い顔で柱の陰に隠れた。灯子が「どれも受け取れませーん!」とはっきり拒否するのを、音だけで把握する。彼らは、千狸浜を救う存在が現れたことに期待を寄せ、神でも崇めるように貢物を持参してきたのだ。
「千春さん。夜逃げの話、わりと前向きに検討したく存じます」
「うん、怨霊退治云々よりもあんな風に神聖視されることの方が君には辛そうだね……」
そんな千里の様子を見て、千春は苦笑いを浮かべる。千里は、自分の見立てが甘かったことを反省した。とんちきな夢の中で自由気ままに旅をして悪霊退治と洒落こもうなんて発想が、安直すぎたのだ。千鶴がこの地を再興する手助けをしてくれないかと言ったのは、他にこれといった打開策が無いからだろう。
突然降ってわいた希望に縋るのは、人間なら当たり前のことである。千里とて出来る限りの協力はしたいが、里の人間がけして楽ではない暮らしを送っているにもかかわらず大事な食料や家宝を貢ぎに来る様を目の当たりにして、彼女はその期待に応えきれないと感じてしまった。
とはいえ夜逃げっていうのはどうにも外聞が悪いなあと千里が頭を悩ませていると、千春は一つの提案をした。
「詳しいことは、夜にでも話そう。母さんが君の部屋を用意してくれたはずだから、頃合いを見て式神で遣いを出すよ」
「わかりました。……よろしくお願いします」
彼らに見つからないように早々に蔵まで戻り、千里は深々と頭を下げる。二人が居間に向かうと、丁度ほかの兄弟たちも別の場所から戻ってきたところだった。
「あ、はる兄丁度よかった。今ね、お豆腐屋さんの所まで誰が行くかじゃんけんで決めようとしてたんだ」
「割り当て表だと俺のはずだけど、何でまた?」
冷蔵庫に貼りつけてある紙を見ながら、千春は首を傾げる。どうやら古泉家では四兄弟が順番に豆腐を買いに行く決まりらしく、二日に一度の頻度でそれぞれの名前の季節が記されていた。日めくりカレンダーと照らし合わせると、この日の担当は『春』となるため、千春は自分の番のはずだがと不思議そうにしている。
「いや、春兄はなんだかんだ忙しそうじゃん」
千春の疑問に、千夏はちらりと千里を一瞥してからそう答える。その言葉に何やら含みを感じた気がしたが、千里は口を挟まずに兄弟のやり取りを眺めることにした。
「そうだ、さと姉さまも行く? まだ里の中をちゃんと見て回ってないよね」
「……それは、やめた方がいいんじゃないか? 先ほどのような騒ぎになりかねないだろう」
千冬が明るく提案した内容を千秋が静止すると、千里は少し前の光景を思い出してぷるぷると表情を震わせた。
「んー、豆腐屋さんの所なら里の外れだからまだ噂は行き届いていない気はするけどね。あそこの人たちは特別信心深いわけでもないし」
慎重な意見に対し、千春はそこまで気にすることでも無いと述べる。先ほどの光景を目の当たりにした千里の心情をよく理解しているはずの彼が楽観的な意見を告げたことに、千里はやや疑問を抱いた。
「さっき押しかけてきた人たちは特別信心深いんだよ。豆腐屋の爺さんたちなら騒ぎ立てたりはしないだろうってのが春兄の考えなワケ。僕もいいと思うよ、ウチにずっといたって退屈だし窮屈じゃん?」
千夏が賛成の意思を見せると、千春は小さく頷いてからむーたんを見つめた。
「そうだね、俺は構わないけど……。その子は、置いて行った方がいいかもしれない」
「むー!?」
千里の足元で同行する気満々だったむーたんは、突然置いてけぼり宣告を食らって抗議の声を上げる。
「むーたん、目立ちますか? 駄菓子屋のお婆さんは、千春さんの式神だってことをわかってたみたいですけど」
千春に反抗するように脛を狙って頭突きを繰り返すむーたんをどうどうと宥めながら、千里は特に問題は無さそうだったと告げる。それに対し、千冬が人差し指を立てて解説を入れた。
「式神云々というより、タヌキの姿であることが一部の里の人たちの信仰心を刺激しちゃうんだよー。千狸浜って地名の由来は、センリ様の活躍と当時たくさん生息してたタヌキだからね~。最近はめっきり数が減っちゃって、ぜーんぜん見かけなくなっちゃったんだ」
「まあ、この子は本物じゃないからそこまで影響は無いと思うけど、なんでまた春兄はわざわざ騒ぎの元になりそうなタヌキを選んだわけ?」
腰に手を当て、中腰になってむーたんを見下ろした千夏の言葉に、千里がぴくりと口の端を引きつらせる。
「ご、ごめん。好きな動物を聞かれた時に、私がタヌキって答えたから……」
騒動の一因は自分にあると千里が自白する。事情を知らなかったとはいえ迷惑をかけてしまったと彼女が肩身を狭くしていると、千春を除く兄弟たちは揃って目を丸くした。
「ああ、そうなの? 千狸浜じゃタヌキは繫栄の象徴だけど、他の地域では害獣扱いだからさ。たとえ式神でもそうそう選択しないっていうか……」
「母さんがさと姉さまは天からの遣いだって言ってたけど、天にもタヌキっているの?」
「うーん、収拾がつかなくなってきた」
それぞれが別の話題を口にし始め、千春は慣れたようにその場を分析すると静かに佇んでいた千秋へ視線を向ける。
「千秋、今日の俺たちの予定って明日以降に回せるものだけだよね?」
「ああ、急ぎの作業は特にない。参拝客の対応は父さんたちで間に合うと思う」
「だったら、いっそ全員で行こう。ちづ婆様に伝えてくるから、みんな準備しててくれ」
千春がそう提案すると、三人は「了解」と答えそれぞれ別方向に動き出す。千夏は居間を出ていき、千秋は箪笥の引き出しを手をかけ、千冬は流し台下の収納棚を開いた。
「今日は人数も多いしボウルも二つ持っていこっか」
「財布は持ったぞ」
千冬が木製のボウルを二個重ねて取り出すと、千秋がガマ口の財布を持って戻ってくる。二人はそれで準備を終えたのかと千里は考えたが、千夏が襖を開けるのと同時に彼らは再び動き始めた。
「はいこれ、千里に」
「私に?」
戻ってくるなり、千夏はカンカン帽を千里に手渡した。特に日差しが強いわけでもないが気遣いで持ってきてくれたのだろうと彼女が礼を言おうとすると、千夏は続けて紺色の薄羽織を差し出す。千里が面食らっていると千夏は彼女の手からカンカン帽を預かってすぐさま被らせ、羽織を広げて腕を通せとばかりに視線で合図した。
素直に身体を反転させて腕を通すと、千夏は千里の正面に回って少し距離を取り、上から下まで眺めてからやや眉を寄せる。
「うーん、ちょっと地味な気がしないでもないけど、目立っても困るしこんなモンでいいかな? ていうか、よく見たらこの帯って母さんが父さんに交際を申し込まれた時に着けてたっていう思い出の帯じゃん」
「え、これそんな大事なものだったの!?」
思わず声が上ずり、千里は帯を見下ろす。深い菫色の帯は薄い色合いの百合が描かれていて、上品さと可愛らしさを兼ね備えている。脱衣所に淡藤色の浴衣や新しい足袋と共に置かれていたものだが、とても来客に貸すようなものではないだろうと千里は顔色を青くさせた。
「でも最近は箪笥の肥やしになってたよ。このところは『父さんが初めて母さんを下の名前で呼んだ時に着けてた』っていう山吹色の帯がお気に入りらしいから」
「気にしなくていいと思うよー。母さん何でも思い出にしちゃう人だから~」
いちいち気にしていたらキリがないとでも言うように、千冬も何でもないことのように軽い口調で告げる。これから出かけるというこのタイミングでやはり着替えたいと言い出すのも気が引け、千里は汚さないように配慮しようと心に刻み込んだ。
そうこうしている内に千春が戻り、五人は境内を出て石段を下りていく。むーたんが小さく「むっ、むっ」と掛け声を出しながら短い手足で石段を下りる様を、千夏と千秋は無言で見つめていた。
「そういえば、結局むーたんを連れてきちゃいましたけど大丈夫でしょうか?」
「置いてきたところでついてきそうな勢いだったし、誤解されそうになったら俺が説明するよ」
若者であればまず心配ないが、目の悪い老人であれば千里をセンリと勘違いし、むーたんを本物のタヌキと思い込みかねない。騒ぎになりそうな場合は自分が説明すると千春が話すと、先頭で鼻歌交じりに石段を下りていた千冬がくるりと振り返った。
「ねえねえ、さと姉さまってはる兄のほかの式神も操れるのかな? もしそうだったらすっごいよね!」
「千冬、危ないからちゃんと前を見なさい」
間髪を入れず、千春は千冬の行動を諌めた。千冬は「はーい」と間延びした返事をして、すぐに前を向きなおす。
「で、実際どうなの? 千冬の言う通りだったらさ、祓具なんて持ち歩かなくてもいいじゃん」
「確かに、千冬の式神は多彩だ」
千夏が実際はどうなのかと問うと、横にいた千秋も同意する。しかし、千里はその答えを持ち合わせていなかった。
「えー、どうなんだろう。むーたんの件は、私が名前を付けたことが一因みたいだけど……」
「じゃあ試してみようよー! はる兄、なんか出して~!」
「はいはい、石段を下りたらね」
前を向いたまま身体を左右に揺らして主張する千冬を見て、千春は仕方ないという様に息を吐く。この二人はそれなりに年が離れていそうだなと千里は感じたが、千夏以外の年齢を聞いていないので具体的に何歳差なのかは不明だ。
「はい、到着ー! はる兄、はやくはやく! ボクはね、兎がいいと思う!」
「兎ね」
「……もしかして千春さんって千冬に弱いの?」
式神の種類をねだる千冬の意見を聞き入れ、千春は素直に懐から白色の折り紙を取り出す。その様子を見ていた千里がこそりと近くに居た千夏に囁くと、彼は「違うよ」と言って首を横に振った。
「弱いっていうか、甘いね。何せ九歳差だから、贔屓してるとかじゃないんだけど接し方は御覧の通りだよ」
ほぼ一回りの差があればそれもわからんでもないな、と千里は頷く。
「そういえば、千夏以外の年齢聞いてないや」
「ああ、そうだっけ。春兄が今年二十三歳で、千秋が十六歳、千冬が十四歳になるよ」
ふんふんと千里が相槌を打っていると、千春の手元に小さな白い兎が顕現する。千冬はきらきらした目で千里を見つめると、早く名付けてくれと言いたげに身体を小刻みに揺らした。
「えーと、じゃあシロップで」
適当に思いついた単語を口にしてみるが、兎は千里に興味が無いのか主人である千春の顔をじっと見つめている。しばらく兎の動向を見守っていた千春は、ふるふると首を横に振った。
「何も変わらないね」
「え、そうなの? じゃあ、なんでむーたんはさと姉さまに従属してるんだろ」
「なんか私が知らない内にむーたんに霊力を送ったんじゃないかってのが千春さんの考察なんだけど、生憎私は意識して霊力をどうこうするってことができなくて……」
千冬の疑問に、千里は千春から聞いた話を交えて解説する。すると千夏はあっさりと頷いて、森の方へ向けて顎を上げた。
「できないなら仕方ないし、さっさと行こうよ。けどそうなると、むーたんは戦力として数えない方がいいよね春兄?」
「そうだね、もしもの時は千里の護衛に集中してもらう形になるかな」
戦力、というやや馴染みのない単語が出たことで、千里は意識をそちらに向ける。千春と千秋は何やら相談を始めており、先頭の千冬は千春から借りた兎を肩に乗せ、大きな歩幅でずんずんと歩いている。
「もしかして、怨霊がこの辺りにも出る可能性があるの?」
「ああ、神社の敷地内は御神体によって守られているから悪しき存在が侵入することはないが……。基本的に、奴らはどこにでも現れ得る。だが千春は強いし、俺たちも戦える。お前が心配することはない」
千里の問いに、千秋は淡々と、しかしはっきりとそう告げた。実際、彼らがついていれば問題が無いと思ったからこそ千鶴たちも外出を許可したのだろうと千里は考える。
「人によって怨霊を祓う方法って違うんだよね? 千秋はどうやるの?」
「オレは……自然の力を、借りる。具体的に言うと、岩や砂といった大地に根付くものだ」
今更ながらファンタジーな世界観だな、と千里は改めて思った。そして兄弟を端から端まで眺めると、彼女はピンと来たように手を叩く。
「わかった! 千春さんが多分風で、千秋が土でしょ。だったら千夏が火で千冬が水を扱うはず!」
それぞれが着用する袴のカラー的にもこれで間違いないはずだと彼女が自信満々に告げると、千冬は感動したように両手を握りしめた。
「え~!? さと姉さまってばなんでボクたちの性質の属性がわかったの~!?」
「いや、母さんと同じ発想したんじゃないの? 僕らって、名前の由来が生まれた季節じゃん。そんで袴も季節の印象に合わせた色になってるでしょ。視覚的に連想しただけだと思うけど」
すごいすごいと興奮する千冬と反対に、千夏は冷静に状況を分析した。確かに千夏の言う通り、千里は創作物における属性の概念のテンプレートを彼らに当てはめただけである。
「性質までドンピシャで当てられたら、褒めてあげるけどねぇ?」
「……千夏はなんか、燃やす能力を持ってるでしょ!」
「扱うのが火なんだから当たり前じゃない?」
そんな抽象的な答えじゃ正解とは言えないね、と千夏は千里の回答に不足があると突き返す。しかし性質と言われても、千里にはその概念がよく理解できていなかった。
「ねえさと姉さま、ボクの性質は何だと思う~?」
「えーと、千冬の性質についてはちらっと聞いたんだ」
詳細までは把握していないが、千秋との会話で千冬が物質の性質を変化させる力を持っていると聞いたのだ。何も知らないふりをして答えるのはフェアではないと、千里は正直に性質について多少聞きかじったことを吐露した。
「そうなの? よーし、じゃあ実際見せてあげるね!」
そう言うと、千冬は肩に乗せていた兎に片手を伸ばす。そして手にしていた二重のボウルの中に兎を入れて手で隠すように覆うと、口で銅鑼の音を真似しながらボウルを左右に揺らした。
「じゃじゃーん!」
勢いよく千冬が手を離してボウルの中身を掲げ、千里はひょこりと中を覗き込む。するとそこにはマッチ棒よりも小さくなった兎の姿があった。
「あれ? 元の兎は三十センチくらいあったと思うけど……」
「実は春兄と千冬の性質って相性良いんだよね。春兄は基本的に現実の動物の大きさに則さないと式神として顕現できないんだけど、千冬はその式神を大きくしたり小さくしたり……『変化』させられるワケ」
千里の手のひらでもあっさり隠せるサイズになった兎は、ボウルの中をちょこちょこと跳ねまわる。しかし小さくなった影響で、誤って外に飛び出してしまうようなことは起きない。千夏の説明に、千里は首を捻りながら思考する。
「けどこの能力って、水とどう関係あるの?」
「ふっふっふ、さと姉さま甘いな~。この世の大抵の物には水分が含まれてるでしょ~?」
「あ、なるほど」
ちっちっ、と人差し指を振りながらふふんと鼻を鳴らした千冬に、千里は感心したように頷く。水分さえ含んでいれば干渉できるというのであれば、確かに扱いやすい性質だ。
「まあ、だからといって人間の背丈を簡単に変えられるかっていうとできないんだけどね~。構造が複雑すぎるから」
「ってことは、むーたんも大きくなったり小さくなったりできるの?」
「理論上はそうだが……」
千里の呟きに千秋がそのはずだと反応し、千冬はボウルと兎を千夏に預けるとむーたんの前にかがむ。
「おっきいと目立っちゃうからむーたんも手のひらくらいの大きさにしてみよっかー。……うん?」
「むー?」
両手でむーたんの頬を包み込むように触れた千冬は、むーたんのあどけない表情を眺めながら口を噤む。千里たちが立ち止まって様子を伺っていると、しばらくしてから彼は勢いよく立ち上がった。
「だー! 霊力が通んないよー! はる兄、むーたんって特別な紙で作ってたりするー?」
「いや、いつもの汎用紙だよ」
「え、千冬が変化させられないってこと? ……それっておかしくない?」
目の前のやり取りを見て、千夏が訝しげにむーたんを見下ろす。何がおかしいのか理解できない千里が困って千秋に視線で解説を求めると、彼は千夏が持つボウルを指しながら切り出した。
「さっき、千冬が兎の大きさを変化させたのは見たな?」
「うん。こんなにちっちゃくなってた」
千里が親指と人差し指で兎の大きさを例えると、千秋はこくりと頷く。
「ああ。であれば、千冬がむーたんを変化させられないのは道理に反する。兎とむーたんの違いは、主が別であるという事だけで創造主は同じだ。そうなると、お前がむーたんの支配権を得た際に他者からの影響を受けないような性質を付与した……という仮定ができる」
「ま、全く自覚が無いんですが……」
そもそもむーたんの支配権を得るという行為すら未だに自覚がない彼女にとって、兄弟たちからの興味津々といった視線はこそばゆいものである。
「けど、影響を受けないっていうのはそれはそれで不便な事もありそうじゃない? 私は巨大なむーたんも手乗りむーたんも見られないってことになるし……」
ちょっと残念かもしれない、と千里は中腰になってむーたんの頭を撫でる。千里にとっては素のままで可愛い存在であるむーたんだが、その魅力を様々な形で堪能したいと思うのは人の性である。とにかくむーたんが普通の式神とは少し違うようだという結論を脳内に刻み込んだ彼女は、上半身を起こして振り返った。
「さて、お豆腐屋さんはあの森を通っていくんだっけ」
千狸浜神社を出て左側へ歩くと、小規模であるが背の高い木々の立ち並ぶ森が見えてくる。人の往来がある場所以外はほぼ手つかずといった有様で、いつ藪から獣が出てきてもおかしくはない雰囲気だ。借りたカンカン帽をしっかりと被りなおして千里が意気揚々と足を踏み出そうとすると、兄弟たちの視線はゆっくりと千里の背後――上部へと移っていった。
そして、千里は自分に覆いかぶさる大きな影の存在に気が付く。直前に見た空は薄い雲が浮かぶ晴天で、太陽を遮るものは存在していない。であれば何が影を作っているのかという疑問が浮かぶが、その答えは考えるよりも早く、彼女の視界に映りこんだ。
「む、むーたんがおっきくなってるー!?」
「む~!」
何とも言えない間の抜けた声が、辺り一帯に響き渡る。身体の肥大と共に声量も大きくなったのか、むーたんのひと鳴きは周囲の木々の葉を揺らした。ざわざわと木の葉が擦れ、薄っすらと山彦が響く。後ろ足をたたんでいわゆる『おすわり』の姿勢を取っているむーたんの背は鳥居よりも高く、わずかに尾を揺らすだけで植え込みが悲鳴に近い音を上げてぺたんこになった。
「むーたん、流石に大きすぎるよ! このままじゃ新手の怨霊だと思われて里の人たちが混乱しちゃうって!」
「なるほどねー、今みたいな感じでむーたんの支配権を得たっぽいなあ」
「そうだね、無意識に霊力を送り込んで自分の願望を叶えているのかもしれない。彼女は兎には触っていなかったから、あっちが反応しなかったのは当然と言えば当然か」
慌てふためく千里とは裏腹に、千夏と千春は冷静な様子で目の前の状況を分析している。一方、千冬はすごいすごいとむーたんの周囲をぐるりと回って観察し、千秋は今しがた植え込みを薙ぎ払った尻尾を両手で持ち上げて重さを確認していた。
「うん、質量も変化しているな。千冬の『変化』はあくまで見かけを変えるもので物質の質量に影響はないが、むーたんは明らかに紙の重量を逸脱している。これなら千里の護衛として申し分ないだろう」
「申し分ないかなあ!? 大きすぎるよねえ!?」
常識人だと思っていた千秋がとんちきな事を言い出したため、千里は声を張り上げる。むーたんがくわぁ、と小さく欠伸をすると、そのわずかな身じろぎだけで地面に砂埃が舞った。
「あき兄の座右の銘は『大は小を兼ねる』だからね~。ねえねえ、この大きさならボクら全員むーたんの背に乗れそうじゃない~?」
乗ってどうすんの人目とかあるでしょ、と突っ込みたい気持ちを抑えこみ、千里はむーたんの太く立派な前足に抱き着く。
「むーたん、私の願望に反応してくれたんだったら申し訳ないんだけど、元の大きさかそれより小さくなってくれないかな……」
このままでは確実に騒ぎになってしまうからと、千里は懇願するようにもはや顔も見えなくなってしまったむーたんを見上げる。するとむーたんは「む」と小さく返事をして、見る見るうちに手乗りサイズに縮んだ。
「はあ、ありがとうむーたん。……ポケットに入っててくれる?」
「む!」
千里が安心したように息を吐いて手を差し出すと、むーたんは元気よく返事をして手のひらに飛び乗った。そのまま羽織のポケットにむーたんを移動させ、顔だけ出した状態にすると千里は額に薄っすらと浮かんだ汗を手の甲で拭う。
「なんかどっと疲れた気が……」
「そうだねえ、霊力を大量に消費したからじゃない?」
「……今ので?」
やや背を丸めた千里に対し、千夏はポケットに収まったむーたんを見下ろしながらそう話す。
「そ。千里は霊力の扱いが下手なわりに量は人一倍って感じだね。普通、あれだけ巨大になるまで霊力を注いだらまともに動けなくなるよ」
「……その霊力って、小さくなったむーたんの身体に収まってるの?」
「いや、小さくなる為にむーたんが吐き出した」
小さな体にぎちぎちに霊力が詰まっている状態なのであればあまり良くないのではと千里が疑問を口にすると、千秋が端的に説明した。それを聞いて千里はほっと胸をなでおろすが、直後に眉を寄せる。
「それって、私は今ものすごく霊力の無駄使いをしたってことだよね?」
「有り体に言えば、そうなるね。むーたんには霊力を他者に譲渡できるような能力が無いから、仕方ないことではあるけど」
気疲れだけではなく実際に身体にだるさを感じる千里の言葉を、千春は肯定する。それに対し、千里は新たな疑問を抱いた。
「霊力って他人に分け与えたりできるんですか?」
「うん、性質によっては可能だよ。というか、まさに俺の式神がそうなんだ」
むーたんしかり君を載せた熊猫しかり、と千春が付け足すと、千里は面食らったように目を丸くした。
「なるほど、千春さんが折り紙に息を吹きかけてるのって霊力を込める為だったんですね」
儀式的な動作かと思っていた千里は、意味のある仕草だったことに納得した。しかし霊力が視認できないというのは不便だなと彼女は唇を尖らせる。
「あの、私みたいに霊力が見えなかったり性質を使いこなせない人って少ないんですか?」
「……霊力が見えない人間は、一定数いるよ。それに、誰しもが自分の性質を操れるわけでもない」
特別劣っているわけではないと千春は答えるが、千里はその言葉に彼なりの配慮を感じた。少なくとも自分が少数派であることと、『万化の巫女』という大層な異名を背負うには力不足だということをひしひしと感じる。
夢にしては、やたらと設定が練りこまれているような。そんな疑念を抱きつつも、千里は小さな森を兄弟たちと共に進む。しばらくは何もない単調な道が続いていたが、先頭を歩いていた千冬がふと植え込みを指さした。
「なつ兄、あれ浄化した方がいいんじゃない?」
そこにあったのは、なんてことない枯れかけの葉だった。千里からしてみれば植物がいずれ枯れるのは当然のことで、その葉も自然界の法則に従って地に落ち、土に還るはずだ。
「あー、根元が浸食されてるねコレ。こうなると周囲の草木にも影響するから燃やしちゃった方がいいな。千冬、この植え込みを根っこごと小さくしてくれる?」
「はいはーい」
千夏がそう言うと、千冬はボウルを千秋に預けてかがみこんだ。そして慣れたように植え込みを縮ませると、千夏と場所を入れ替わる。千夏は袖の下からマッチ箱を取り出すと、マッチ棒に火をつけて植え込みが根付いている土の上に置いた。
千里がちらりと千春を見上げると、彼は「ええとね」と前置きしてから解説する。
「怨霊は人間や自然に悪影響をもたらす『穢れ』を残していくことがあるんだ。この植物は根元からその影響を受けてしまっているから、他に被害が拡大しないうちに千夏が焼いて『浄化』してるんだよ」
「なるほど。仮に人にその穢れがついていた場合、千夏はマッチ棒で対処するんですか? 例えば私の腕に穢れがあった場合、マッチを押し当てる的な……」
脳内で根性焼きのような絵面を想像してしまって顔を強張らせた千里に、千夏自身がんなわけあるかと振り返る。
「そういう場合は炎の熱と煙で穢れを祓うんだよ。……ていうか、千里って穢れも見えてないの?」
「うーん、いまいちよくわからない。私にはただの枯れ葉にしか見えなかったよ。浜辺で遭遇した怨霊は、なんかそれっぽい気色の悪い気配を纏ってた気がするけど」
「それが穢れだよ、なんだ見えてるじゃない。単純に注意力が散漫なだけかな」
千夏の言葉に、千里はそうなのだろうかと浜辺での出来事を思い返す。確かにあの場所が特別見晴らしが良かったおかげですぐに異常に気付いたが、怨霊から出ていた靄のようなものが穢れだとするのであれば、こういった森のような地形であれば草木に遮られてよくよく観察しなければ気が付かないかもしれないと考えた。
「じゃあ、次また穢れを見つけたら教えてね。注意深く見てみるから」
「そうだね、単純に目が慣れてないってだけかもしれないし。……千里がいた所って怨霊の被害が少ない場所だったの? なんていうか、あまりにも無知だよね」
「千夏」
歯に衣を着せない千夏の物言いに、千春がやや強めの語気で諌める。しかし千里はどう説明したものかと首を捻り、終わりの見えてきた森を歩きながら答えた。
「被害が少ない、というかそもそも怨霊自体がいなかったと思う。少なくとも、私は見たことが無いし聞いたこともなかった」
「えええー!? じゃあさと姉さまってやっぱり天から降りてきた聖なる遣いなの!?」
「残念ながらごく普通の大学受験生だよ。私がいたところは、技術は発展してるけど空に人が住むほどではなかったなあ」
千冬の問いに淡々と返し、千里はけして自分が特別な存在ではないと告げた。彼女の話を兄弟たちが興味深そうに聞き入る一方で、千春はどこか物憂げに森の出口を見つめる。
三人は千里の故郷の話で盛り上がっていたが、何かを考え込む千春とそれを斜め後ろから観察する千秋だけは、豆腐屋に着くまで口を閉ざしていた。