表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

プロローグ

 吐く息が、ふわりと溶けて消えていく。分厚い雲と足元の白い雪に照らされて、夜の屋外は漆黒よりも優しい、紺青色を称えていた。

 少し固くなった雪道を、少女はざくざくと踏みしめる。片手に下げたビニール袋が揺れるたび、彼女の心は浮足立った。

 先日ようやく大学受験を終えた彼女にとって、週末の深夜のコンビニは至上のご褒美だ。まだ熱々の肉まんが冷める前にかぶりつきたいという欲求に抗えず、少女の足取りは次第に早くなっていく。

 近所の一軒家の前を通り過ぎると、少し奥まった場所にある少女の家が見えてきた。街灯の下をくぐり、玄関まで続く舗装された道を大冒険からの帰還のように堂々と歩く。

 それが、悪かったのか。不意に、彼女の身体は宙に浮いた。気が付いた時には、視界が反転している。不思議と、少女は自分が盛大にすっころんだという事を一瞬の合間に理解していた。わずかな間に積もった雪が、凍った道路を覆い隠してしまったのだ。

 ずるりと滑った身体が後方に、なす術もなく倒れこんでいく。後頭部を地面に打ち付けるイメージが見えたその瞬間、彼女は過去にも似たような経験をしたことをぼんやりと思い出していた。


 ()()は、夏だった。

 七夕祭りに出かける為、近所の公園で友人と待ち合わせをしていた彼女は、ふと額に感じた冷たさに空を見上げる。茜色の空はいつの間にか姿を隠し、灰色の雲が雨を呼んだ。突然のどしゃぶりに驚いた少女は、滑り台の下で雨宿りをしようと駆け出した。

 しかし、踏みしめたのは滑りやすい砂利で、彼女は勢いのままに鉄棒に額を強打する。悶絶しながらしばらく蹲り、ようやく痛みが引いて顔を上げた彼女の視界には、見慣れぬ景色が広がっていたのだ。

 小高い場所にある、何かの建物の裏手だった。青々とした背の高い木々が連なるその空間は、幻想的で異質で、少し恐ろしささえ感じるほどだった。額を擦りながら少女が周囲を見回すと、かすかに人の気配を感じる。音を頼りに進んだ先には、驚きに見開かれた若緑色の瞳が――

「ッ……」

 後頭部にずきりと走った痛みで、少女は覚醒した。特大のたんこぶができていないか確認しようと伸ばした手は、何やら頼りなさを覚えてぴたりと止まる。違和感の正体を探るべく顔を横に向けると、少女は視界に入った自分の姿にぎょっとした。

「……なんで浴衣?」

 はらりと白い袖が落ち、むき出しになった腕を見て思わず呟く。真冬にこんな薄い生地の寝巻で眠れるかと上半身を起こした彼女は、続けてじっくりと左右を眺めた。

 竹で編まれた籠に、古い桐箪笥。やや色あせた衝立に、あずき色の座布団と墨で描かれた掛け軸。ざっと室内を確認すると、少女は腕を組んで首を捻った。

「おばあちゃんの家の雰囲気に似てるけど、こんな部屋は無いしなあ。強いていうなら、書道の先生の家がこんな感じだっけ。薄っすらと墨の匂いがするような……」

 すんすん、と鼻を動かし、少女は立ち上がる。よくよく見れば足袋を履いていて、着ていたはずの衣服と靴は見当たらない。

 家の前の凍った通路に足を滑らせ、派手に転倒したことは覚えている。その際に気絶したのだとしたら、目覚めるのが自宅か病院でないのは不自然だ。不幸にも近隣住民に発見されることなく、不届き者に連れ去られて今ごろ両親に身代金を要求する連絡が届いているといった状況ではあるまいなと、少女は眉間に皺を寄せながらそっと襖に手を伸ばした。

「……」

 どうやら、この部屋は庭に面しているらしい。造りは典型的な日本の伝統建築といったようで、少女が踏み出した先は縁側だった。祖母の家にも書道教室にも当てはまらない確定的な状況に、少女は苦虫をかみつぶしたような顔で慎重に歩を進める。時折風に吹かれて舞い散る桜の花びらも、彼女を混乱させるだけだった。

 このよくわからない展開はもしや夢オチでは、と脳内で疑い始めた頃、突然人の気配を感じる。廊下の角からやってくるかすかな足音に気が付いた彼女は、隠れる場所を探して咄嗟に縁側から飛び降りた。

 幸いにも、縁の下は人が入れる程度の広さを有していた。息を殺して膝を抱えた彼女は、どくどくと脈動する心臓を押さえつけながら自らの気配を隠蔽する。ゆっくりと近づいてきた足音は、歩調を変えず少女の頭上を通り過ぎていった。

 はあ、と安堵のため息が漏れる。これが夢でもそうでなくてもこういった邂逅で事態が好転するとは思えず、少女は続けて人目を避けようと決意する。そして縁の下から出て彼女がふと振り返ると、そこには柔和な笑みを浮かべる青年の姿があった。

「……」

「こんにちは、お転婆なお嬢さん。かくれんぼかい?」

 声にならない声を漏らし、少女は出来る限り後退する。しかし庭の植木に阻まれ、物理的に逃げられないとなると、彼女は少しでも活路を見出すべく目の前の人物を観察し始めた。

 若い、男性だ。ミルクティーのような髪と若緑色の瞳をした、穏やかそうな顔つきの好青年である。若草色の袴姿が特徴的で、屈んで少女を覗き込んでいた。

「ところで、親御さんは一緒じゃないのかな? ここは拝殿……お参りする所じゃなくて、僕たち神社の人間が生活している所なんだ」

「……ん?」

 男性の言葉に、少女は怪訝な顔を浮かべる。目の前の人物が、自分を明らかに子ども扱いしたからだ。

 しかし、少女は日本人女性として平均的な身長をしている。特別童顔なわけでもないし、幼子と間違えられるようには思えない。仮に自分がそうした扱いを受けるとしたら、と少女は想像を働かせた。

 さてはこの人、外国人だな。

 そうであれば、日本人離れした瞳の色彩にも納得できる。そう結論付けた彼女は、むしろこの状況を利用しようと考えた。

「ごめんなさい。お母さんと『けいだい』っていうところでまちあわせしてたんですけど、迷っちゃいました。帰るにはどうしたらいいですか?」

 何故自分があの部屋に寝かされていたのかはわからないが、男性の反応からして彼は何も知らないらしい。無邪気な子供を装って少女がそう問いかけると、彼は曲げていた腰を戻して立ち上がる。

「君の好きな動物は?」

「……はい?」

 予想とは違う返答に、少女は間の抜けた声を漏らす。日本語が堪能だと思っていたが聞き取りにはやや難があるのだろうかと彼女が困惑していると、青年は人差し指を立てる。

「犬とか猫とか、鳥とか」

「……タヌキ」

 その問いに何の意味があるのかわからない少女だったが、答えないと帰る方角を教えてもらえないようだと踏んで、ぼそりとそう呟く。すると青年はその回答が少し意外だったのか、袖の中を探りながら少しだけ目を丸くした。

「なるほど、タヌキか。色は……これでいいかな」

 そう言って、彼は袖口から黄櫨色(はじいろ)の紙を二枚取り出す。少女が疑問を口にするより早く、彼は手を動かしていた。一枚を口に咥えたかと思うと、もう一枚を目にも止まらぬ速さで紙に折りすじを付け、息つく間もなく折りたたんでいく。完成したらしい一枚目を胸元に挟むと、残っていた紙も同じように素早く折り畳んだ。二つの紙はそれぞれ別の形をしていて、彼はそれを重ねるように合わせると袖口から取り出した筆ペンで何やら書き足していく。

 折り紙の世界チャンピオンだろうかと少女が呆気に取られていると、青年はにこりと微笑んで出来上がったそれに息を吹き込んだ。――丁寧に、蒲公英の綿毛が一つ残らず風に乗り、遠くまで旅が出来るようにと、祈るかのごとく。

 まるで命を吹き込まれたかのように、折り紙はその身に風を受け形を変えていく。風船のように内側から膨れ上がり、四肢を得て、丸っこい耳と太いしっぽが現れた時、少女の瞳は万華鏡のような輝きを放っていた。

「むっ!」

 ずんぐりむっくりとした体型とは裏腹に、タヌキは華麗な身のこなしで地面に降り立った。折り紙で出来ているせいか全体的なシルエットはカクカクとしているが、目のまわりの黒い模様や犬のような肉球は見た目だけならば本物と大差ない。タヌキが創造主である青年を見上げると、彼はにこりと微笑んだ。

「じゃあ、このお嬢さんを境内の入り口まで案内してあげてくれ」

「むむ!」

 タヌキはそう返事をすると、一度少女の顔を見てからついて来いと言うように四足歩行で走り出す。少女はそれをキラキラした瞳で見つめて追いかけたが、途中で立ち止まると縁側に立つ青年を振り返った。

「ありがとうございましたー! でも私、十八歳ですからねー!」

 幼女扱いされたことがどうにも納得いかず、少女はそう言い残すとタヌキと共にその場を後にする。その様子を眺めていた青年は、腕を組みながらこてんと首を傾げた。

「……十八歳?」

 はて、と彼は縁柱に寄り掛かって彼女の言葉を思い返す。今しがた縁の下に隠れていた少女が残したその言葉をじっくりと脳内で反芻した彼は、思い至ったようにぽんと手を叩いた。

「ああ、婆様の降霊術か。幼子の霊の外見だけ反映させてたんだな。道理で年の割に声が大人びていると思った」

 納得したとばかりに歩き出した青年だったが、すぐにその足を止める。

「いや、何でそんな中途半端な真似を? 境内とはいえ、ここは古泉家の居住区だ」

 お祓いや祈祷といった神事は、基本的に拝殿で行われる。神社の人間が住まう居住区に彼女がいた理由にはならないし、よくよく考えればどこかで聞いたことがある声だった気がした。青年が疑問を重ねていると、廊下の奥から慌ただしい足音が響いてくる。

「あ、千春ここにいたの? ねえ、この辺りで小さな女の子を見なかったかしら?」

「母さん。それって、八歳くらいの眼鏡をかけた茶色い髪のおさげの女の子のことかい?」

 青年――千春は、ぶつかりそうな勢いでやってきた自らの母に、先ほど会った少女のことを語る。すると葡萄茶色の髪を鎖骨まで伸ばした彼女は、自分の頭についた埃を払いながら深く頷いた。

「そう、その子! 少し席を外している間にいなくなっちゃったの。千春、どこに行ったか知ってる?」

「迷ったって言ってたから、俺の術で境内の外まで案内を……」

「ああ! ダメダメ追いかけなきゃ! 義母さんの降霊術はウチの敷地外に出ると効果が切れちゃうんだもの!」

 千春の言葉に、彼女は居ても立っても居られないとばかりに来た道を戻ろうとする。そんな母親の背中に、千春は率直な疑問を投げかけた。

「母さん、彼女と少し話したけど、彼女は十八歳だって言ってた。一体どういう事情があってここにいたんだい?」

 去り際に少女が残した情報を千春が口にすると、彼の母は握りしめた両手を忙しなく振って眉を寄せた。

「みんながパニックになるからって義母さんが浮遊霊の姿を借りてあの子に憑けたのよ! もう、大変だったんだから! 主に騒いでたのは私で、義父さんも千種も落ち着いてたけど!」

「……つまり、彼女の元々の姿は俺たちが動揺するようなものだってことかい?」

 気持ちが急いて仕方ない母親の後を早足でついていき、千春は少女の姿に対する疑問を解消していく。そんな彼の言葉に、彼女はこくりと頷いた。

「そりゃそうよお! だってあの子、まるでセンリ様の生き写しなんですもの!」

 その瞬間、ひと際強い風が辺りに吹き付ける。ぶわりと舞った桜の花弁と葉の擦れあう音で顔を上げた少女は、たった今くぐったばかりの鳥居の向こうを振り返って風で乱れた髪を抑えた。

 藍墨茶色の髪が、そよそよと風に揺られてたなびいていく。小さい頃から自慢の視力は視界に映る細部までしっかりと捉えていて、目の前の景色は彼女の古い記憶を呼び起こそうとしていた。

「……なんか、見覚えがあったような。神社なんてどこも似たような景色かもしれないけど」

「むー?」

 石段の前で立ち止まった少女を、タヌキは不思議そうな顔で見上げる。しばらく少女がそのままでいると、タヌキは気が付いたように鼻先で彼女のつま先をつついた。

「む」

「ああ、靴を履かないで歩き回るのはちょっと疲れるね。……でもこればっかりはなあ」

 先ほどの男性が悪人には見えなかったものの、靴を探そうとしている所を見られて泥棒と勘違いされても厄介だ。どうせ夢だし少しの間だからと自分に言い聞かせ、少女はゆっくりと階段を下りていく。眼下に広がるのは、広い田畑とあぜ道、藁ぶき屋根の家と生い茂る一面の緑だ。

「けど、今まで見た変な夢ランキングトップ10にはギリギリランクインしないレベルかなあ。唐突な場面転換とか無いし、今の所不思議なのはキミくらいだし」

 折り紙で出来たタヌキの案内人にそう声をかけ、少女は小気味よいテンポで石段を駆け下りる。短い手足で隣を歩く可愛らしい姿に癒されながら彼女が足を動かし続けていると、ついに上から見下ろしていた景色にたどり着いた。

「んー、右の方は民家が多くて、左の方は森っぽいな。キミはどっちがおすすめ?」

「むむ!」

 これはいつか覚める、刹那の微睡。深く考えず、気の向くまま過ごしてみようと少女は口角を上げた。 

 目的の無い旅路に迷って少女が尋ねると、タヌキは人里に向かって鼻を動かす。

「じゃあそっちに行こう。……ところで、キミは帰らなくていいの? 確か、境内の入り口まで案内しろって言われたよね」

 石段の前にそびえる大きな鳥居を振りかえると、横の石碑に『千狸浜神社』と彫られていることに気が付く。千の狸、と口にした少女は、足元のタヌキを見下ろすとくすりと微笑んだ。

「ここ、タヌキに縁がある神社だったんだ」

「むむー。む、むぅー」

 少女がかがんで手を伸ばすと、タヌキは自ら撫でられるために頭を擦り付けてきた。感触はやはり紙そのもので生き物の温かさは感じないが、愛くるしい動作と鳴き声に彼女の頬はさらに緩む。どうやら、まだ帰りたくないらしい。

「一緒に探検しよっか。……名前、あった方がいいよね。そうだなあ、むーむー鳴くから……むーたん!」

「むー!」

 安直な名づけに非難の声が出るかと思いきや、タヌキは気に入ったことを身体を示すかのごとくぴょこんと飛び上がる。その反応に満足した少女は、元気よく立ち上がると満面の笑みを見せた。

「私は千里、千の里って書くんだよ。さ、行こうむーたん!」

 ほんのひと時の、ささいな出会い。可愛らしい相棒が出来た彼女は、意気揚々と民家が連なる方へ歩を進める。石段の上、拝殿の奥の居住区で、悲鳴に近い叫びが轟いていることなど、知る由もなく。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ