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侵食と残像

作者: Rain

                 侵食と残像




               

   

            


                 プロローグ




 はっと気がついた時には、天井に張りついた円状の蛍光灯が、六畳ワンルームの部屋を隅々まで照らし尽くしていた。


 やにのこびりついた目を擦りながら、枕元にあるはずの目覚まし時計を手探ると、指先に固くなめらかな感触が当たった。


 視力の低い私は、それを持ち上げ顔元まで引き寄せてじっくりと凝視する。


 午前五時四分。


 ふうっと一呼吸おいた後、アラームのスイッチを切ろうとすると、既にオフになっていた目覚まし時計を、舌打ちしながら赤いカーペットの敷かれた床に放り投げた。


「ああ、今日もか」


 窓丈に合わないカーテンの隙間から、うっすらと漏れ出す朝光と、煌々とした天灯に対してひと睨みすると、愛しきベットをあとにした。



                   ○



 事務の仕事をしている私は、数字の関わることには人一倍気を遣い、自他共に厳しく接することを自身の揺るがぬ信念としている。


 また、始終業やスケジュールといった概念としての「時間」についても、数字の一つとして同じ扱い方をするように心がけていた。


 だから、何らかのトラブル等が起きて自分の予定や採算が狂うことは、他人が想像する以上に私にとって多大なストレスであり、屈辱であった。


 今朝も起床予定時間から六分も早く目覚めてしまった私は、沸々とした気持ちを胸に抱えたまま、勤務の徒となった。


 職場は、電車で約十五分程の距離にある中規模医院で、今年でやっと二年目に入ったばかりのまだまだ新米である。


 元来、車や人々の往来が激しい生まれ育った街に嫌気が差していた私は、就職が決まったと同時に、都心部の実家を離れ、敢えて都下にあるこの田舎町に引っ越してきた。


 だから、いつもの荒っぽい運転で、やたらと揺られながら眺めた車窓に映る景色も、新緑潤う豊かな自然と山々であり、私の毎朝の癒しであった。


 そんなリラックスタイムほどあっという間に過ぎるもので、気がつけば職場の最寄り駅にたどり着いていた。


 ドアが開いた瞬間、こちらへ突っ込んでくるように、熱く湿った空気が車内の涼しさを押しのけて全身にぶつかってくる。


 私はダラダラと電車を降りると、まばらな客の後ろをゆっくり歩きながら、ホームを通り過ぎた。


 改札を出るとすぐに、ちょっとした揺れで倒れそうな程傾いているボロ病院が目の前に現れるのだが、実はこれこそ私の職場なのである。


「あ、おはよー…ってちょっと。今日も眉間に皺寄ってるぞ。いつもどおり時間ピッタリなのにさ」


 病院裏口を開けて更衣室に入ると、同期の奈子が、私の姿を見るなりおでこに人差し指を軽く押し当ててきた。


「ううん、それはいいんだけど、アラームの予定時間より早く目が覚めちゃうの。といっても数分のことなんだけど。それにここ最近視界がボヤけるというか、ブレるっていうか…とにかく毎日そんなんだからなんかイラついて…」


 私は、せっかく上手く化粧をした両目をゴシゴシと擦った。


「あずみはほんっと時間とかに細かいもんね。あんまりキッチリし過ぎてるから、後輩達もみんなあんたに怖気づいっちゃってんのよ。おまけに、次は自分を追い込むつもり?ピリピリしてるよりさ、何でものんびり構えてたほうが生きやすいよ、ほら、まずは深呼吸して!」


 そういうと奈子は、豊満な胸を見せつけるように張って、ラジオ体操の深呼吸を始めた。


「私、小さい頃からこういう性格だから、あんたみたいな楽天家にはなれそうにないわ」


 いつものように皮肉を言いながら、すばやく制服に着替えると、二人きりだった更衣室を奈子と共に出て、うす暗い通路を通って外来ステーションへと向かった。



                   ○                   



 面接に向けて調べた話によれば、開院六十年近く経っているはずである当病院の内装は、一見現代的な清潔感に溢れている。


 しかし、貧乏な当院の資金繰りで建て替えなど出来るはずもなく、その実、朽ちたモルタルに壁紙を貼り付けただけのハリボテであることはいうまでもない。


 そんなことは職員に限らず、この町の人々全てにとって、既に公然の秘密なのだが、それでも日々患者たちの足が絶えないのは、この近辺に当院程度の規模の病院が無いためであろう。


 今朝も入り口のガラス戸を開けるや否や、杖をついた老人や壁に寄りかかってスマホを覗いていた中年などが、ぞろぞろと受付へと並び始めた。


 そんな状況でも、奈子が慣れた手つきで保険証や診察券を捌いてくれるおかげで、私はそのあいだ別の仕事に取り掛かることができた。


  今日のシフトは上司がいないので、全て自分たちが仕切らなければならなかったが、二人で協力しながら一つずつ業務を片付けていった結果、本日も無事時間内で終業することができた。


 奈子と受付周辺の整理をしながら、せっせと帰る準備をしていると、病棟につながるエレベーターから一人の老人が降りてきた。


 老人は、弓のように曲がった背を辛うじて支えながら、且つ前をキッと見据えてトボトボこちらへと歩いてくる。


 やがて、受付前まで来ると、そのまま素通りして病院の外へと出ようとしたので、私はとっさに声をかけた。


 「あの、こんな時分にどちらへ行かれるんですか?見たところ病院着を着られてるようですが、ご入院されてる方ですよね?」


 一瞬時間が止まったかのようにピタリと動くのをやめ、ゆっくり踵を返した老人は、白く濁った両眼で、すぐ側にいた奈子を見ると


 「んにゃ、何故じゃろう。あんたの体が酷くダブって見える。へへ、こりゃとうとう頭おかしくなっちゃったのかねぇ」


 そういって毛の濃い頭をボリボリ掻きながら、苦々しく顔を歪めた。


 その瞬間、左手首に巻かれた患者情報バンドにかろうじて、『荒田剛…』と書かれているのが見えた。


 「えっ!怖いこと言わないで、それ絶対マズいですよぉ、おじいさんの脳ミソの血管詰まってんのかも!ね、この美女のこともブレて見えます?」


 老人は、両肩に手を置いた奈子から、私の姿に目を移した途端、一転キョトンとした表情になって


 「ありゃ?お姉さんは綺麗に見えとるわ。あんただけだで、何だか重なって見えるんは」


と、蝋のようにテカる骨張った手で、奈子の方を指差して言った。



                   ○



 せっかく順調に仕事が終わったというのに、突如そんな気味の悪い体験をしたことで、帰宅した私の心はいくばくか滅入っていた。


 奈子は、きっと病気のせいだからあまり気にするなといってくれたが、予期せぬ出来事が起こるとそのことを考えずにはいられないのが、私の性分なのだ。


 家具の少ない整然とした部屋に敷かれたマットに倒れ込み、ゆっくり目をつむると、老人のおかしな発言が、壊れたテープレコーダーのように脳裏を何度も行ったり来たりする。


 「二重に見えるって…、気持ち悪いじゃんよ」


 さまざまな感情が複雑に交錯して、思わずボソッとつぶやいた。


 シャワーだけの入浴を済ませて、帰り道々に購入したボロネーゼを啜ると、まだ二十時前だというのに急激な眠気に襲われ、フラフラとベットの上へ横になった。


 このアパートは幹線道路から一歩離れた場所に立地しており、また裏手についても原生林が生い茂っていて非常に閑静なのだが、それを望んで引っ越してきたとはいえ、時折この静寂さが、私の孤独に苛まれた心を助長し、弱らせ、凍えさせてくる。


 今夜がまさしくその日だった。


 別の部屋から生活音が聞こえてくるわけでもなく、外から虫の歌い声が流れてくることもない。


 耳に入ってくるのは、頭上に鎮座する目覚まし時計が、淡々と時を刻む音だけ。


 湧き上がる不安を押し殺すように、時計のアラームをセットしてリモコンで部屋の電気を消すと、顔まで布団を被った。



                   ○



 小鳥のさえずりで目が覚めたと思ったが、しっかり両目を開くと、すぐにそれが間違いであることに気がついた。


 昨晩たしかに消したはずの蛍光灯が最大出力で光っており、閉めたはずの台所と居間を隔てるドアも半開きになっている。


 「もう…一体何なのよ!」


 混乱する頭を一旦落ち着けようと、冷蔵庫から少しばかり残ったペットボトル水を取り出し、一気に飲み干した。


 無機質に部屋を照らし尽くす白色灯が、昼夜の時間感覚を狂わせる。


 また、自分が眠っているあいだに何者かが侵入して、部屋を物色している可能性を考えると、これ以上この現象を放置できないと感じた。


 目覚まし時計に目を移すと、時刻は午前四時三十分をまわっており、本来アラームが鳴るまでまだ一時間半もある。


 それにあいかわらずアラームのスイッチは勝手に切れてしまっていた。


 今日も出勤なので、勤務後この町の警察署へと出向いて相談してみようと考えたら、少しだけ気持ちが楽になった気がした。


 もう一度ベットに入って眠ろうにも、頭と目共に覚醒してしまっていた私は、いつも抜きだった朝食もしっかり食べ、普段より余裕をもった朝を過ごして、悠々と職場へと向かった。


 いつもより空いていて、座席に座ることができた以外、何一つ変わらない通勤電車内は、変化を嫌う今の私にとって、自分の家よりも安心できる空間となっていた。


 そんなしばしの安定感を引き裂くように、静かな車内にけたたましく携帯電話の着信音が鳴り響いく。


 そして、その音源が私の持つバッグからであることを知ると、あからさまに不快な表情でこちらを睨む乗客たちからの視線を避けるように、バッグに入れたまま慌てて画面を覗いて驚いた。


 「えっ、職場?」


 うまい具合に電車が病院の最寄り駅へと辿り着き、駆け足で降車すると、鳴り続けている着信に対し通話ボタンを押した。


 「もしもし!」


 「あ、おはよう、結田さん。今どこなの?」


 電話の主は、外来の主任を任されていて事務の直属の上司でもある看護師だった。


 「おはようございます。ごめんなさい、電車内だったのですぐ出られませんでした。もうすぐ病院に着きますが…何かありましたか?」


 一瞬の沈黙が流れたのち、相手が不思議そうに口を開いた。


 「あなた、時計見てないの?始業時間からもう二時間近く過ぎているので、心配になって電話したのよ。でも大丈夫ならよかったわ」


 主任の言葉の意味を理解するには、思考停止をしかけていた脳には重すぎたようで、処理がすぐには追いつかず、意識も茫然としてしまった。



                   ○


 到着した病院では、送迎バスやタクシーでやってきた患者と、それを案内し受付作業をする職員ですでにごった返しており、改めて自分が遅刻してしまっていることを実感した。


 演芸の早着替えのように、普段の倍速く着替え、長く結った髪の毛を振り乱しながらナースステーションへと向かうと、真っ先に主任の前へ行き、深々と頭を下げた。


 「申し訳ありません!今後二度とこのようなことがないようにします」


 主任看護師は、私の様子を優しい眼差しで眺めながら


 「そうね、とにかくあなたが無事でよかった。あなたが遅れるなんて珍しいことだから、きっと知らず知らず疲れがきてるのよ。あまり頑張り過ぎちゃダメですよ」


 そう言うと、柔らかく微笑んでくれた。


 その途端、全身の力が抜けたように重だるくなり、思わず近くにあった丸椅子にもたれかかった。


 「結田さん!大丈夫?ちょっと休みなさい。一緒にいたいけど、もうすぐ会議があるから見ていてあげられないのよ…涌井さん、悪いけど彼女をベットで休ませてくれる?ナースに点滴用意させるわ。…じゃあ、しっかり休むのよ」


 主任は、駆け足で真っ白な階段をパタパタと駆け上っていった。


 代わりに呼ばれた奈子が、心配そうな顔つきでこちらへとやってきた。


 「ちょっとどうしたの?あんたが遅刻なんて珍しいと思ってたら、体調悪かったんだ。まぁたしかに寿命が尽きて今にも死にそうな顔してるわ。さ、早く横になりなよ。仕事の方は何にも考えなくていいからね」


 いつもはサバサバとしている彼女が、いつになく優しいので、なおさらその思いやりが心に沁みわたるようだった。


 「ありがと、奈子。でも、私、何時にここ着いたの?主任から電話がきた瞬間から、恐くて時計見れなかったんだ」


 奈子は一瞬曇った表情を浮かべると、


 「そんなこと考えなくてもいいのに…。まあ、いいからしっかり休んで」


 そう言って私を外来裏にあるベットに寝かせると、まもなく点滴を持った看護師がやってきて、全てセッティングしていってくれた。


 久々に急いで動いたからか、目を閉じると身体全体をめぐるようにドクッドクッと血の脈打つ様子が顕著に感じられて、より具合の悪さが際立つ感覚に襲われた。


 それでも側で私の手を握ってくれている奈子の温もりが、まさしく心と体両方の手当てをしてくれている。


 疲れ、不安、焦燥、苛立ち、さまざまな感情が入り混じりながら脳のシナプスを駆け巡るなか、あるふたつの出来事に思考が集中した。


 朝起きると、いつの間にか切れている目覚まし時計のアラーム。


 また、誰がつけたのかまるでわからない部屋の電気。


 これがもう一週間近く続いているのだ。


 それらの現象が、部屋に侵入した不審者によるものかもしれない可能性と、それをろくに誰にも相談せずに放置していると思うと、自身の愚かさを実感せずにはいられなかった。


 迷っていた気持ちを固めるとゆっくり目を開けて、私の顔をじっと眺めている奈子に視線を向けると


 「実は最近ね、誰かがあたしの部屋に入ってきてる節があるんだ。勝手にアラームが止められていたり、つけた覚えのない電気がついていたり…。私の部屋には奈子以外入れたことないから、そいつがどうやって入ってきてるのかわからないし、その時間はいつも寝てるんだけど、気配とかも感じないから不気味でさ。もしかして…心霊現象かなって」


 奈子はあからさまにギョッとした顔つきになると


 「なにそれ!絶対ヤバいって。じゃあ今日遅刻したのもそれが関係してるの?」


 「…うん、実はね」


 「ひどい、もう実質的被害が出てるってわけか。そうだ、部屋にカメラ付けようよ。どうせ今のまま警察行っても取り合ってくれないから、あたし達で証拠を集めるの。具合良くなったら買いに行こう」


 同じ女として、恐怖を感じずにはいられないであろうこの件を知っても、気丈に振る舞い、積極的に手伝おうとしてくれる彼女を見ると、感謝と心強さで胸がいっぱいになった。


 しかし、突然あ!と何かを思い出したような声を出したきり、しばしの間、奈子は眉間に皺を寄せて押し黙ってしまったが、ふと上目遣いでこちらを見ると


 「ねぇ、あずみ。昨日あたしたちが入口で会ったおじいさん、いたじゃん?あの後、病棟の友達に聞いたんだけどさ…。あのおじいさん…」


とまで言って、再び口をつぐんでしまった。


 元来おしゃべりな気質である彼女の初めて見せる姿だった。


「な、何なの?あのおじいさんがどうしたの?」


 問い詰めると、奈子はなにか意を決したように、まっすぐ私の顔を見つめて

「あのね、あの人うちの療養病棟に入院してる、荒田剛謙さんって患者なんだけど…、五日前から寝たきりなんだって」


 …え、寝たきり、だって?


 病棟に入院している患者が外来入口まで降りてくることはないわけではない。


 面会時間も二十時までの為、患者とその家族が行き来するのも自然である。


 しかし、あの出来事が起こったのは、まもなく夕食が病室へと運ばれる終業間際の夕刻時であり、そんな時間にあの場にいるのをいささか不思議には感じていたが。


 すると私たちが出入り口で見たあのおじいさんは一体…。


 「ちょ、ちょっとおかしなこと言わないでよ。ただでさえ不安なんだから。第一私のこととそれと何の関係があんの」


 「ごめん、あずみの気持ちはわかるよ。でもさ…きっとこの世には科学だけじゃ解決できないこともあるんだろうなってことを言いたかったんだ。こんな変な体験、あたしも初めてだけど、この目でハッキリと見たから自分を信じたい。つまり、あんたのその件についても、いろんな可能性を考える必要があるってわけ」



                   ○



 その後、結局丸一日外来の処置室で点滴をしながら休養したのち、仕事の終わった奈子に連れられて、私の自宅のある街のホームセンターへと赴き、手頃な部屋用監視カメラを購入した。


 以前にも少し説明したが、私の家は木々に囲われるように立っていて、またその周辺の住宅についてもちょっとした雑木林等の影になっており、道行く人々の目を避けることができるため、空き巣の被害は隣町と比べても格段に多かった。


 その対策として、各家庭において防犯カメラの設置が常識となっているからか、店の品揃えも想像していたより豊富で、二人してどれがいいかと随分悩んだ。


 「あずみの家久しぶりだなぁ、全然呼んでくれないから寂しかったよ」


 ホームセンターからのタクシーの車内で、奈子がいたずらっぽく笑いながら呟いた。


 「だって汚部屋だもん。ほんとは友達どころか、身内すら入れられる家じゃないんだから」


 それを聞くと、奈子はムッとした表情をこちらに向け


 「ウソ。あんた変わったよ。上手く表現できないけど…あたし含めて誰も受けつけなくなった感じ。前はガッチガチの真面目ちゃんだったのに、今はどっかふわふわしてる。心ここにあらずってやつかな」


 そういうと前の座席へと視線を戻して、そのまま黙ってしまった。


 話の内容が聞こえてきて気まずいのだろう、運転手もただひたすらハンドルに集中して、こちらに全く話を振ってこない。


 舗装の甘い道路を滑るタイヤのこもった音だけが、虚しく車内に響くだけ。


 まもなくタクシーが私の自宅前に到着し、二人を降ろすと、そそくさと街灯のない細道の先へと消えていった。


 見慣れたはずの、ベージュに塗り固められた二階建ての小規模木造アパートは、奈子がそばにいる非日常のせいか、いつになく影が被さり、アパート自体が幽霊のように見える。


 「あんたの部屋、二階だったよね?」


十数分ぶりに奈子が口を開いた。


 私は黙って頷くと、彼女に先立ち階段を登って、東側の道路から逆に位置する角部屋へと向かい、建て付けの悪いドアを重々しく開けた。


 玄関を開けると、すぐに台所が左手に陣取っているが、調理器具や調味料などが置かれていないことから、私が普段料理をしないのが一目瞭然である。


 右手には、浴槽のないシャワースペースとトイレが並んで置いてあり、それらの通路を抜ければ、物が乱雑に散らばった私の巣がある。


 いつ食べたか忘れたカップ麺の蓋や、飲み終えた安物ワインのビンが転がり、ヘアアイロンと鏡はベットの上にほうり投げられたままである。


 「…前言撤回、あんたの部屋マジで汚部屋だわ。ま、いいや。ごはん食べてカメラセッティングしよう」


 苦笑いしながら、レジ袋からパックのお寿司を取り出すと、台所へ手を洗いに行った。



                   ○



 簡単に空腹を満たした私たちは、機械に弱いながらもなんとかカメラの設置も無事終えて、私はベットに、奈子はフローリングで横になっていた。


 電気を常夜灯に切り替えた後、くすんだ白い天井をぼーっと見つめながら思い出すのは、日中の奇妙な話。


 常識で考えれば、寝たきりの老人が、玄関まで歩いてこれるわけがないではないか。


 それでも確かにこの目ではっきりと見た上、奈子だってわざわざそんな嘘を言う意味はないので、尚のことこれが事実であり、恐怖心を掻き立てるのだ。


 「あずみがいま何考えてるかわかるよ」


 クスッと可愛らしい八重歯を見せながら、奈子が起きあがった。


 「仮にも病院なんだからさ、何かしら起きたって本当は不思議でもなんでもないんだよね。ちょっと珍しい体験したと思えばいいじゃん」


 まさしく彼女の言う通り、現在自分の周囲で起きる様々な事象に関して、過度に敏感になっている節があるのだ。


 ここでもしカメラの映像に、得体のしれないモノが写り込んでいた場合、はたして私は正気を保っていられるのか、実のところ不安で仕方なかったのである。


 奈子がそんな私の本心を言葉にしてくれたことで、逆に吹っ切れた気分になった。


 「ありがとう、奈子」


 午後十一時四十三分、私たちは疲れもあって、一気に深い眠りの渦へと落ちていった。



                   ○



 酷く息が詰まる気がして、ハッと目が覚めた。


 ただでさえ寝苦しい夜に、痩せた身体をびしょ濡れにしていたが、単に暑さに依るものとは違う、妙に粘っこい汗がまとわりついていて、あまりの不快さに短い髪の毛を掻きむしった。


 時計のアラームはまだ朝を告げていないものの、あいかわらず部屋の電気はいつの間にか煌々と白く照っていて、思わず目を強く閉じた。


 まだ半分寝たままの頭を軽くもたげて、部屋の中を一望するが、特にいつもと変わった出来事はないように思えた。


 だが、次の瞬間、この風景にあるべき大事なものが欠けていることに気がついた。


 隣のフローリングで寝ていたはずの奈子の姿が見当たらず、彼女がかけていたタオルケットが乱雑に投げ捨てられており、テーブルのうえには昨夜二人で食べた寿司の空きパックが侘びしく残されているだけだった。


 しばらく茫然自失となっていた私は、部屋の中で突如響き渡った乾音に驚いて、我を取り戻した。


 様々な環境音のために、これまであまり気に留めていなかったが、今思えば朝方によく同じような怪音が何回か弾けていたのを思い出した。


 古い木造アパートなので、床や壁が軋む音なのだろうと考えてみるものの、勝手につく電気やいるはずのない老人とその発言、消えた友人など怪奇現象の真っ只中にいる私には、こんな音一つとっても人ならざる何かの仕業なのではないかと疑ってしまう。


 そんな黒煙みたく湧き上がる恐れを振り払うように、私はベットからうさぎのように飛び起きると、急いでユニットバスへと向かいノックをした。


 コンコンッ。


 ……。


 コンコンッ!


 ………。


 何度かドアをノックしてみるも、まるで応答がない。


 「奈子、返事してよ。トイレに入ってるの?具合でも悪くなった?」


 私の弱々しい呼びかけに返ってくるのは、ただただ空虚な静寂と部屋の空気を入れ替える換気扇の音だけ。


 もしかしたら急病か何かによって、トイレの中で倒れているのかもしれない。


 「ごめん!開けるからね」


 ドアのカギは壊れているのでかかっておらず、問題なく開いたが、代わりにギィーッと建て付けの悪さを物語る不快な音が鳴り響く。


 私は、一気に中へと入らずに恐る恐る首だけを突っ込んで、トイレ、シャワースペースと見渡した。


 「…誰もいない」


 室内は水気が乾ききっており、昨夜の早い内以降使われた形跡すらなかった。


 私はこのあとどうすればいいか分からず、思考が止まったまま、ドアを静かに閉めると、ふと視界に入ったモノに愕然とした。


 奈子がトイレで倒れていなかった安心はすぐに消え去り、天敵に追い詰められた小動物のように萎縮した心を、恐怖と不安が容赦なく覆い被さってきた。


 玄関に所狭しと並べられた、趣味の靴コレクションの中に、昨晩奈子が履いていたスニーカーが混じっていたのだ。


 すると、奈子はこの部屋で何かに遭遇したり目撃したりして、裸足のまま出ていったとでもいうのだろうか。


 昨日まで過ごしていた世界とはどこか違う。


 得体のしれないドス黒い渦が、この世ごとそっくりな偽物をこさえたか作り替えてしまったかしたような気がして、私はおもわず身震いをした。


 少なくとも今の人間には解き明かしきれない、人智の及ばぬ力が働いたことはたしかであると直感した。


 「そ、そういえばカメラの映像が残ってたよね…」


 独り言を言わないタチなのに、口から無意識に言葉が漏れ出すのは、動揺を抑えようとしている為であることに私自身気づいているので、主観客観が入り混じってより焦燥感を煽ってしまう。


 押し入れの扉を勢いよく全開にすると、ちょこんと置かれた手元に収まる程の黒いカメラの液晶画面を覗き込んだ。


 手に取った瞬間まで、録画は問題なく続いていたようで、昨夜の映像データももれなく保存されていることが確認できた。


 私は説明書を見ながら、慣れない手つきで検索でしか使っていない愛用のノートパソコンにカメラを接続すると、画面いっぱいに出力した。


 映像は、昨夜奈子によって、部屋の中が一望できるアングルで、且つ侵入者があった場合バレにくいということで押し入れに設置しているところから始まっており、位置を微調整したのち、テーブルを囲んで二人で談笑している様子がしばらくの間映されていた。


 やがて、ピンクの水玉柄のパジャマを着た私が、部屋の電気を常夜灯にして、ベットに潜り込むと同時に奈子もタオルケットを被って何かをしゃべっている姿がとらえられていた。


 説明し忘れたが、低ランクの安い監視カメラなので、集音マイクなんて気の利いたものは付いていない。


 また、オプションで購入もしていないので、せっかく映像は高画質なのに音声については録音できないのだ。


 その後、目を閉じた私たちはそのまま眠りについたようで、二人して何度か寝返りをうっていたが、それ以外ではピクリとも動かないところから、かなり深い睡眠であるのが見ていてよくわかった。


 その状態がしばらく続いたので、二倍速にして見ていると、午前三時五十一分頃に差しかかった時、突然部屋の電気が付いた瞬間がとらえられていることに気づき、慌ててスローモーションにしながら巻き戻した。


 居住まいを正して、画面を食い入るようにみると、通常の半分の速度で映像を再生した。


 そして、そこに映っていたモノに対して、私は今まで二十八年間生きてきた中で最も戦慄をおぼえた。


 突如映像に激しい乱れが入り、玄関や台所に通じる廊下を隔てた居間のドア付近、縦に細長い黒い影のようなものがボウッと浮かび上がったとおもうと、一瞬画面が暗転した直後に部屋が真昼間のごとく明るく照らしだされたのだ。


 黒い影は、電気が付いた後もその場に立ちつくしていたが、徐々に人らしき姿を形作りはじめ、瞬く間にスーツを着た体格のいい成人男性へと変貌した。


 画面が細かく乱れ続けているせいもあるが、男の顔はまるでのっぺらぼうのように潰れて、全く表情が読み取れない。


 特別危害を加えようとする意思は感じられないものの、微動だにせずただドアを背にして立っているだけでも、私の精神を凍りつかせるには充分過ぎた。


 これほどの出来事が目の前で起きていながら、私たちはこの現象に気がつくことができなかった。


…というより、一人は気づけなかった。


 ほんの一秒に満たないブラックアウトのうちに、隣でタオルケットを頭から被って寝ていたはずの奈子の姿が忽然と消えてしまったからだ。


 何度巻き戻して見ても、消える瞬間は真っ暗であり、その間に何が起きたのかまるでわからないが、仮にどのように消えたとしても、それが人間技でないことだけはたしかである。


 これが俗にいう、神隠しと呼ばれるものなのだろうか。


 これまで信じてきた現実が、一本の動画で一挙に崩れ去った絶望と無二の友を失った悲しみで、私は目にいっぱい涙を溜めながらも、映像を最後まで見届けるのが義務であると感じ、目をそらさず見続けた。


 やがて、画面の中の私はバッと勢いよく起き上がり、あたりをキョロキョロし始めた。


 奈子がいないことにすぐ気づき、キョトンとしている様子が映っているが、この時は消えた真実など知る由もなかった。


 約二分後、ユニットバスルームへと向かう為立ち上がると同時に、男の身体は透けて半透明になり、後ろのドアとほとんど同化してしまった。


 そこを何も気づかない私が通り過ぎて、再び部屋に戻ってくると、元の顔以外の輪郭が明瞭なスーツ姿に変わり、やや俯き気味に立ち尽くしている。


 そして、私が押し入れの中にあったこのカメラを取り出しているのだが…。


 「ん?、ということは…待って」


 すでにこれらの怪異で冷えきった全身から、これまでになく油のような汗が噴き上がるのを禁じ得なかった。


 見ている途中で何となくわかってはいたが、それを認めず必死に目を背けていた事実をとうとう突きつけられた気がして、パソコンを操作する両手の震えが抑えきれなくなる。


 私は、硬直した首を無理矢理ゆっくりと後ろに回し、背後にそびえるドアに視線を移した。


 男は今この瞬間も、まだそこにいるのである。


 その一点をよく凝視してみると、スーツの男が身につけていたネクタイの赤色が、うっすら宙に浮かんでいるのがわかり、驚きのあまり心臓が縮む感覚に襲われた。


 その赤色から周囲の空間を歪めながら、黒い影が浮かび上がり、みるみるうちに映像で見続けた男の姿へと変わっていく。


 「に、逃げなきゃ!」


 私は想像を超えた恐怖で、思い通りに動かない身体を引き摺りながら玄関へと向かうが、そうしている間にも得体の知れないその影は、この目にもはっきりと見える程に形を成している。


 やっとのおもいで玄関のドアに辿り着き、すがるようにノブへと手をかけた途端、すぐ真後ろから呂律の回りきれていない重々しい声が聞こえた。


 「時間だ」




                   ○




 連なるビルの合間を縫って吹き行く風が些か冷たく感じて、薄着で外に出てきたことを少し後悔していた。


 本来なら清々しく感じる陽気なのだろうが、暗くどんよりと落ち込んだ陰鬱極まるこの心には、それさえもただ鬱陶しいだけであった。


 おまけに、近頃道ゆく人々が重なるようにブレて見えるのが不快で、精神状態も不安定なのが自分でもよくわかる。


 幹線道路の歩道片側を陣取るように生い茂った木々の葉の所々は、薄いダージリンティーの色に変わり、厳しい季節の到来に向けた下準備を始めたようだ。


 都心の一等地にも程近いこの地域は、高級マンションばかりがそびえ立って、昔から住むこと自体が一種のステータスとなる場所であり、住民層も資産家や経営者、はたまた芸能界の人間と上級国民ともいうべき人々であった。


 そんな中でひときわ異彩を放っている家が、今目の前に昂然と建っている平屋の住宅だった。


 家の周囲は雑草が伸びきり、外壁には蔦が血管のように這っていて、ここだけ切り取れば誰もここが高級住宅街であると気がつかないであろう。


 それでも最低限のマナーのつもりなのか、玄関まで続く数メートルの道だけはきちんと掃かれており、快適に歩くことができた。


 口の中に溜まった唾液を思いきり飲み込むと、おもむろに玄関のチャイムを鳴らした。


キーンコーン。


 まもなくドアの向こう側で人の気配がしたかとおもうと、ガチャリと鍵を開けて出てきたのは、まさしくこの家にセットされたような白髪の老婆だった。


 ジロリと向けた鋭い視線は、それだけで弱い者ならば射殺されてしまいそうである。


 「あ、あの突然の訪問ごめんなさい。アタシ、桶井奈子と申します。あずみさんとは職場の同僚でした。独自に四ヶ月前の事件を調べてるんです」


 老婆はなおも視線を緩めなかったが、やがて顔の緊張がほぐれると


 「以前娘から話を聞いたことがあります。また、あなたが最後にあずみと会った人だということも知っていました。荒屋ですがどうぞ上がってください。そして、何が合ったのか教えてください」


 そして招き入れられた家の中は外観とは違い、広々とした居間に家具や小物等が整然と並べられており、この老婆の本来の性格を表しているようだ。


 案内されたのは居間の隣にある六畳の和室で、その一角に立派な仏壇が置かれているのに気づき、アタシはハッと息をのんだ。


 しかし、その中に立てかけられた一枚の写真を見ると、それが想像とはまるでかけ離れた、比較的若い男性の姿であったので思わず首をかしげた。


 老婆はそんなアタシの様子に気づいたようで、


 「ああ、それは主人の仏壇なんです。もうかれこれ二十六年になりますか、真面目に営業マンとして働いていたんですけど、事故にあいましてね。当時はあずみもまだ二歳でしたから、それは苦労したものです」


と、仏壇横の本棚の上に飾ってある写真立てを手にとると、しみじみと眺めてアタシに手渡してきた。


 どこかの海岸であろうか、二人の美しい女性が寄り添って笑みを浮かべながら海風に長い髪をなびかせている。


 一方が親友であることはすぐにわかったが、もうひとりが今目の前に立つ母親であることに気づくのには少し時間を要した。


 この数ヶ月がよほど堪えたのだろう、これほどまでに人相をも変えうるにはどれだけの心労が祟るのか、想像しただけでも気の毒で仕方がない。


 「お母さま、アタシ、あずみは生きていると信じてるんです。あんなに心の強い子がまさか…。ご遺体も見つかってないことですし、今回調べて分かったんですけど、いなくなった数年後に何食わぬ顔で帰ってきたって例もたくさんあるんですよ。まだまだ希望はありますから、あまり気を落とさないでくださいね」


 アタシにできる精一杯の励ましの言葉を送ると、あの夜起きた自分が知る限りの出来事を事細かに説明した。


 まず夕食を食べてカメラを設置し、電気を切り替えて寝るまでの間を話したが、ここから先は警察に話してもなかなか信じてもらえなかった事実である。


 アタシが目覚めた午前六時半ごろには、隣のベットで寝ていたあずみは煙のように消え去っており、電気はあずみの話していた通り煌々とついていた。


 そして、押し入れに設置したはずの監視カメラは、テーブルの上でパソコンに接続されたままになっていたのだ。


 アタシは驚きと困惑を抑えつつも、事の重大さにまだ気づいていなかったので、あずみを探すよりもすぐさまカメラの映像を確認した。


 映像は、あずみがカメラを取り上げる瞬間が最後のシーンとなっていて、再生されたきり放置されていたので巻き戻す必要があった。


 そこで見返した内容は、勝手につく電気とスーツの男、男が現れたと同時に消えたアタシ、どんな人間でも平常ではいられないと確信できる映像の中で、恐怖に慌てふためくあずみの姿がただ憐れで心が締め付けられた。


「これ、もしかして別の世界を映してるんじゃ…」


 常日頃から超常現象に寛容なたちだった為か、愚かにもそんな考えに至ると、アタシは警察に証拠として届ける前にカメラのデータをカードに移して持ち帰ったのだ。


 その映像を今あずみの母親に見せているが、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、画面から一度も目を離さずに最後の瞬間まで見届けた。


 見終わった後はしばらくの間、二人のあいだに沈黙が流れていたが、やがて老婆がゆっくりと口を開いた。


 「どうもありがとう。こうしてあなたと会って話してみて、これを私に見せるのを躊躇いつつも、意を決して映像を持ってきてくれたことが伝わってきました。実のところ、これまで私はあなたを憎んでいたのです。どうして真実を話してくれないのか、と。しかし間違っていました。あなたは本当に優しい方なんですね。でも、母親だからこそわかるのです。娘はもう死んでいます。それでもまだ生きているとおっしゃられるならば、ここを訪ねなさい。昔悩みがあってお世話になっていたのだけれど、事件以降私には行く勇気がもてないのです」


 そういうと一枚の古い木で作られた名刺を手渡してくれた。


 『霊能 三上洸泉〈ミカミコウセン〉』


 アタシは驚いて、反射的に老婆の顔をまじまじと見た。


 「…あずみは昔からよく言ってました。自分は早死にするよ、寿命が短い気がするんだってね。きっとその時がきたのかもしれませんね」


 夕日の光が当たった、寂しそうに微笑む老婆の顔からは、陰鬱さが薄れてどこか清々しく見えた。



                   ○


              

 翌日、さっそく名刺に書かれた住所をもとに、HO市にある三上洸泉宅へと足を運んだ。


 電車を幾多も乗り継ぎ、やっとのことで到着した最寄り駅から更に数キロメートル離れ、舗装すらされていない山中の坂道を登ること約十五分。


  小さな滝を背に建っている、とても家とは呼べない小屋へと辿り着いたが、手作り感溢れる表札を見て、ここが目的の場所であることをすぐに知った。


 気づけば日は山の向こう側に沈みかけていて、辺りは深い闇が支配し始めている。


 家が放つ怪しく近寄り難い雰囲気に、インターホンのないドアをノックするのを躊躇っていると、それをぶち壊すように勢いよく開いたので、思わず尻餅をつきそうになった。

 

 「その気配、待っておったぞ。うんうん、言わずともわかっておる。結田あずみのことであろう?さぁ入りなさい。霊視はとうの昔に辞めたのだが、特別に見よう。おぬしは真実を知る必要があるのでな」


 暗いのもあるが、表情すら確認するのも難しいほど、髪の毛や髭が伸び放題の小柄な老人だったが、腹のなかに溜め込んだ空気を一気に吐き出すように捲し立てると、早々に小屋の中へとうながしてきた。


 老人は、眩しい位に純白の大変立派な羽織を着ていたが、それに反して小屋の方は至るところが剥がれ朽ちているのが、妙に滑稽であった。


 アタシは、今にも崩れそうな囲炉裏の前に座ると、


 「…もしかして結田さんからお電話もらいました?」


 老人はあからさまに目をまるくして


 「電話?わしは文明の利器なるものは一切持ち合わせてない。昔やっていた霊視もあくまで口伝てにわしのことを知った者が見てくれとせがんで来ておっただけじゃ。…のぅ、そんなことよりおぬしは答え合わせをしに来たのであろう?」


 アタシは老人に風貌と言葉に対して、半信半疑ながらもこっくりと頷いた。


 「よかろう、全てを教えてやる。探している娘は今霊界におる。その世界に住む者に連れて行かれたのだ。恐らく普段から前兆があったはず。現世への霊界の侵食。互いの世界は時間の流れが全く違うのだよ。侵食を受けた者はごく普通の営みすらままならん。時には時間軸の違うもうひとりの自分が現れ、普通に生活を始めたりもすると聞く。また、健康を害する者もいるようじゃ」


 行方不明になる直前のあずみの様子を思い出すと、老人の言う通り、時間の感覚がズレていたような気もする。


 他に頼れる人もいないアタシは、あずみに起こった不思議な出来事のあらましを老人に語り、それに伴って例の映像を見せた。


 老人は食い入るように、カメラの画面を見つめていたが


 「霊とは一種の電気エネルギーなのだ。電気を帯びるものに反応する。部屋の明かりがついたのもそのためだ。この男が何者かは知らんが、霊界の者には違いない。おぬしもこの件に関わったばかりに、少しずつ霊界と感応し始めているようじゃ。悪いことは言わん。ここで祓っていけ」


 そういうと老人はひょっこりと立ち上がり、戸棚から一枚のお札のような紙を取り出し、アタシに持たせると、両手を陰陽師みたく複雑に組んでお祓いを始めた。


 このような体験は初めてであったが、ブツブツと祓言を聞き流しているうちに、不思議なものでみるみる内に身体が軽くなっていく感覚がした。 


 さて、二十分程経った頃だろうか。


 老人は、最後に深い溜め息で締めたと同時に、ゆっくり顔を上げると


 「おぬし、こうした話が好きで信じるわりに、心の奥では疑ってかかっておるのだな。…まぁ無理もないが、残念ながらこれは真実なのじゃ。おぬしもその時になれば分かる。…というのもわし自身こうなって初めて知ったことでもあるんだ。いいか、このことは胸のうちに秘めておくのだよ。わしのように世捨て人みたくなって欲しくないのでね」


 かろうじて覗くことのできる、優しい笑顔を向けた老爺の姿は、今初めて二重になって見えた。



 

                 エピローグ

                



 「ねぇ、昨日休みだったんだけど、三○八号室の荒田さん、昨夜亡くなられたんだってね」


 年若い看護師が、出勤して早々同僚の看護師に耳打ちした。


 「ええ、昨日の夕方に地元のHO市からお世話になったって方がたくさんお見舞いに来られたんだけどね。結局眠るような状態のまま逝ったわ。ずいぶん長い間頑張ったから、ある意味よかったと思うな」


 もうひとりの看護師が感慨深そうにつぶやく。


 若い看護師が頷きつつ、ふと思い出したように


 「あ、そういえば知り合いの看護師から聞いたんだけどさ。半年くらい前にいなくなっちゃった外来事務の子いたじゃん?ついこないだ自宅の玄関でみつかったらしいよ。ピンク色のパジャマ姿で亡くなってたんだって。なのに死後一年は経ってたみたいで。気味悪いよね…ってかあれ?なんだろ、あなたがブレて見えるわ」





                                        完






























 

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