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本日、二回目の投稿です。お読みいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
どうしても手放したくない荷物を、ルーナは身体に巻きつけて騎乗した。腰の所にレースの模様が浮き出る。マリアベールを頭に被った時が、遠く思える。
馬の手綱を握ると、余計な考えは吹き飛んで行った。
容赦ない早さで、アリーチェは進んだ。斥候を引き受ける力量を、痛烈に見せつけられる。
回復魔法が使える騎士は、常に馬の疲労を回復させて走りを安定することができる。騎士の多くが使う攻撃魔法で負荷を減らし、馬を走力を増す走らせる方法もある。ルーナは何方も使えない。事前にランベルトが施した攻撃魔法が自動で発せられる。馬の負荷が減った動きに合わせて、ルーナが動く。体幹を使って、騎乗自体を制御する方法だ。
地平を縁取る線に見えた森が、大きく空を圧倒していく。闇が深く近くなり、空気が重くなった。デュメルジで感じることのなかった森の力が肌に刺さって来た。
一度、月が雲に隠れて闇になった時、アリーチェが馬を止めた。焚き火をすることなく、近くの水場で馬に水を与える。
「姉のお下がりで、ダジェロ辺境伯夫人に納まった心境を教えてよ。ビアンキ伯爵家は姉妹で上手くやった」
突き出した顎が、嘲るようにルーナに向けられている。アリーチェは金髪で、茶褐色の瞳だ。色はアウローラに似ていた。はっきりとした目鼻立ちで、造形は美しい。鍛えられた肢体は、凹凸がしっかりとあった。
「アウローラ姉様は、私の結婚を喜んでくれました」
肩を聳やかすと、ルーナに向かって大きく胸が突き出された。
「何も知らないってのも、可哀想だね。アウローラ様の策略だよ。ランベルト様だって、全て承知している。聞かされていないのは、ルーナ様だけだ。同じ伯爵家の令嬢だったのに、あたしとは大きな差が付いちゃった」
アリーチェの挑発に乗る必要はないが、ダジェロ辺境の様子を知りたい。魔獣の実態も気掛かりだ。魔獣に立ち向かうランベルトの危険も気掛かりだ。
泡のように疑問が浮かぶが、問い掛ける相手を間違えると厄介だ。知りたいことは多いが、慎重に言葉を選ぶ。
「アリーチェ様は、ダジェロ辺境に来て三年ですね。あの、パンがあります。良かったら食べましょう。野営の時に焼いたんです」
荷物の中から、直ぐに食べられるパンを出す。薄く切った家鴨の肉とプラムのジャムが挟んである。プラムの酸味が、肉の旨味を引き立たせている。
パンを受け取ったアリーチェが恐る恐るといった風情で小さく齧って、目を瞠った。好みにあったようで、差し出した二つ目のパンにも手が伸びた。
聞きたい話は多いが、全て押し隠した。アリーチェが勝手に話したいことを選ぶのに任せる。有益な情報も、不要な知識も、ルーナの役に立つ時が来るはずだ。
「此処の男の話は聞いているだろう。そんな貧相な身体なら、ランベルト様だって満足しない。まだ、初夜も迎えていないようだ。大事にされているんじゃなくて、呆れられているんだよ。アウローラ様を誰だって選ぶ」
アリーチェの顎を揺らして、げたげたと大笑いした。
常に優秀なアウローラと比較された。姉と違い妹の方は微妙だという視線に、晒されてきた。
家族はロレンツィオもジュリアも、姉妹それぞれの長所を認めていた。あからさまに、姉妹を比較をしなかった。アウローラを褒める側でルーナを貶める発言をする人間には、公然と抗議をしていた。
「月には月の美しさがあります。誰もが、唯一無二の存在です。他の人には、なれません」
小さく零したのは家族が常にかけてくれた言葉だった。
「ぶつぶつ呟いたって、このダジェロ辺境じゃあ聞こえないよ。言い分があるのなら、はっきり喋ってくれ。さあ、出発する。遅れないでよ」
アリーチェが鞍に手を掛けた時に、黒い小さな物体が目の端を横切った。
物体を見極める前に、ルーナの身体が動いた。ツーハンドソードのグリップを握り、身体を低くして黒い物体を横凪ぎにした。ツーハンドソードに黒い血が流れる。
「魔獣? ホーンラビットでしょうか?」
角のある額に、長い耳が見えた。角がアリーチェの馬に刺さる前に、防げた。
安堵の息を遮るように、アリーチェが怒鳴る。
「余計な真似しやがって。これだからデュメルジの伯爵令嬢は使えないんだよ。ラットやラビットの魔獣なんて、夜になったら出て来るんだ。馬で走って蹴散らすのが常識だ。覚えて置け」
忌々し気に、顔に飛んだ魔獣の血を掌で拭う。そのままアリーチェの手がルーナの身体に伸びた。掌についた血を、ルーナの腰に巻いた布で拭う。
「レースって血を吸うんだね。黒い膜がレースの間に張って行く。くくくっ、マリアベールを後生大事に持っていて、本当に新婚だったんだ」
腰に巻いていたマリアベールをツーハンドソードで引き裂いて、ルーナはアリーチェに渡した。
「手についた血を、拭ってください」
影が出るほどの明るい月の光の中を、ルーナは駆けた。汚れて裂いたマリアベールが、腰で揺れる。胸がすぐりと痛んだ気がした。
朝霧の立ち籠める頃、ルーナは堅牢な城壁の前に到着した。
「この門を入って東側が、ダジェロ辺境伯の邸。西側は魔法騎士団の官舎よ。ルーナ様は東へどうぞ。あたしは次の仕事に向かう。ああ、このベールの切れ端は貰ってあげる」
手から零れる回復魔法の光を馬に当てながら、アリーチェは轡を門の外に向けた。下馬して礼をする暇もない。
「御案内いただきまして、ありがとうございました。アリーチェ様、お気をつけて」
手を振るったが、アリーチェは止まることなく去って行った。
東に進むと、直ぐに新たなもんがあった。重装備の門番が、槍を構えた。
「ルーナ・ダジェロです。ランベルト様より、ダジェロ辺境伯の邸に入るように指示を受けました」
重装備の二人は、顔を突き合わせて何度も首を捻った。
「婚礼の荷物もないぞ。怪しい女だ」
「一人で来るとは聞いていない。騎士服ってことは、魔法騎士団に入ったんだろう? 入隊したばかりの女がよく来るんだ。悪いことは言わない。ランベルト様は諦めな」
騎士の頭に被ったバシネットが揺れる。顔の前のハウンスカルを上げると、言い難そうに口が歪んだ。
「ランベルト様は、御結婚されたんだ。突撃したって、取り合ってもらえないよ。愛人志願なら、時期が悪い」
ルーナは、諦めずに言い募る。ランベルトの命令を守るためには、ダジェロ辺境伯の邸に入る必要がある。
「愛人ではなく妻です」
事実を告げる口が、どうしても気弱になる。
「皆、そう思い込むんだ。泣くな。若いんだからやり直せる。さあ、官舎に真っ直ぐに行くんだ。魔獣の警戒が砦から出ているから、客人も身元の保証がないと、邸には入れない」
振り返っても、身元を示してくれるアリーチェはいない。
門番に促され、ルーナは魔法騎士団の官舎に向かった。
目の前に広がる建物に、ルーナは顎を落とした。
騎士服を着た銀髪が美しい人が、剣を鼻先に突き付けてきた。長い銀髪を後ろで一つに縛っている。女性と思ったが、ランベルトと同じほど上背がある。
「大きな口を、開けるのは見っともない。名乗りなさい。新入りですね。そんな細くて、剣が持てるのでしょうか? 私は、魔法騎士団の第二十三隊副隊長のサミュエル・ロンバルディです」
鼻を押さえる。目が痛むのは、大量の埃の所為だろう。
「ルルルーナ・ビア、じゃなかった、ダジェ。ぐうう、臭い」
ランベルトに付随する魔法騎士団の関連物は、いずれも年季が入っている。入り過ぎて、本来の姿も色も不明だ。ひたすらに埃がある。汚れが見える。
「ああ? ルルル・ビジェ? なら、ルルと呼びましょう。赤銅色の髪が美しい。気に入りました。ルルは、デュメルジから来たのかしら? 魔法は、何が得意ですか?」
矢継ぎ早に問われることに、目を瞬いて応じる。
「第十部隊にいました。得意は、家政魔法です。直ぐに掃除に取り掛かります」
ルーナの身体から、旋風が巻きおこった。マリアベールの破れた裾が、風ではためく。煽られた裾を掴んで、ルーナはマリアベールを懐深くに押し込んだ。
サミュエルの銀髪が風に逆巻く。
「よして。止めて。ルル。激しすぎる」
「汚すぎて耐えられません。ダジェロ辺境ではスライムが大活躍します」
ルーナの身体の周りを、スライムの入った袋が飛び廻り始めた。
三時間が過ぎて、ルーナはサミュエルに昼食を振舞っていた。
「野菜が美味しいって、初めて思ったわよ。このレモンの風味が堪らないわ」
大皿に作ったカプレーゼが吸い込まれるように消費されていく。
「乾燥してあったバジルを見つけました。それに萎びていましたがレモンもしっかりいい香りです」
「モッツァレラチーズだけが美味しいのがカプレーゼだって思っていたけど、違うわね。これ、早採りのトマトが旨いわよ」
サミュエルの声が、野太い雄叫びを上げた。
「鮭の燻製を挟んだパンもあります」
「セロリとマスタードのソースが鮭に合うのね。次の夕食も期待している」
官舎で生活が出来そうで、ルーナは安堵の息を小さく零した。サミュエルに笑みを浮かべて頷いた。
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