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本日、二回目の投稿です。
夕陽が、黒い線のように見える森に近づいていく。一日中乗った馬は、宿場町で新たな馬に変わっていた。
野営地で、涙を流したルーナは激しく咳込んだ。
「これが、野営の天幕ですか? ええ、ぐふぉ。埃っぽい。黒い塊もあります」
疑念を深めた目で、ルーナは辺りを見回した。何処を見ても、汚れが浮いている。食べ物の滓や、剥がれた皮脂、砂に枯葉と除去する方法が、ルーナの頭に浮かんでくる。
「第二十一部隊の中でも、一番新しくて、大きな天幕だよ。新婚用に用意したんだ」
レオナルドが、クッションを抱えて微笑んでいた。
誇らしげな顔に、ルーナは首を横に振るった。
「使えません」
重ねられた幕の中に入る勇気は持てない。慄くほどに汚れている。
クッションが地に落ちて、埃を撒き上げる。レオナルドが、ルーナを見てから、ランベルトに視線を流した。
瞠目したランベルトは、大きく口を開けていた。
一刻も早く、この天幕を綺麗にしたい。道具に検討を付ける。
嫁入り支度を積んだ荷馬車は、五台だ。一番大きな荷馬車から、ルーナは必要な道具を取り出す。指示を出す。
「清潔は、騎士団にも求められます。ランベルト様は、氷魔法の遣い手なら、水を出せますか? 出せますよね。いや、一刻も早く出してください」
「ランベルトと一緒に寝るのが、嫌なわけじゃあないんだよね。汚いから、そうだよ。綺麗にしようぜ。まだ、間に合う。俺は火属性なんだ。ダジェロ辺境伯夫人の役に立つかな?」
レオナルドが大きく手を突き出した。
「ルーナとお呼びください。湯なら、早く汚れが浮き出ます。温度を少し高くしてください。火属性は、重宝します。一緒にお願いします。天幕を張ったままで、洗濯をします」
魔法には、属性がある。水、風、土、火、光が基本の属性だ。水の派生型に氷がある。光の派生型が回復魔法になる。派生型の属性を操るには、多くの魔力と鍛錬が必要だった。
ルーナの魔法は風の属性だった。家政魔法に変換しやすく、多くの家事を風魔法で成し遂げる。
今は、風魔法を用いてランベルトの出した水を丸く纏めて天幕を包む。携帯していた石鹸を溶くと、茶色の泡が立った。高速の風で汚れだけを取り出す。ルーナが懐から出した小さな袋に、汚れが吸い込まれていく。
「ルーナ様の袋が動いているじゃん、気味悪い」
レオナルドがルーナの手を遠巻きに指差した。
「スライムです。便利ですよね。汚れを食べてくれます」
袋を括った棒を、テントの前の地面に突き立てた。
ルーナは手を三回叩いた。その後で、指を鳴らす。
「洗いを三回、繰り返せば綺麗になります。他の天幕が心配です。うわあ、臭い。ランベルト様、早く行きますよ。日が暮れます。洗濯をしちゃいましょう」
「濡れたままじゃあ、眠れないぞ。ルーナの名前を呼ぶのは――」
何故か不貞腐れたように、ランベルトが横を向いたまま指摘した。頬が赤い。
「問題ありません。最後に指を鳴らしたのは、乾燥の魔法です。高速で仕上げるので、一時間もあれば、清潔な寝床が出来ます。ああ、積んであるのは寝具ですね。毛布とクッションも洗います。気持ちよく寝られますよ。天幕に突っ込みましょう」
ランベルトが両膝を突いて、ルーナの横で蹲った。呻き声がする。
「張り切って洗おうぜ。気持ちよくなりたいもんな。今は辛抱だぞ。ランベルトは堪えろ」
レオナルドに促され、ランベルトが天幕の中に毛布を入れた。一際、茶色い水が出た。汚れが吐き出される。
「あの、レオナルド様、全て天幕がこの、薄汚れた状態ですか? 洗います。天幕を張った端から、洗濯しましょう。さあ、お湯担当はランベルト様です。先触れを、レオナルド様がお願いします」
第二十一部隊には、二十人の騎士が同行していた。残りの天幕は三張りだ。黒い泡で、中身が見えなくなる。
魔法騎士は少数精鋭だ。一つの部隊は最大で三十名で、辺境に配属になるのは三百名以内となる。
「洗いが、五回は必要ですね。一時間以内には仕上がります。えっと、野営の準備はこれから食事の準備ですね。待ってください。錆びてる。野菜屑に、肉の破片作の包丁です。酷い、ええっ!」
包丁を持った隊員に指を突き付けて、ルーナが絶叫した。
「全ての調理器具から手を離してください。洗浄と煮沸消毒をしてから、私が調理します。何人たりとも、動かないでください!」
―――☆彡☆彡☆彡―――
焚き火がルーナの髪の色に思えた。
「新婚が、一人寂しく出てきやがった。寝ずに火の番かよ」
レオナルドに顎をしゃくって、ランベルトは天幕を示す。洗濯をして、清潔になった天幕は軽く、扱いやすくなった。茶色の天幕が、本来のは煤んだレオナルドの金髪と同じ色だと、発見もあった。
「魔力切れを起こしたからな、大事はない。ルーナは良く寝ているよ」
食事が終わった途端に、ルーナは膝から崩れ落ちた。頭をぶつける前に抱き上げられたが、そのまま目を覚まさない。洗濯と調理器具の手入れした後で、ルーナは調理を開始した。存分に働き、倒れた。
「ルーナの魔力は豊富だが、働かせ過ぎた。俺の差配ミスだ。家政魔法は、魔力の微調整を極意としているとは知っていたが、見事だった」
「攻撃魔法も回復魔法も、出力を如何に増やすかが勝負じゃん。火魔法で適温のお湯を作るって、難しい。ぐらぐら沸騰しちゃったよ」
焚き火には、ルーナが残した鍋がかかっていた。明日の朝には、美味しいスープが出来ているらしい。
「美味かったな。リッカルドから餞別に家鴨を渡された時には、正気を疑ったぞ。第十部隊の恒例の食事らしいじゃん」
とにかく持って行けば、後悔はさせないと請け合うリッカルドは、今頃、ほくそ笑んでいるだろう。ルーナの家政魔法の能力を、遺憾なく示す餞別の品だった。騎士の中で、ルーナの存在が印象付けられた。
「滋味溢れる食事だ。野営でも美味い物が出て来るんだな。驚いた」
家鴨の腹の中に、セージ、タイム、オレガノ、ドライ林檎にドライプラムをルーナは詰め込んでいった。家鴨の表面の皮には大蒜を擦り込み、オリーブオイルを塗っていた。家鴨の肉の内部を、風魔法で焚き火を調整してしっかり火を通す。焚き火の周囲を家鴨で囲んで、表面を炙って仕上げる。風魔法を駆使した家鴨の焼き丸鳥だ。付け合わせに、塩茹でのジャガイモに固いパンだった
「手際が良かった」
十二羽が一挙に詰め物を施され、火の中に行儀良く並んだ。仕上げに家鴨にかけられたグレービーソースは、レモンが効いていた。
腹が満ちた騎士たちは、思い思いに天幕で休んでいる。心地良い寝息や、談笑が焚き火の煙と共に空に上がっていく。
「三日で帰還する強行軍で、ルーナには無理をさせている。回復魔法を使えないなら、騎乗は体力が肝心だ」
「でも、ルーナ様の体幹は安定してたじゃん。馬の乗り熟しは、ダジェロ辺境でも使える。騎士じゃなくても、ダジェロ辺境伯夫人になったんだ。魔獣からも避難できる速さだぞ」
魔獣と言い出したレオナルドが、首を竦めた。
「斥候からの連絡はまだない」
夜空の中で、一際、濃い闇が西に横たわっている。ダジェロ辺境は、冥闇を抱える森の近くだ。
冥闇の動きを探り、魔獣の出現を一早くとらえるために、ランベルトは動きを探る斥候を使っていた。斥候は、ダジェロ辺境に属する各部隊への連絡やランベルトへの報告を仕事とする。デュメルジへ早駆けする時もある。
「今回の斥候は、第二十五部隊のアリーチェだ。馬の扱いに慣れている」
「男の扱いは、感心しないよ」
アリーチェ・マンチーニは二十歳の伯爵令嬢だ。騎士団の規律を無視する傾向が強く、デュメルジの駐在を解かれ、ダジェロ辺境の部隊に配置換えになっていた。
ダジェロ辺境伯家の邸と騎士団の官舎は隣接しており、砦の役割も果たす。冥闇で魔獣が暴れる前に、討伐する必要がある。常に斥候が動いている。
「此処で寝る。ルーナの寝息を聞いてるだけで、理性が飛ぶ」
「夫婦なら、飛んだって構わないだろう? 天幕に戻れよ。目が覚めた時に男が横にいないと、捨てられたって思うらしいぞ。聞いただけで、詰られた経験は俺にはない。あぁ、でもダジェロ辺境の男は、砦ごとに女がいるって噂らしいじゃん」
言い募っていたグレタは、真剣な様子だった。
「女はいる。役割があるのは、レオナルドだって知っている。アウローラなら大騒ぎだ」
「デュメルジの騎士団は暇で、噂話に花を咲かせているって訳じゃん。行けよ」
天幕が揺れていた。
幕間から覗き込むと、ルーナの横顔が見える。マリアベールで顔が隠れていた。初夜にマリアベールで身を包むのが、トゥスクル王国の習わしだった。頬の近くに手を突いて覗き込んで、ランベルトは横に滑り込んだ。
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