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ランベルトの重さを肩に感じながら、ルーナは首を傾げた。揶揄われているのだろうか?
「子猿ですか? あの、私が木に登ったのを、見てしまったんですか?」
ルーナは肩に廻った腕に、そっと指で触れた。
気落ちしてしまった。兎や栗鼠なら、姿形が愛らしい。猫や犬も愛でる対象として分かり易い。
子猿は可愛い姿でない上に、赤い顔で、歯を剥きだして、木に登る。今日のドレスもマリアベールも、似合わないと思っているのだろうか?
「俺が結婚したのは、木登りも得意なルーナだ」
知っている。充分に理解している。本当はランベルトがルーナと結婚する予定ではなかったのも、踏まえている。嬉しさよりも、やるせなさでルーナは胸が詰まりそうだった。
訴えかけてくるような真剣なランベルトの声色に、ルーナの視界が滲んだ。
「嬉しいです。不安もありますが、ダジェロ辺境に行くのが楽しみです。いつか子猿にも会いたいです」
結婚式を終えた翌日に、ルーナはダジェロ辺境に向かった。
ダジェロ辺境までは、馬車なら五日の距離だ。一騎なら、街道の宿場や森の際にある砦で馬を乗り換え、回復魔法を駆使して三日で進む。
三日で行く行程をランベルトに提案されて、ルーナは応じた。嫁入りの荷物は、荷馬車にランベルトが魔法を施して、一騎と同じ速さで進む。箱馬車ではできない芸当だ。
ルーナと共に馬を進めるリッカルドは、第十部隊の隊長だ。結婚でルーナは退役したが、第十部隊は見送りのために同行していた。
騎乗したまま話をするのは、騎士の最初の訓練だ。舌を噛まないで、騎士たちは騎乗での会話を楽しむ。
「俺の故郷に、ルーナ姫が行くなんてよう、考えもしなかった。ルーナ姫と轡を揃えるのも、今回が最後だ。ツーハンドソードを振るう青藍も、見納めだよ」
女騎士は青藍色の騎士服を着る。形は濃紺色の男騎士と同じで、飾りも少ない。役割や階級を示す徽章が、襟についている。剣士のルーナは、剣が交差した鋼色の徽章だ。同じ徽章の隊長のリッカルドの肩には、銀色の飾諸が付いている。
「夫婦ってのは良いもんだぜ」
自慢のメイスを肩に担いで、リッカルドは騎乗していた。肩に筋肉が盛り上がり、眉や髭が濃い。髪は茶褐色だ。顔じゅうを覆う髭の中で、小さな目が優しく光る。
「結婚て良いのかな? うちの親は仮面夫婦って言ってるよ」
屈託もなく応じたのはグレタ・エスポジートは子爵令嬢で、魔法騎士だ。あまり効力は高くない回復魔法を使い、第五部隊に所属している。襟には、回復魔法の癒しを示す甘露の雫型の徽章がある。幼馴染みの特権と称して、ルーナの見送りに同行している。子爵令嬢の我が儘が許されるほど、魔獣は静まっていた。
「新婚には、要らない世話だよ。世間知らずのグレタ姫は、耳学問に励んでいる」
リッカルドは貴族籍の女性隊員の名前に、姫をつけて呼ぶ。平民出身の処世術らしい。
「母様は、使用人を使いこなすだけ。家政が回っていれば父様は知らんぷり。同居人になっているって感じ。会話は必要最低限で、お互いに干渉はしない」
グレタの言葉が、何故か胸を塞いでいく。
「家政魔法は得意だと思います。掃除も洗濯も炊事も、楽しいです。多分、ランベルト様は喜んでいました」
結婚式の前に、ランベルトと話した話題だった。ダジェロ辺境を守る騎士団には、家政魔法を得意とする騎士はいない。
「ルーナの掃除は、他の追従を許さねえなかな。あの窓の輝き。床の艶めき。洗濯を仕上げたら、滲みも皺もない。あんな家政魔法は得難いよ」
ランベルトも、ルーナの家政魔法の腕前を聞いていたらしい。リッカルドと同じように褒めていた。
「ジュリア母様が教えてくれました。私は魔法騎士になりましたが、攻撃魔法も回復魔法も使えません。魔法騎士として役に立っているのは、本当に疑わしいです」
ジュリアは、家政魔法の権威と言われていた。トゥスクル王国の魔法騎士団では、ジュリアの編み出した家政魔法を学ぶ授業がある。家政魔法は、炊事や洗濯や掃除を飛躍的に効率よく進める。ジュリアの家政魔法は評判を呼び、魔法騎士団の隊員以外にも学ぶ門戸を開いていた。
「ルーナ姫が、ジュリア様の後を継ぐと思っていたぜ。ダジェロ辺境伯家に攫われっちまった」
グレタが手綱を引き絞って、ルーナに指を突き付ける。鼻息が荒い。
「それよ。ルーナが家政魔法が得意だからって、扱き使われたら堪えられないわ」
「家政魔法だけを便利に使うなんて算段を、ランベルト様はしねえよ」
リッカルドが髭を掻き雑ぜて、グレタを小さな目で諫めようとしている。
自らの言葉に興奮し始めたグレタは、憤懣やるかたない様子だ。
「父様は他所に女はいないらしいけど、でもなあ。リッカルド隊長は、もしかして花街に通ってるとか? 愛人がいるとか? 怪しい。ルーナは何か知っているの?」
騎乗する馬と一緒にぶるんと首を振るって、ルーナはリッカルドに視線を据えた。小さな目が、瞠られていた。
「濡れ衣だよ。ランベルト様ほどの美丈夫だって、俺と一緒に妻一筋だろう?」
長閑な平地が広がっている。先頭を進むランベルトの濃紺の騎士服が、ルーナの所からも見えた。
ランベルトの思いは何処にあるのだろうか? ルーナには計り知れない。
「妻の役割は邸と社交だけなんて、許せない。でも母様いわく、スキンシップも皆無らしいのよね」
メイスを腹に抱えて、リッカルドは首を伸ばした。グレタの放言を止めさせる手立てを探して、前を見遣り、後ろを振り向く。長く伸びた隊列の中央にいるルーナたちに近寄る者はいない。
助力を得るのを諦めたリッカルドが、首を垂れた。
「俺は何も言ってない。無実だ」
グレタが顔を上げた。深刻そうな様子で、ルーナに迫る。
「ねえ、ルーナは結婚式の後はビアンキ伯爵家のタウンハウスにいたよね? ダジェロ辺境伯様は、王立魔法騎士団の官舎にいた。ちょっと、待って。嫌だあ。まだ一緒に、その、夜を過ごしていないのね?」
事実だった。曖昧にルーナは頷く。
「ダジェロ辺境の男は、砦ごとに女がいるって噂よ。砦に行くって言ったら、疑いなさいよ。ルーナは慎重だから、ダジェロ辺境伯様に簡単に騙されないと思う。女の所に通うって話かもしれない」
リッカルドは、下を向いたまま首を抱えた。
「だから、今からダジェロ辺境伯家に行くんだろうが。ゆっくりと初めてを過ごすんだよ。グレタ姫だって――」
土煙が前から襲ってきた。早駆けの二騎が、ルーナの前後に割り込む。
グレタとリッカルドは、否応なくルーナから引き離された。
「賑やかだ。第十部隊は、家庭生活にも助言が喧しい」
ランベルトの両手から、冷気が漂い出す。
「気になるからって、ランベルトも突っ込むなよ。氷魔法まで出ちゃってる。でも、第五部隊の回復魔法の遣い手は、ちょっとおしゃべりし過ぎだよ」
ランベルトの濃紺の騎士服に白く霜が降りた。
慌てたリッカルドが、グレタを庇って前に出た。
「ああ、ほらもう王都から半日の距離だ。見送りも、終わりだ。ルーナ姫、達者でな。グレタ姫は俺が連れて帰る」
グレタも、さすがにランベルトの前で気まずげに口を噤んでいる。
「頼んだ」
短く応じたランベルトは、不機嫌そうな顔を前に向けた。
思い描いていた新婚生活とはほど遠い。ルーナの胸中は、グレタの言葉が渦を巻いている。リッカルドが何度も言い繕ってくれたが、ルーナは愛のない政略結婚をした。二人の間の空気は、何処までもぎこちない。
「不本意な結婚」
ランベルトが結婚式を終えた後に、神殿の外で零したのが聞こえた。もともと、アウローラとの結婚を考えていたのだから、やはり不本意なのだろう。ある意味、予想していた展開だ。
目の前で慌ただしく、第十部隊が騎乗のまま騎士で見送りの隊列を組んだ。
騎士は、肩まで剣を掲げた刀礼をする。
リッカルドはメイスを掲げている。
グレタは小ぶりのレイピアを飾りとして持っている。グレタのレイピアが高く天を突く。
動きに合わせて、ルーナはツーハンドソードを突き上げた。手荒い騎士団らしい別れの挨拶だ。第十部隊の騎士たちが口々に寿ぎを紡ぎ、ルーナの前途を祝福していく。それぞれが得物を掲げる。共に戦ったタガ―が見える。ロングソードが光を弾く。女騎士は、グレタと同じレイピアが多かった。
ツーハンドソードを掲げて、ルーナが応じると歓声が上がった。剣の作るアーチの中を、ルーナはランベルトに向かって餞した。
前方のランベルトが振り返り、ルーナに手を差し伸べた。指の先には、まだ霜が付いていた。ランベルトが手綱を引き絞る。
馬の腹を蹴って、ルーナは駆け出した。
「野営地まで、一気に行くぜ」
レオナルドの声が、ルーナの背を押した。
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