八
「早千愛」
それは私の名前だった。だけど、その名前を呼んだこのおじさんを私は知らない。母の知り合いだったらどうしよう? 伯父夫婦にも弁護士にも関わるなと言われている。
「………、だれ?」
側に来て庇うようにおじさんとの間に立ってくれたまーくんの背に隠れながら私は呟いた。母の知り合いなら関係ないと言わなきゃ。
「お父さんだ、お前の父親だ」
えっ? おとうさん? なんで? 家族がいるから私とは関わらないんじゃないの?
「ちょっと話さないか?」
おじさんが言ってくるけど、私は話したくない。なんか怖い。けど、マンションに戻るのも付いてきそうで嫌。
「さーちゃん、カフェかどこかで座って話したほうがいいと思う。それから、スマホ、会話録音出来るようにしといて」
まーくんが小声で言ってくれる。証拠は残したほうがいい。けど、録音って? ドラマではよく聞くけど使ったことない。録画にしとけはいいのかな?
「あそこで…」
ちょうど、目の前に某有名チェーンのカフェがあった。そこを指さす。おじさんは物色するように辺りを見回す。ここは開発で新しい建物が多い地区だ。
「早千愛の部屋ではダメなのかい? ここら辺に住んでいるのだろ」
おじさんの言葉にまーくんが首を横に振る。
「何かあった時に逃げられないから、個室はダメだよ」
確かにそうだ。それに何かあった時に人目があった方がいい。
まーくんは私の手を握るとカフェに向かって歩き出した。まーくんがいてくれてよかった。
「父親なのに部屋に入れてくれないのか?」
ムッとした感じ言われてしまった。そう言われても十年も会ってないし、顔もおぼえてないから血の繋がりがあるだけの他人だと思う。それもおじさんが言っているだけで本当にお父さんなのかも分からないし。
「さーちゃん、後ろの席にいるからよく考えてから話すんだよ。決して結論、どうするかは答えてはいけないよ」
まーくんは小声でそう言ってくれる。隣に座ってくれないことが不安だけど、親子の話だから仕方がないのかな? 私は気にしないけど、このおじさんが気にしそう。
「会話を録音して弁護士の人に聞いてもらってからどうするかを決める。法律が分からないからね」
まーくんの言う通りだ。下手に返事しないようにしなきゃ。出来るかな、私?
歩道に面した窓側の席にまーくんに座らされた。何かあったら外からも見えるからだね。まーくんは私のすぐ後ろに座った。大丈夫と小さな声でまーくんが力付けてくれる。うん、まーくんがいるから大丈夫。
「なあ、早千愛、一緒に暮らさないか?」
おじさんはいきなりそう言った。
私は目が点になった。新しい家族がいるから暮らせないと聞いたのに? まあ、暮らす気もなかったけど。
「一緒に暮らしたら、高い家賃を払わなくてもいいし」
えっと、どういうこと? 別に家賃はおじさんが払わないんだから関係ないと思うのだけど……。
あっ! 一緒に暮らせば養育費を支払わなくてもいいから? 確か減額を言ってきてるって………。
「それで……、生活費としてその家賃を渡してくれたら」
とってもいい案のように言ってくるけど、それって………、つまり………。養育費よりきっとあのマンションの家賃の方が高いよね? じゃあ丸っと得をするのは………。
「えっと、新しい家族がいらっしゃるので一緒に暮らせないとお聞きしているのですが?」
これは確認しておかなきゃ。
「ああ、あの時はそう思ってしまって……。けれど、よく考えたら親としてどうかな、と思ってしまい……」
うーん、嘘っぽい。うん、嘘だと思う。嘘だ、絶対。それに親として? 十年もお金の振込みだけで音沙汰無しだったのはどうなの? イライラしてきた。
「それに早千愛、家族のことなら問題ない。みんな早千愛と一緒に暮らしてもいいと言っている」
一緒にくらしてもいい、それってお金があるから一緒に暮らしてやってもいいってこと? 私には選ぶ権利はないわけ?
さーちゃん、冷静に。
それにこの人、どこに住んでるの?
まーくんの言葉に頭に上っていた血が少しだけ下がる。私はこのおじさんのことを知らない。もう知りたくないけど、それでも聞かなければ。
「失礼ですが、何処にお住まいで?」
おじさんが言った住所は県外だった。それも県境じゃなくて、確か県境から三つ四つ奥の市。その市に観光名所があるから偶然知っていた。通っている学校には電車とバスを乗り継いで二時間以上はかかりそう。当然、交通費もすごい額になる。
「ちょっと田舎だけどいい所だよ」
おじさんはローカル駅だけど駅も近くて便利だとアピールしてくるけど……。ローカルしか停まらないのなら通学に余計時間がかかる。そんなの嫌だ。
「私の通っている高校はご存知ですか?」
おじさんは目を游がせた。通学に時間がかかるのは分かっているのだろう。
「………、あ、少し遠くなるかもしれないが…」
少し? 少しどころじゃないんだけど。
さーちゃん、学校名は言わない!
すかさずまーくんから注意が入る。特定されるといけないから? けど、もうこのおじさん、知っていそう?
「少しどころか、通学時間は二時間で着けたらいい方ですよ! 交通費もいい額になりそうなんですけど」
そういうとおじさんは顔を引き攣らせた。けど、諦める気は無さそう。もし一緒に暮らして、交通費はおじさんが払ってくれるの? たぶん、無理だと思う。
「じゃあ、転校で……」
なんで? そう思った私は悪くないと思う。どうしても、なら分かるけどそうじゃない。
さーちゃん、さーちゃんの今の保護者は?
思わず、ふざけるな! て言いそうになったけど、まーくんの言葉で少しだけ冷静になる。
「間宮の伯父が私の後見人です。伯父に相談してみます」
私はムッとした声でどうにかそう言った。そうだ、大人を頼ろう。遺産も弁護士管理だし、私が決められることじゃない。
「早千愛、一緒に暮らそう。血が繋がった者が一緒に暮らしたほうがいいんだ」
おじさんはめげずに言ってくるけど、もう無理。一緒にいたくない。ここにいるのもイヤ。ただお金か欲しいだけでしょ。関わりたくない。
さーちゃん、出よう。
まーくんの言葉に頷く。
「では、伯父に話をしますので。それから、私が希望してやっと入れた高校です。転校する気はありません」
それだけは言いたかった。どうしても入りたかった学校。簡単に転校なんてする気はない。というか、高校の転校って、編入試験とかあって結構大変じゃないの? そんなことやりたくない。
「子供は黙って親の言うことを聞くんだ」
おじさんの声が変わった。目付きも媚びるようなのから睨み付けるのになってる。怖い。
「俺と一緒に暮らすのが一番なんだ」
嫌な笑みを浮かべておじさんは、分かったか。と言ってくる。そんなの分かるはずがないし、分かりたくもない。
私は財布を取り出し、千円札をテーブルに置いた。五百円でもお釣がくるけど、関わりたくない。もう同じ空間にもいたくない。
「お断りします。十年も会ってなかった人に親と言われても」
まーくんが隣に立ってくれた。私も立ち上がって入り口に向かう。早くここから去りたい。
「養育費、払ってやっていただろうが!」
怒鳴り声が響いた。それは恩に着せられるものなのかな? とも思いながら。
「母から聞いていませんでした。お礼は言います。ありがとうございます」
そうとだけ言って足早に店を出る。おじさんは支払いがあるから、店から出るのに時間がかかるはず。
まーくんに引っ張られるようにどんどんカフェから離れる。発車直前のバスに乗り込み押し込まれるようにカフェが見えない窓際に座らされた。
「さーちゃん、こめん、考え無しにバスに乗ったけど行きたい所あった?」
隣に座ったまーくんが心配そうに聞いてくれる。私はまーくんに凭れた。ものすごく疲れた。もう二度とあのおじさんに会いたくない。
「さーちゃん?」
「ありがとう、まーくん」
癒される。まーくんといると。一人だったら、あのおじさんに早々にブチ切れていたかもしれない。けど、怒鳴られてたぶんおじさんの思い通りの言葉を言わされたかもしれない。怒鳴られるのは怖い。いつも母に怒鳴られていたから。
「お疲れ様、さーちゃん」
まーくんは慰めるように私の腕をポンポンと叩いてくれた。ずっとこのままでいたい。今日はもう何も考えたくない。
「けど、もう一仕事しようか」
頭の上から降ってくる言葉に首を横に振る。もう嫌だ。何もしたくない。
「バスを降りたら弁護士に連絡しようね」
にっこり笑ってそう言ったまーくんを私が恨めしく見てしまったのは仕方がない。
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