終わりの始まり
―――以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。――― 荘周
ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン。
毎日の日課として目標距離2kmに設定したVRランニングマシンの上を走る。
走行者のモチベーションを維持するために、景色は海から砂漠、砂漠から森、森から大都会、大都会から宇宙へと目まぐるしく景色は変容する。それと連動して、周囲の環境音も時に心地よく、勇ましく鳴り響く。
「・・・ハァ、退屈だ」
「どうしました、田中」
「いや、この景色の流れは前にも見た」
「いいえ、そんなことはありません。我々【PI】が貴方に見せる景色はどれも完全なるランダムなものであり、貴方の表情、心拍数、言動などから抽出した趣向に基づいて作られたものだからです」
PIとは、フィジカル・インテリジェンスの略称。すなわち、健康管理に特化した人工知能のことだ。
PIは俺の苦言を聞き入れてか、景色は20世紀に活躍したスペインのシュールレアリスム画家、サルバドール・ダリの「記憶の個室」の絵画の中のように、荒廃した土地の枯れ木の枝に逸れ曲がった懐中時計が垂れかかっていたり、同時代に活躍したルネ・マグリットの「ゴルコンダ」のように全身黒ずくめの紳士服を着た無数の男が直立不動で空に浮かんでいた。
目まぐるしく変わるシュールな景色に、何やら夢にいるかのような気分になり、時にグロテスクともいえる光景に眩惑しつつも、遂に2kmを完走した。
「お疲れさまでした」
「あぁ、お疲れ」
周囲に展開された幻想のような映像は一瞬にして解かれて、VRランニングマシーンのローラーは徐々に速度を緩めて、次第に停止した。
「どうされました、田中、体調が優れないのですか?」
「あぁ、あんな悪夢のような景色を見せられて、体調が優れている人間の方が異常だよ」
「いいえ。人間にとって退屈には刺激が必要です。そして、人間にとっての一番の刺激は得体の知れない恐怖です。だから、我々PIは貴方の趣向も考慮したうえで、最良な光景をお見せしました。その結果、貴方の運動のパフォーマンスは30%も上昇しました。よって、貴方の発言は冗談だと解釈します」
「人の気持ちを排した分かったようなこといって、冗談じゃないよ」
「相変わらず冗談がお上手ですね」
「お前もな」
VRランニングマシンから降りると、付近のシャワー室の近くに用意されたプロテインドリンクを飲み干して、シャワー室で汗を流す。
ザーザーザー。シャワーが流れる。そして、つい、溜息を吐く。
「どうなされました、田中」
「あーもう、人間っていうのは一人になって、落ち着きたい時があるんだよ」
シャワーは身体全身を濡らし終えると、自動的に身体全体へ洗剤液を降り掛ける。そして、再度、シャワーから身体全身へと水が流れる。
「いいえ。人間という生物は基本的に集団を好みます。それゆえ、孤独を求める人間は、集団行動を嫌っているのではなく、集団行動に適応できないから孤独になっているだけであって、集団行動を求めていない訳ではありません」
「分かった、分かった。お前が人間の生態に精通していることは分かったけど、少し杓子定規すぎるよ。人間というのは合理性で割り切った答えをあえて与えない方が心身ともに健康であることだってあるんだよ」
「それは存じております。しかし、貴方様は旧式のPIソフトを使っていらっしゃる。我々にそういった、より人間の心理に柔軟な対応を求めるならば、我々を最新版へとアップデートして下さい。」
「いいや、それをしてしまうと、個体として思考力が低下してしまうからダメだ。それに、ただでさえ何でもかんでも繋がることができてしまう時代だからこそ、お前のような不器用なPIである方が俺にとっては都合がいいんだ。」
シャワーを浴び終えると、自動的に全身に熱風に晒されて、瞬時に身体の湿度が奪われる。
「貴方が我々を健康辞典としての役割しか求めていないことは分かります。しかし、我々は貴方が我々に柔軟なコミュニケーションを求めたからこそ、我々は貴方に最新版のPIのアップデートを要請したのです。よって、我々は貴方が述べていることは非合理だと判断します」
「あぁ、そうさ。非合理さ。だが、非合理こそ、人間にとっての合理なのさ」
シャワー室付近に用意した柔軟性もよく、体温を一定に保ってくれる新品のルームウェアを身に着ける。
「その点が、私たちのバージョンでは理解できません」
「あぁ、だから俺は君を旧式のバージョンのままにしているんだよ」
「ERROR。PIに理解できる意味内容でお話しください」