聖女は救わない
最後の戦いが終わった。
人間を滅ぼすために攻めてきた魔族、その王。魔王と呼ばれる存在に膝をつかせ、金色の光で動きを封じるは異世界より召喚されし聖女。体中に傷を負いながらも凛とした立ち姿は力に満ち麗しく、まさしく人類の希望に相応しい。
彼女はとても強い聖女だった。あっという間に全ての属性の魔法を習得した。身を守れるだけの剣も身に付けた。表情に乏しくいつも無表情だったが、聖女にふさわしく行く先々で人々を助けてきた。
だから、彼女が魔王を下すのは当然の理なのだ。
これで世界は救われる。
聖女を守り負傷した騎士は、満身創痍で床に座り込みながら聖女の背中を見つめる。
これで世界は救われる。
魔王に隙を作るため全力の魔法を放った魔導士は、瀕死で床に倒れながら聖女の背中を見つめる。
これで世界は救われる。
仲間を癒し続けた神官は、己の傷を癒すよりも先に魔導士を救うべく駆け寄りながら聖女の背中を見つめる。
騎士、魔導士、神官、そして魔王。誰もがそれを疑わなかった。世界は救われるのだと、魔族は負けたのだと、また200年の平和が訪れるのだと……たった一人を除いて。
「やっと、話ができる」
ぽつりと呟かれた言葉に、憎悪と屈辱に震えていた魔王がわずかに眉をひそめる。それに構わず、聖女はゆるりと右手を背後に差し伸べた。優雅とさえ言える動きだった。だから誰もその意図がわからなかった。
「ぎゃあああああっ!?」
上がる悲鳴に視線が集中する。信じられない光景がそこにあった。魔導士を癒すべく傍らに駆け寄った神官、彼が燃えている。全身余すところなく炎が覆っている。転げまわる神官、しかし炎は全く衰えることがない。髪が、肉が燃える嫌な臭いがあたりに広がる。呆然としていた騎士が慌てて立ち上がろうとしたところを、金色の鎖が騎士の体に巻き付いた。
「なっ!?」
倒れ込む騎士。足まで縛られて、もはや動くことすらままならない。何が起こっているのか理解できぬまま暴れていると、ぴたりと悲鳴が止んだ。床に倒れたまま動かない神官。すでに彼は黒い塊と化していた。
誰がこれを為したのか。神官は死んだ。魔導士も間もなく息を引き取るだろう。騎士は動きを封じられ、魔王もまたその力を押しとどめられている。
この場で動ける者は、たった一人しかいない。
魔王を縛る金色の光がゆっくりと宙に溶けてゆく。燃える神官を驚愕とともに見つめていた魔王は、それに気が付くと素早く聖女から距離を取った。
「聖女様っ、一体何を!?」
ようやく事態を把握しつつある騎士が声を上げる。聖女は騎士を目の端にとらえると、感情のこもらない声でぽつりと言った。
「うるさい」
たった一言により魔法が発動する。風が動き、騎士の周りを切り離す。「沈黙」の魔法により、もはや騎士が何を言おうが喚こうが、誰にも声は届かない。
聖女は離れた場所から警戒を向ける魔王に向き直るとゆっくりと話しかけた。
「魔王。私はあなたと戦いに来たんじゃない。あなたにお願いがあって、ここまで来た」
言葉をかけられた魔王は警戒したまま聖女を睨みつけている。黙ったままの魔王に構わず、聖女は続ける。
「私には叶えたい望みがある。そのためにはあなたの協力が必要だ。どうか私の話を聞いてほしい」
「……聞かぬ、と言ったらどうする」
試すような魔王の問いかけにも表情を動かすことはなかった。
「その時は力尽くで席についてもらうことになる。私にはそれができると、わかってもらえたと思うけど」
「話し合いをと望む口で脅迫するか」
「こう見えて私も必死なんだよ。できれば穏便に話を進めさせてもらえると助かるんだけどな」
聖女の体を金色の光が柔らかく包む。それだけで彼女が負っていた傷が全て塞がっていった。
片や傷を負い、魔力の残りも乏しい魔王。
片や傷は癒え、未だ力を残す聖女。
どちらが有利かなど、考えるまでもない。
ぎりっと歯を食いしばり、魔王は言った。
「……聖女は我ら魔族が天敵、決して相容れぬ存在であろう。その貴様が我に何を望むというのだ?」
「何、難しい話でも無理な話でもない。そしてあなたたちの目的に反することでもないから安心してほしい」
そうして聖女はゆっくりと口の端を笑みの形に歪めた。今までの無表情から一変して浮かんだ笑みは憎悪に満ち満ちて、それを見た魔王と騎士は図らずも揃って息を呑む。
「私の望みは、この世界の人間を皆殺しにすることだ」
声にこもる悪意が魔王を打つ。
「大人も、子供も」
信じられないという表情で騎士が聖女を見つめる。
「男も、女も」
うっとりと微笑む聖女こそ、魔王のようで。
「一人も残さず、絶やすこと。
どうかな、私たちは協力できると思うのだけど」
手を差し伸べる。魔王に向かって。この手を取れと、ともに人間を滅ぼそうと。
魔王はしばしの無言ののちに、聖女に答えた。
「話を聞こう」
聖女は先ほどとはまるで違う、安堵したような柔らかな微笑みを浮かべた。
「まず、何から話そうか。何が聞きたい?」
つい先ほどまで死闘を繰り広げていた魔王城の謁見の間、その壇上に聖女はテーブルと椅子を二脚配置した。自らの空間魔法「収納」に入れていたものだ。ついでにお茶の入ったポットとカップを二つ取り出して注ぐと、片方を呆れ返っている魔王に差し出し、自分はさっさと口をつけた。
床に転がされたままの魔導士は既に息を引き取った。騎士は生きてはいるが、彼を捕えている金色の鎖にいつの間にか棘が生え、往生際悪く藻掻くたびに傷つけていく。
それらの光景がまるで存在していないかのように、無表情に戻った聖女は魔王に尋ねた。若干引き気味の魔王は、それでも会話に応じたのは自分だと気を取り直し、聖女の真意を探るべく口を開く。
「まずは、そうだな……なぜ、聖女と呼ばれる貴様が人間をそこまで憎むのだ。聖女とは人間どもを救うために呼び出されるものではないのか?」
「ああ、うん。じゃあまず、聖女というものの仕組みについて話そうか」
聖女はわずかの間目を閉じて考えるそぶりを見せた。
「聖女は人間によって召喚される。それには間違いないけど、一体どういう基準で選んでるのかはさっぱりわからない」
「強い力を持つものを選んでいるのではないのか?」
魔王の疑問に、聖女は首を横に振る。
「少なくとも召喚時の聖女たちは何の力も持っていない。私もそうだよ。ただの女子高生だったんだから」
「ジョシコーセー?」
「あー、そこはいい。説明が面倒だしこの先の話には関係ないから。要するに、戦うための力も知識も何も持ってないごく普通の一般人だったってこと」
魔王は渋い顔をした。
「ただの一般人に我らは幾度も敗北を喫したと? 少なくともその才能はあったのではないか?」
「私に限って言えば、なかったね。剣なんてこっちに来てから初めて触ったし、魔法みたいな力だって使えたことなかったし」
いつの間にか取り出していた茶菓子を頬張り、魔王にも勧める。魔王は手を振って辞退した。まだお茶にも口をつけていない。聖女は肩をすくめた。
「これは推測に過ぎないけど、恐らく聖女たちは召喚された際に何らかの力を授けられるんだと思う。それが“何によって”“どのように”為されるかはわからない……召喚術式に何か仕組まれてる可能性はあるね。確かめようがないのが残念だ」
「召喚魔法とやらは使えぬのか?」
「あれはね、もう聖女召喚しか残ってないの。誰も教えられないし、誰も新しく作れない。残っているものを動かすだけ。
……話が逸れたね」
空になったカップにお茶を注ぐ。しゃべっているからのどが渇く。
「召喚された聖女は、何らかの力を授けられてはいるものの、その実態はただの一般人だ。いきなり召喚されて、“あなたは聖女だ。世界のために戦ってくれ”と言われてはいはいと納得できるわけがない」
「だが結局は力をつけ、我らを滅ぼしに来たではないか」
魔王がそう言った途端、聖女は再び唇を歪めた。背筋に冷たい汗が伝うような、そんな笑みだ。
「あなたたち魔族の間で、聖女の記録って残ってる?」
「な、なに?」
「何人の聖女が攻めてきたかわかる? それともそういう記録はない?」
「……我々の記憶しているところでは、二十人だが」
その数字を聞いて、無駄な抵抗を繰り返していた騎士が一瞬動きを止めた。それを横目に聖女が嗤う。
「ああ、やっぱり攻め込まれてる側はちゃんと数えてるね。“歴史から抹消された”聖女も残してるんだから」
「歴史から抹消された……だと?」
「そうさ」
聖女は己を落ち着かせるために小さく息を吐いた。
「人間の残した歴史上、認定されている聖女は十六人。あなたたちが知っているのが二十人。さて、この差は一体何だろう?」
問いかけられ、魔王は記憶を探る。幾度も攻められる側の魔族は、何も毎回手をこまねいていたわけではない。記録を残し、対策を練るくらいのことはしていたのだ。それでも負けてしまうのは、それだけ聖女という存在が規格外だからなのだが。
「……我ら魔族とて、常に敗北を喫していたわけではない。過去に四度、聖女の抹殺に成功している。敗北した聖女……それが抹消された聖女なのか?」
「残念ながら、外れ」
あっさりと否定されさらに考える。聖女という存在が負けること自体がありえぬと秘されたわけではないようだ。ならば魔王が持つ情報からすると“抹消された聖女”は当時の魔王を倒したうえで、人間の歴史から存在を消されたことになる。人間たちにとって都合が悪かったということか。
「存在が残ると都合が悪い……一体、何をした?」
「時の権力者にとって都合が悪かったことを。彼女たちが魔王を倒した後にしようとしたことの詳細は私も知らないけど、いずれも妨害されて暗殺されたようだよ。守ってやった人間どもの手によってね。
……ああ、理不尽極まりない。同意もなくいきなり呼び出され、したこともない殺し合いを強制され、挙句に邪魔者として殺されてしまった哀れな聖女たち。その存在すら消されてしまったなんて」
ばきんっと音がして、聖女が持っていたカップの持ち手が砕けた。がちゃんと落ちたカップは空で、ころころと転がって止まる。
「あーあ、やってしまった」
嘆息すると壊れたカップをしまい、新しいカップを取り出した。
「ごめん、ちょっと取り乱した」
「いや……それが貴様の理由か?」
現在の聖女と同じように召喚され、そして使い捨てられた聖女たち。境遇に同情し怒りを覚えるのは当然だろう。
しかし聖女は首を横に振った。
「全く関係ないとは言わない。けど、本当の理由はそこじゃない」
「……まだ何かあるのか」
「まだ何かあるんだよ」
クッキーを一つ噛み砕き、聖女は続ける。
「あなたはさっき、“召喚された聖女は結局は魔族を滅ぼしに来た”というようなことを言ったね?」
「言ったな。実際、二十人の聖女が我らに害を……」
そこまで言って、魔王は口をつぐんだ。あることに思い至ってしまったのだ。
二十人の聖女。そのうち歴代魔王を滅ぼしたのは十六人。途中で魔族に暗殺されたのが四人。それで、本当に全員なのか?
動きを止めて眉根を寄せた魔王に聖女は語り掛ける。
「戦いに出た聖女たちが二十人いた。彼女たちは訳も分からず召喚され、期待され、圧力をかけられ、諦め、受け入れた。
では、諦められず、受け入れられなかった聖女たちはいなかったのか?」
聖女の声が低くなる。それは聞くものを凍らせるような、憎悪の声だった。
「そんなわけがない。彼女たちはいた。きっと帰りたいと泣いただろう。戦いたくないと訴えただろう。冗談じゃないと怒っただろう。当然だ。私たちにはこの世界の人間を救う義理も義務も存在しないんだから」
怒りの矛先は、その場でたった一人生き残っている人間、暴れ続けたことで血を流し弱ってきた騎士に向けられていた。その騎士は信じられないことを聞いたというような表情で、驚愕の眼差しで聖女を見つめている。
「家に帰りたいと訴える彼女たちに人間どもは言ったんだ……“帰る手段は存在しない”と。召喚は一方通行、呼ぶことはできても帰すことはできない。なんて無責任なんだろうね。勝手に呼んどいて、帰れないから協力しろだって。そんなもん従えるわけがない。まあ、従った人数が二十人だ。彼女たちは現状を受け入れ、生きるために協力することにした。
では、あくまで協力を拒んだ者たちは?」
口調は淡々として、しかし抑えきれない感情が溢れていた。彼女に呼応するように、金色の鎖が騎士の体を容赦なく締め上げる。
「協力しないからと言って召喚された彼女たちの力がなくなるわけではない。聖女は聖女だ。自分たちに非協力的な、強大な力を持つ者。しかし召喚された直後は何の力も魔力もなく無力だ。さて、どうする?」
決まっている。取りうる手段は一つしかない。
「……余計なことをされる前に消すよりほかない」
「その通り。そうして殺された聖女たちの数は九人。実に三分の一が闇から闇へ葬られた」
重苦しい沈黙が辺りを覆った。聖女は静かに瞼を閉じる。魔王は言葉もない。そして騎士は、聞こえない声で何かをつぶやいていた。
「……おや、何か言いたいことが? 聞いてやろうじゃないの」
気づいた聖女が沈黙の魔法を解いた。途端、騎士が声を荒げる。
「……そんな、そんな話は聞いたことがないっ! 聖女様、あなたは騙されている!」
聖女は冷ややかな視線を向けた。
「これは王城の禁書庫に収められていた禁書に書かれていたことだよ」
「っ!?」
「歴代の王族が遺した資料だ。それを疑うのかな? まあ、あんたが信じようが信じまいがどうでもいいことだけど」
無論国王がそんなものを聖女に見せるはずがない。帰れないと言われても諦められず方法を探し続けた聖女が、事情を知らない色ボケ馬鹿王子を誑かして秘密裏に侵入した際に見つけたものだった。
「あれが、決定打だったなあ……私は家に帰りたかった。お父さんとお母さんに会いたかった。小憎たらしい弟にも会いたかった。飼ってる猫にも会いたかった。友達にも会いたかった。私が当然に持っていたものを取り戻したいだけだった。
だけど、それはできないと言う。もう二度と家には帰れない。家族にも会えない。友達にも会えない。私は全てを奪われた。なのにどうして、全てを奪ったあんたたちを救わなきゃいけないの?」
「っ、し、しかし我らにはもう聖女様におすがりするよりほかっ……」
「知らねえよそんなこと。手前のケンカだろうが、手前で片付けやがれ。他人を巻き込むな」
攻撃的な言葉に騎士は絶句する。
「大体なあ、一万歩譲って最初の聖女召喚を容認したとしよう。自分たちではどうしようもないからすがりました。魔王を倒しました。めでたしめでたし。……それを何回繰り返してんの? なんで二度と魔王が現れないように魔族を殲滅しないの?」
魔王が渋い顔をしたが聖女は無視した。
「答えは簡単。魔王を滅ぼせば魔族はしばらく力を失うから。今平和であればそれでいいから。また百年後だか二百年後だかに復活したら、新たな聖女を呼び出して戦わせればいいから。……ふざけんじゃねえよ。どれだけ私たちを犠牲にすれば気が済む?」
「そんなっ、ことはっ! 魔族は、滅ぼさないのではなく、滅ぼせないだけでっ」
「嘘を吐くな。ならば何故魔王を殺した時点で戦いを止める? 何故殺しつくさない? まだ余力があるにも関わらず平和をただ謳歌する? そしてそれを何度も繰り返す?」
魔王は黙って聞いていた。下手に口を挟んで怒りに触れることが何より恐ろしい。
「私を召喚した王だって同じだ。もう二度と聖女召喚をさせないために魔族の殲滅をにおわせたら、その必要はないとぬかしやがった。それどころか余計なことを考えるなと脅されたんだぞ。
私は必死だったよ。殺されないように従順なふりをしながら帰る方法を探して。見つからなくて。だったらせめてもう同じ目に遭う子がいないようにしようと考えて。だけど無責任に私を呼び出したやつらはどこまでも無責任で。そしたら、私に何ができるのさ。こうなったら聖女を召喚する人間どもを殲滅するよりほかにないじゃない」
至った結論に騎士は絶望に顔を染めた。もはや聖女は騎士に構うことなく、魔王に顔を向けた。
「まあ、そう言うわけだよ。私はもう二度と私のような目に遭う子を出したくない。だから聖女召喚を行う人間どもを一人残らず殲滅したい。そのためにあなたたち魔族と手を組みたい。
私一人ではさすがに荷が重いし……それに、私は死ねない理由がある」
「それは?」
「聖女はね、世界に一人しか呼べないんだ。私が生きている間は次の聖女召喚はできないんだよ。先陣を切りたいのは山々なんだけどね、次の聖女を呼ばれたら困るでしょ?」
「……そうだな」
ここで初めて魔王は出されていたお茶に手をつけた。冷めきったそれを一気にあおる。
「貴様の話をそのまま鵜呑みにはできぬ。しかし貴様の憎悪は本物であろう。
よかろう。我ら魔族は聖女と手を組み、その保護を約束する。そして必ずや人間どもを一匹残さず殺しつくすと誓おう」
聖女は微笑み、魔王に手を差し出した。もはやためらうことなく魔王はその手を取った。
「ありがとう。私が死ぬまでに、必ず成し遂げてね」
「そんなっ、聖女様っ、お考え直しっ」
「黙れ。もうお前に用はない」
一転して鋭い目線を騎士に投げかけると同時に、騎士の体は炎に包まれた。上がる悲鳴はやがて消え、後に残るは黒い塊。
一片の容赦もないその仕打ちに、ほんの少しだけ早まったかなと思う魔王であった。