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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

備忘録

人間、生きていればいつかきっと笑える日が来る

作者: 一応匿名にしておこう

生まれる前に、性別が女だと判り父親に「女は要らないからおろせ」と言われました。

お腹の中にいた私は、それが聞こえていたのでしょう。へその緒で首つり状態になったまま母のお腹から出てきて、三ヶ月保育器生活でした。

服は全て男物か、姉のお下がりでした。赤ちゃんの頃の写真は数枚程度ですが、全て青色の服を着ていました。

6つの時に両親が離婚しました。私は物心つく前だったので、父の顔は写真で覚えました。

父に関する記憶で覚えているのは、公園の1m位ある鉄製ゴミ箱に入れられ放置されかけた事位です。他に昔の父に関する記憶はありません。

時代が時代でしたから、母への風当たりはとても強かったです。毎日毎日怒鳴られている母を見つつ、邪魔にならないよう姉と身を縮めていました。

小学校に入ったと同時に、私に対するいじめが始まりました。とろかったし転校生で親しい人がいない私は、格好のターゲットだったのでしょう。

母や姉にいじめがばれた時の事は、今でも覚えています。


「何でおとなしく苛められている」

「立ち向かわないお前も悪い」


母も姉も強い人でした。正直苛めてくる相手と同じ位、当時の母と姉は怖い存在でした。

1人だけ友達も出来ました。でもその友達に言われました。


「もし自殺なんてしたら葬式で指さして笑う」


友達も強い人でした。時々遊んでくれる彼女に見捨てられないよう、必死でした。


苛めは何年経っても終わりませんでした。

苛められる私に対し、学校側も困ったのでしょう。小3の時から、何度か当時ひまわり学級と呼ばれていた特別支援学級に行くように言われました。実際に数回以上はひまわり学級で過ごした覚えがあります。担任に言われたのか他の教師に言われたのかは覚えていません。

小3・小4の記憶はほとんどありません。集合写真を見ても自分がそこにいたという記憶がありません。なお、知的障害は無く、IQも100を超えています(検査済です)

小学5年の頃、当時の担任だった若い女の先生が「流石にこれはおかしいだろう」と手を尽くしていじめの中心人物達に指導してくれました。でもいじめは更にエスカレートしました。それでも担任の先生は一生懸命やってくれたので、ありがたいと今でも思っていますが……その結果なのでしょう、先生は僻地に飛ばされてしまいました。

小6の時、小5の男子数人にリンチを受けました。肩がアメフト選手のように腫れあがりました。先生方にまとめて呼び出されましたが、それだけでした。先生がやった事は嫌そうな顔をしている男の子達にごめんなさいを言うように言っただけでした。今考えると、ある程度身体が出来てきている11歳の男子数人(全員私より背が高かったです)が身長130cmに満たないちびな12歳女子に殴る蹴るの暴行をくわえたというのにおとがめなしで放置って、なかなか酷いですね。ちなみに全治一ヶ月くらいでした。


小学校時代、私の持ち物は「○○(苗字です)菌がついている」と言われ、遊びの対象にされていました。私の持ち物にふれ「ぎゃー、○○菌がついたー!」と他の子にすりつけてきゃーきゃー遊ぶのが楽しかったようです。あとよく殴られ(箒や物で)物を捨てられました。上履きもよく隠されて、泣きながら探しました。

最初で最後のリストカットをしたのもちょうどその頃だったと思います。右手首には今でも刃物を突き刺したような痕が残っています。痛かったし度胸が無かったのでその後はやっていません。

中学になってもいじめは変わりませんでした。元々我が家の学区には小学校1つ中学校1つしかありませんでしたので、いじめっこが全員同じ中学に行くのですから無くなる訳がありません。

この頃から一部の教師も苛めに参加してきました。私のテストだけ公開採点されました。

私を適当な男子にあてがって嫌がる様を面白がる女子も出てきました。それでも歪んでいた私は、そんな状態でも構って貰える事が嬉しくて仕方ありませんでした。病んでました、かなり。

正直、高校は別の所に行こうかと思っていたのですが、交通費と学費と学力的に、徒歩で行ける高校を選びました。同じ中学から50人程度、同じ高校に進学しました。


「あの子苛められていたのよ」


もちろんそんな話になりました。でも流石に全員が同じクラスになる事は無かったので、いじめは徐々に沈静化して行きました。(精々眉毛を抜かれたり髪を切られたりする位でした)

でも、それ以上にきつい事が起こりました。


遅い初恋でした。1つ上の先輩でした。

異性に初めて優しくされて(先生に無理矢理入れられた生徒会で一緒でした)舞い上がり、単純な私はすぐ先輩が好きになりました。

先輩はクオーターで、雑誌モデルをやっている人でした。背も高くスタイルも良く成績も良く、凄くかっこいい人でした。

遊ばれているのが判ったのは、つき合ってもいないのに求められた肉体関係を拒否した時でした。まだ15歳でしたし、正直頭が固かったので、そもそも学生のうちにそういう関係になる事自体考えられなかったのです。でもその翌日。いっぱい考えて、先輩がどうしてもと言うなら、と、精一杯おしゃれをして先輩の家に言った時、言われました。


「お前より○○(たった一人、小学校から友人づきあいをしてくれていた強い子)がいい。もうお前いらないから帰れよ」


泣きました。そりゃもう大泣きしました。多分人生で一番落ち込みました。でも、友人なら仕方ない、と思い、なんとか吹っ切りました。

友人は凄くモテる子でした。誰に対しても分け隔てなく接し、スポーツ万能で頭も良く、顔も綺麗で、少しふくよかでしたがおデブという程ではない、まさに「つき合うならこういう子がいいよね」というタイプでした。私なんかをかまってくれるいい子で、正直女神か何かじゃないかとすら思っていました。


「あんた、あの子の引き立て役にされているだけだよ」


多少話す程度だったクラスメイトに、そう告げられるまでは。

確かに、私には彼女しかいませんでした。でも、彼女にとって、私は多数の友人の一人でしかありませんでした。

でも、その時、思いました。


「じゃあ立派な引き立て役になろう」と。


思えば、私の人生が変わったのはその時だったと思います。

だって、たとえ利用されていたんだとしても、周囲全てが敵だった時、きつい言葉をかけつつも、たった1人私の傍にいてくれたのは事実なのです。なら彼女の役に立つ人間になろう、彼女の傍にいて恥ずかしくない人間になろう、と思い、今までびくびくしっぱなしで自分から話しかける事をしなかったのですが、人に話しかけるようにしました。そのおかげで人間関係が改善され、性格も前向きになり、他の友人も出来ました。

その後紆余曲折ありましたが、十数年経った今でも彼女と連絡を取り合っています。

ちなみに今の夫と付き合いだしたのもその頃です。


そこから先の人生も、順調だった訳ではありません。

17歳から付き合っていた今の夫は、顔が父に似ているというだけで2年も母にお付き合いを認めて貰えず、結婚も31歳になるまで許して貰えませんでした。

高卒で就職し、右も左も判らず怒鳴られ叱られ怒られた初めての職場は、唐突に首を宣告されました。

必死に探した次の職場はブラック企業で(週5日、長い時は朝6時半~夜9時半まで働いて給料10万以下(手取りにあらず)は立派なブラックだと思う)自律神経失調症になり退職せざるを得ませんでした。

期限付きの職を転々としていた頃、姉がパニック障害の診断を受け、更に母がガンの宣告をされ、お金が必要だったので単身県外の昼夜勤務がある工場に派遣で出稼ぎに行きました。

生まれて初めての一人暮らしで、生まれて初めて一人で飛行機に乗り、生まれて初めて電車に乗りました。

まだスマホがない(もちろんGPSも無い)時代で、パソコンももちろん無く、「明日工場に案内するから」と宿舎であるアパートに放置され(もちろん周辺地図なんてものも貰えず)コンビニや自販機が何処にあるかすら判らず、お腹が空いて喉が渇いて、せめて何か飲みたいと思い自販機を探していたら家に帰れなくなってしまい、夜道を泣きながら彷徨いました。30分かけてようやく家に帰りついた時は部屋で号泣しました。

工場ではセクハラを受け、危うく暗がりに連れ込まれる所でした。仕送りを増やす為に、水道水を直接飲んでいました。冷凍した食パンをそのままかじっていました。食パンを千切って皿に入れてレトルトシチューをかけたものがご馳走でした。寒くて眠れない時はありったけの服を体にかけていました。

リーマンショックのあおりを受け工場と派遣会社が倒産したので実家に帰り、短期の仕事を転々としながら、仕事が出来ない姉の面倒と母のガン治療に付き添いました。

そのほかにも色々ありましたが、まぁそのあたりは短編を見て頂くと言う事で(宣伝(笑))


「あんたの人生、落ち着いている時期がないよね」と友人に言われる位、波風が立たない時は無い人生です。もちろん今でも時々波風がざっぷんたっています(つい最近の波風は去年11月で、右手首に手根管症候群を発症し全治一ヶ月の診断を受け、働いていた職場を退職せざるを得ませんでした。元のようにタイピングが出来るようになったのはつい最近で、現在求職中です。初詣で厄除けお守り買って来ました)

それでも、17歳の頃から14年恋人として過ごし、31歳の頃から5年夫婦として過ごしている旦那は今日も傍で笑ってくれています。ちなみに子供はいません、まだコウノトリが来てくれていないので。


あの時、彼女を疑い切り捨てる選択をせず自分が変わろうと足掻いたから、今の自分があると思っています。

たとえどれだけきつくても、たとえどれだけ辛くても。利用されているだけだとしても、傍にいてくれるならそれでいい。開き直りも貫けば、結構いい方向に進むもんです。ええ、馬鹿だと判っていますけど。


まぁ、でも。人間、生きていればいつかは笑える日が来ますよ。

これだけ色々あった私でも、今、笑っていますから。まぁそんなの序の口だろうと言われたらどうしようもありませんが。他にもそれなりにイロイロありましたが、流石になろう会員に知人がいたら不味いので割愛しておきます。大丈夫だとは思いますが、身バレしたら泣けますし。


ああ、あと、追記として。

私を苛めていた方々に、3人ほど高校卒業して関わる機会がありましたが。

1人は私を苛めていた事が最愛の恋人にばれ、人間として最低だとこっぴどく振られました。

1人はたまたま私の職場に営業として来て(うちの職場と長年業務契約している企業さんでした)私と彼の事情を知っていた上司に契約を断られ大変な目にあいました。

1人は何と議員になっていまして、「○○さん!応援しています!」と応援演説の後に満面の笑みで握手して差し上げたら真っ青になっていました。私、中学の頃によくしてくれた男性教師に「お前は本当に変わらんな!ちょっと白髪としわが増えた位か!」と満面の笑みでつい最近言われた位、顔も身長も体型も更に髪型も変わっていませんので、きっと誰か判ったと思います。


こんな事も、生きていたら起こりますよ。ええ、意外と頻繁に、ね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 色々大変そうですが、それでも笑えるといえるのは凄いとおもいます。 良い人と結婚できたのが何よりです。
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