原題 『夕陽丘のゆぅきだるま』
拝啓――――――。
「ただいま、ばあちゃん!」
「おや、おかえり。ちょっとそこまで買い物に行ってくるけど……おやおや、そんなに急いでどうしたんだい?」
つい最近入学式だった気がするのに、気が付くと中学生になって一か月は経とうだなんて。……この前の事が、もうずっと昔みたいに思えてくるよ。
ばあちゃんはこの通り。ぴんぴんしているどころか、わたしがお留守番するのを期待していたみたいにおしゃれしている。
きっと、お買い物だけじゃない。どこかにお出かけしようと思っていたみたいだけど……、ごめんね。わたしも今日は外せないや。
「うん、ちょっと出かけてくるね」
「有紀」
呼び止められて、一瞬固まる。だって、男の子みたいで嫌いだった、わたしの名前を呼ぶんだもの。
「車に気を付けて、あまり遅くならないようにね」
――――でも、今ではね。心から笑っていられるようになったんだよ。
だから。
「はあい! 行ってきます!」
今日もこうして、おばあちゃんと笑っていられる。
あの日から、わたしは変わりました。それもこれも、あなたのおかげだよ。
今日はね、ひとつ報告があるんだ。
急いで夕陽丘の公園にいかないと、きっとあいつが来ちゃうんだ。だから急いで公園に続く坂を上ったのだけど、今まで感じた事ないくらいに心臓がばくばく鳴ってうるさい。息切れのせいなのか、緊張のせいなのか……。
あああああ……もういやだ。
心底逃げたい。
今のわたしはきっと変だ。ほら、わたしの呼び出しに驚いたあいつの姿を見かけただけで、今にも心臓が止まりそう。
でも。でもね! もう、決めたんだ。
「急に呼び出したりしてごめん」
……こんな日が来るって、あの時は夢にも思っていなかったね。
だってわたしはいつだって、あいつの事を目で追うばっかりで、怖くてどうしようもなかったから。こうして告白しようなんて日が来るなんて、考えた事すらなかったんだよ。
…………ううん。今となってはただの笑い話かな。
息を無理矢理吸い込んだからか、胸がこんなにも苦しい。
「――――――あのね、わたし……! 貴方の事が――――!」
『あなた』と出会ったのは、珍しく雪が積もった日だったね、ゆぅきだるま。
* * *
自分の名前がいつも大嫌いだった。
有紀。男の子みたいな名前で、実際しょっちゅう間違えられた。学校で先生に名前を呼ばれる時も、決まって初めは『ゆうきくん』だ。
そのせいで何度も男子にからかわれて来た。女子も苦手。だって、わたしのいないところでこそこそ笑っているんだもん。
唯一、あいつだけはクラスの中で普通に接してくれた。
多分、クラスの真ん中に自然にいるあいつは、特別な気持ちがあってわたしにそうしてくれたわけじゃない。それはもちろん解っている。ただのクラスメイトとして声をかけてくれているだけに過ぎないんだ。
でも、だからこそ、ふと気が付いた時にはいつも目で追ってしまっていたんだと思う。
笑った顔が、目に焼き付いたみたいに離れない。もっと見ていたい。でも、それはそれで恥かしい。
告白なんて……出来る筈がない。
怖いし。見ているだけで精いっぱい。
また男子にからかわれて、女子には陰で笑われる。解り切った事だ。
あいつまでそうされるくらいなら、ひとりでいる方がずっと気は楽。
うん、今のままが一番楽なんだ。
――――でも。
だからこそ学校に、わたしの居場所はない。
久方ぶりに、昨日から今日の朝方にかけて雪が降った。周りは嬉しそうに言うけど、私の気持ちは雪が積もりきった屋根みたいに、気持ちが重くなった気がした。
水気の多いぼたん雪。わたしにはお似合いだ。
「ただいま……」
静かに扉を開けて告げると、同じ調子で静かな家がわたしの帰りを迎えてくれた。
ああ、うん。学校なんかよりも、ずぅっと居心地の悪いところがここにあった。
「はあ…………」
ため息をこぼさずにはいられない。空気が冷え込んでいるせいだろうか。家の中なのに吐く息がとても白い。
誰もいない訳じゃないのに、しん、と静まり返ったこの家が気持ち悪い。
どうせばあちゃんしかいないもの。無人の家とおんなじか。
どかどかと廊下を歩いたのは多分、居間にいるはずのばあちゃんに気がついて欲しかったんだと思う。それでも顔も見せずに部屋に行ったのは、言葉にしようのないもやもやのせいだ。
今は、そう。一人になりたくて仕方がない。
部屋に鞄を投げ込むと、さっさと出かけてしまおうと思って、いつものトートバックとダウンを掴んだ。バックに本とブランケットが入っている事だけを確認して、とっとと肩にかけて階段を下りる。
乱雑に居間のガラス障子を開けたら、案の定ばあちゃんは炬燵に座っていた。
それだけならばまだいい。よりにもよって布団を持ち出して、熱心にパソコンにかじりついている。
「ばあちゃん……」
思わず前髪をかきむしる。でも、振り返ったばあちゃんはわたしの気なんて知らずにのほんと宣ってくれた。
「おや、有紀おかえり」
「またネットゲームやってるの? いくら父さんがボケ防止に勧めて来たからって一日中やるのはやめてよね。そんな姿、じいちゃんが見たら泣くよ?」
「やあねえ、恵子さんみたいなこと言うのは止しておくれよ。あんたにまでそんな事言われてしまうとは、じいさんがいなくなったこの家にあたしの居所はなくなってしまうじゃないの」
「………………ハア」
そんな、母さんのことをわたしに言われても、一体どうして欲しいって言うのだろう。
ぶつぶつとまだ何か文句言いながらマウスをクリックしているけど、どうせ同意は求められていない。ああ、もう。さっさとこんな家、出ていきたい。
「……ちょっと裏の公園行ってくるから」
端的に告げれば、ばあちゃんはこちらを振り返らずに答える。それもいつもの事。
「ああ、あまり暗くならない内に帰っておいでね、有紀。今日はいっとう寒いから、有紀が好きなシチューだからねぇ」
「ばあちゃん、その名前はよして」
ばあちゃんはきっと、何の気なしに言っただけだろう。でもそれすらも、不快のせいで止められなくて、眉を潜めてしまっていた。
「お願いだからユキって呼んで。あとばあちゃん、いつも炬燵にお布団持ち込むのやめてって言ってるでしょう? いつか火事になっても知らないからね?」
玄関の扉が大きな音を立てたのは、わたしのせいなんかじゃない。
みんな、みんな。
この男の子みたいな名前が全てを憂鬱にさせるから、いけないんだ。
だいきらい。
* * *
向かうのは崖の上の公園。わたしの唯一楽しみの時間だ。
道すがら雪を蹴り上げる。公園に続く坂道は、積もった雪のせいで真っ白な滑り台みたいだ。ざくざくと音が鳴って、少しだけ足が沈む感覚は面白い。それだけで、少しは気持ちが軽くなった気がした。
きっとこの分なら、公園も真っ白だろう。公園の中にある東屋では、ブランケット一枚じゃあちょっと寒かったかもしれないけど……まあ、いいや。
公園についてすぐに、おかしなものは目に付いた。
「ぃ?!」
……と、いうか、嫌でも気が付く。
公園の入り口をふさぐように、二メートルはあるんじゃないかって思ってしまうような雪だるまが鎮座していたのだから。
いや、確かに昨日から降っていた雪はすごく多い。ついつい誰かもの珍しさに雪を丸めたくなる気持ちも解る。だけど高さ二メートルって、普通につくれる大きさじゃないことくらい、流石にわたしでも解る。
しかも、二段重ねじゃない。三段だ。
まるでお腹の出たおじさんみたいに、まあるい雪の大玉が大中小と三種類、それは見事に末広がりな体型をつくって鎮座していた。……誰? こんな気の狂った大きさの雪だるまを、こんな坂の上に作ったの。
見上げれば、しっかりと木炭で作られた目がこちらを見下ろしている気がした。……わりと気味が悪い。
こっち見るな! って、ニンジンで作った鼻を無性に折ってやりたくなる。
「に、しても邪魔くさいな……」
「んだと?! こら」
ぽつっと呟いたら、それを聞き付けたみたいに野太い声が聞こえた。
「え……?」
もしかして作り主でもいたのか。だとしたら不味い。これだけの大物を作ったのであれば、愛着も一入の筈だ。絡まれたりしたらたまらない。
兎に角さっさと謝って、この場を退散しよう。そう思って声の主を探すのだけれど、目に見える範囲に人影はない。それどころか、公園には人っ子一人見かけられない。
空耳だろうか?
寒すぎて耳鳴りを聞き間違えてしまったのかもしれない。
我ながら恥ずかしい聞き間違いだと苦笑いしていたら、「邪魔とは聞き捨てならないな。オレの方が先客だぞ」 と、まるで空耳ではないとでもいうように、また野太い声は不機嫌そうに告げた。
「え、だれ?」
さすがに気味が悪くって後退りする。いつでも逃げだせるように身構えながら辺りを伺うと、次の瞬間、衝撃的な事が起こった。
「オレだ」
ただでさえ見上げるほどだった巨大な雪だるまが、すくと立ち上がったのだった。
「ひっ……!」
木炭の目が、ずいとこちらを見下ろす。
生き物とは違う無機質なその眼は、何を考えているのか全く分からないのに、こちらを食い入るように見ているのが解る。怖い。
巨大な体から生えた、ドラえ○んのような丸くて短い足のようなものがあるせいで、ただでさえ大きな身体をより大きく見せてくる。
意味が解らない、怖い。怖い……!
だから。
「あ、おい?!」
だからわたしはその瞬間、意識をあっさり手放してしまった。
おしゃべりな雪だるま。
それが自称『ゆぅきだるま』との、衝撃的な出会いだった。
* * *
背中から登ってくるような寒気に、ぶるりと肩が震えて目が覚めた。お馴染みの東屋の天井がぼんやりと映る。ああ、いつの間にか眠っていたのか。こんな寒い日に眠ってしまうなんて、我ながら驚きだ。疲れているのかな。
あれ、何だったか。
何かとんでもないものを見たような気がする。
ぼやけた頭で『何だったかなあ』 と、東屋の天井の木目をなぞるように眺めていたら、不意にぬっと視界の中に白くて大きな物体が入り込んできた。
「よお、起きたか?」
「――――つっ?!」
無機質な表情が、こちらを見下ろす。息が止まるかと思った。
寝てなんていられなくて、自分でも驚くほどの跳躍力で飛び退いていた。
「ゆ、ゆ、ゆ……え、ウ……ぇあ……?」
そして最早言葉すらまともに出て来なかった。驚きと恐怖がないまぜになって、まともな神経ではいられそうにない。悪夢が夢じゃなかったの?!
「まあ、まずは落ち着け。深呼吸してみな?」
「なんでッ……なんで雪だるまが動いてるのよ?!」
「なんでって聞かれても動いているもんは仕方ないだろうに」
「いや、仕方ないって……?!」
怪訝そうな声色の雪だるまは、相も変わらない無表情だ。割りと怖くて、思わず叫んだ。
「あなた、一体何なの?!」
「何って? お前さんには一体何に見えているって言うんだ? オレはゆぅきだるまさ」
しれっと答えるこのだるまが憎い。今絶対、肩があったら竦めてた。肩ないけど。
「それにしてもお前さん、こんなところで寝てたら風邪ひくだろう。早く家に帰ったらどうだ」
「ぇ、う。よ、余計なお世話だよ! わたしは今から読書するんだから!」
「読書?」
素っ頓狂な声を上げたかと思うと、疑るような視線を向けて来た。――――ような気がする。表情変わらないからよくわかんないけど。
「ふうん? こんなところで一人で読書とはなあ?」
でも、言葉通り「このくそ寒い場所で読書なんて何考えているんだ?」 って言わんばかりだ。わたしはわたしの楽しみを否定されたような気分になって、つい、ムキになってしまう。
「そ、そうだよ読書! わたしの日課にケチつけないでよね!」
「読書なんてせんでも少しは誰か友達と遊んだらどうなんかね、その方が楽しいぞ!」
「うるさいな。別にいいでしょ、お節介! 誰にも迷惑かけてないもん」
そっぽを向いたわたしに、そいつはせせら笑った気がした。
「うるさい~? なら、わざわざこの公園に来なきゃいいだろうが。本なら家で読めばよかろ? たまには他の事してみたらどうだ?」
「だから、余計なお世話だって! わたしはいつもここで本読んでるの! 家で読めるならそうしてるよ! でも出来ないからここで本を読みたいの!」
「なんだなんだ? 家族と喧嘩でもしたのかあ? 家出少女。ぷっ」
「ちっがう! 引きこもりのばあちゃんと一緒に居たくないだけ――――って、あんたに関係ないでしょ! もう、邪魔するならわたし、帰る!」
挑戦的な言葉に乗せられてしまう自分が悔しい。解ってる。そんなに簡単に別の事できるなら、とっくにそうしてるもの。
ばたんと音を立てて本を閉じると、肩を怒らせながら公園を出た。
「おいおい、言いたい事あるなら言える時に当人に言ってやらなきゃ伝わんないぞ? おーい」
呼び止める声が聞こえた気がするけど、許してやんない。
頭では解っている事を指摘されて腹が立つ。なんで見ず知らずの雪だるまごときに、そんな事言われないといけないのか。意味が解んない!
…………でも。
でも、久しぶりに、あんな風に誰かと話したような気がした。言いたいことを思いっきり言ったような気がするせいか、心なしかすっきりした。少しだけ、本当に少しだけ懐かしさを感じたせいかもしれない。
……楽しかったかも、なんて言ったらあの雪だるま調子乗りそうだから、絶対言わないけど。
* * *
いつもは憂鬱の筈の、学校の帰り道。珍しくも、なんだか足取りが軽かった。
昨日はケンカ別れみたいに帰ってしまったけど、今日も公園に行ったらあのお節介雪だるま――――もとい、ゆぅきだるまはいるのだろうか。道端の溶けかかったべしゃべしゃの雪を踏みしめながら、ぼんやりと思った。
……別にわたしが気にすることでもないけれど、せっかくだから塩でも差し入れてやろうかなあ、なんて。そしたら少しでもあの大きなお腹が維持できるんじゃないかしら。
自分の事ながら、昨日と考えている事が違う自分がおかしくて、思わず笑ってしまった。
――――けど。
「……え?」
家までの道は、いつもと辺りの様子が違っていた。風の匂いが違う、とでも言えばいいのだろうか。微かに煙臭い気がした。
違和感はすぐに気が付いた。
「ウソ……?!」
信じられる筈がなかった。だって、自分の家の方で煙が上がっているなんて、どうして信じられるだろうか。
「っ……」
信じられない思いに足が竦む。瞬間、脳裏を過ったのは炬燵に座るばあちゃんの背中だ。
いや、違うならそれでいい。いっそ、隣の家が火事なら、不謹慎だけど御の字だ。
違って。お願い。
気のせいだと思い込もうとしたい。今すぐ元来た学校にでも引き返して寄り道しようとする、わたしの足を叱咤する。
ほら、隣の家なら早く通報しなくちゃ。ウチまで燃えちゃうなんて困るもの。
ねえ、だからほら。急がなきゃ。
――――でも。
願いなんて、報われない。
家の回りには、遠巻きに事態を伺う近所の人が人垣を作っていた。慌ててその人垣を掻き分けて前に行くと、淡い期待も打ち砕かれる。
息も凍るほど寒くて、雪まで降るほどだったはずなのに、今はあり得ないほど肌が暑い。
嫌な動機に胸が痛い。心臓が暴れているみたいにばくばくする。
「ウソだよ……!」
イヤイヤと、首を振ってみても、目の前で赤々と燃える火が幻みたいに消えるわけがなかった。
あたりを慌てて見回すけれども、探し求めている姿はない。ねえ、お願い。ちょっと人ごみに紛れているだけだよね?!
「まさか……」
まさか、そんなことはないと思うのだけど。
気のせいならばそれでいい。
でも、確かめずにはいられなくて、人垣の中から飛び出していた。
「ばあちゃん?!」
声が裏返る。誰かがわたしを引き留めようとした気がする。
捕まれた腕を振り払って、わたしは玄関に飛び付いた。
「きゃあ!」
開け放った途端、中の熱気がわたしを襲う。ごうと吹いてきた熱風の熱さに頭を覆った。
そうだ、火事の時って扉を開けちゃダメだった。火の手がまるでわたしを捕まえようとしているみたいに、もしくは誘っているみたいにこちらに向かって腕を伸ばし踊り狂う。
その暑さに目を細めながら玄関にあるサンダルを見つけて、ざあって耳元で音を立てて血の気が引いた。気持ち悪い。でも、確かめずにはいられなくて叫んでいた。
「ばあちゃん! いるの?! いるなら返事して?!」
半狂乱になって叫んでるのは解っている。後ろで誰かいろんな人の声が聞こえた気がしたけど、それよりもわたしの耳はごうごうと唸りを上げる炎の向こうにうめき声を聞いてしまった。
考えるよりも先に、身体が動く。躊躇いは見えないフリをした。
そうでもしなければ、臆病なわたしが首をもたげて反対に向かって走ってしまいそうだった。
嫌だ。
逃げてしまっては、わたしは必ず後悔する。
だって、だって……!
肌を焼く火が兎に角熱い。
髪も焦げてきているのかもしれない。凄く、臭い。
「ばあちゃん?!」
開け放されたままになっている引戸の向こうで火がちらつく。その中に、黒っぽい姿が蹲っているのが解り、慌てて中に飛び込んだ。
「ばあちゃん、しっかりして!」
「ぅ……ゆうき……?」
身体を起こさせようとして、抱えていたものに気が付いた。
その瞬間、カッと頭に血が上る。
「ばあちゃん、こんなのに構っている場合じゃないでしょ?! 早く立って! 逃げるよ!?」
抱えていたノートパソコンを引ったくろうとしたら、思いの外強く抵抗された。
「う……いいや、いやよ有紀。これないくらいなら、いっそ……」
「ねえ、お願いだから馬鹿な事言ってないで?! もう、ばあちゃん!」
わたしの腕ごとまた丸くなる。この駄々っ子どうしたものだろう。
わたしの力では、蹲ったばあちゃん一人すら抱えて走る事も出来ない。
途方に暮れるって、こういうことだ。
周りの火の手が迫り来る。炬燵で燃えている毛布に、ああやっぱりと思わずにはいられない。
そんなことはどうでもいい。
どうしたらいいの?
途方に暮れるって、こういうことだ。
その、時だった。
「きゃあっ!」
天井の一部が崩れてきた。思わずその場に縮こまる。
上から何かが降ってくる。重たそうな何かがすどんと着地して、ずしずしとこちらにやってきた。
腕の隙間からそっと伺うと、天井には穴が開いていた。
そして天井の前で、炎に炙られた木炭の目がこちらを見下ろす。
生き物とは違う無機質なその眼は、何を考えているのか全く分からないのに、今ばかりは頼もしく見えた。
巨大な体から生えた、ドラえ○んのような丸くて短い足のようなものがあるせいで、ただでさえ大きな身体をより大きく見せてくる。
「ゆうきだるま……!」
泣きそうだって思った。ずしっと乗せられた雪の手は、じっとりと溶けかかっている。でも、こんなにも心強い。
無機質な目が、今だけは怒っているように見えた。わたしの足元を一瞥してずんとまた、一歩踏み出し怒鳴る。
「おいこら、ウメ! いい年してみっともない! 有紀に怪我でもさせてみろ、祟り殺すぞ!」
殴り付けるような乱暴な言葉に、初めてばあちゃんは顔を上げた。唸るような低いダミ声に怒鳴られれば、当然だと思う。
その表情は今にも目が落ちてしまいそうで、驚きすぎて呆然としてしまっていた。お陰で手の力も緩まって、わたしはその隙にパソコンをひったくって放り投げた。
「ばあちゃん立って! 逃げるよ!」
最早、言われるままだったばあちゃんは、よろよろとしながらも立ってくれた。また座り込まない内にその腕を引く。
ばあちゃんを抱えて引きずるように走ろうとしたら、むんずと襟首を掴まれて驚いた。
「ゆうきだるま?!」
「いいか、ユウキ! じっとしてても何も始まらねえ! 変えたければ自分から動け! 今みたいにな!」
そんな言葉、言われなくても解っていた。振り回されて、ばあちゃんもろとも投げられて、一瞬の内にその大きなシルエットが炎の向こうで遠くなった。
「忘れるんじゃねえぞ。下は向くな。失敗を恐れて動かずにいたら、何も始まらねえってな!」
「ゆう――――――」
慌てて自分たちを投げた姿も逃げているのかと振り返ると、全く追って来ようとせずにそこ立っていた姿を見間違えた。
でっかい雪だるまじゃない。
煙が目に染みて涙が滲んだせいで、幻覚でも見ているのだろうか。わたしは我が目を疑った。
「じっちゃ……?!」
でも。
出かかった言葉は、消防隊の人の大きな声にかき消された。
わたしとばあちゃんは、防護服に身を包んだ隊員の人たちに、攫われるようにして助けられたのだ。
その火事で、わたしたちは軽傷で済んだ。
その火事で、亡くなった人はいなかった。
* * *
あれから雪が積もったことがないせいか、あなたに会えた日はないね。
夕日がきれいだよって、隣ではにかんだ姿があなたに重なって見えたのは、もちろん気のせいだって解ってる。だって、あなたに似ても似つかないもん。……お腹とか。
気が付けばもう、春が半分も終わっていたんだね。あなたが苦手な夏ももうすぐそこで驚いちゃった。
……また、次の冬には会えるかな? そしたらその時は、あなたに紹介したいなあ。
ねえ、また会えるよね。ゆぅきだるま。
それじゃあ、またね。
敬具
二〇××年五月×日 有紀
ゆぅきだるま様
この度プロットを下さった碧氏に感謝いたします