<4> ふたり姫 下(前)
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※かなりグロいです
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大手の坂道を駆け上がり、大塔の建つ井居に辿り着いた奈由羅は、視線の先に迸る赤に舌打ちをする。
冬も近い季節、晩秋の羽鉋は深と冷える。
肌寒さに相反して開かれた窓という窓には、毒々しいまでの赤紅がぶちまけられていた。
冷ややかに吹き抜ける風には血臭が混じる。
惨劇であった。
晩秋の絢爛に囲まれて、翠湖城は惨劇に見舞われていた。
押し開かれ、開け放たれた窓から滴る、茜に弁柄、代赭、樺色錆色鳶色朱色に紅赤、流れ去る血の飛沫。
軒先飾りは腸が、千切れた腕が、刳り貫かれた目玉が、泣き別れた下顎が、雨垂れの如く滴を落として並んでいる。
「調査で済むとは思えねぇな……」
ほろり、毀れた言葉に、戦慄ひとつ。
「班長、どうします……?」
「どうもこうも無ぇだろ。生存者を探す。邦頭様と炉玖砥殿は、何としても見つけるぞ」
兵士も詰めていた大塔が、かくも凄惨な有様であるから、二人を生きて見つけ出すのは絶望的であろう。それでも、諦めるわけにはゆかない。
「最優先は救助、次が調査だ。四組苑回、五組音維由、鉤館へ行け。一から三組は大塔だ、ついて来い」
六人一組の計五組を振り分け、奈由羅は血塗りの城を見上げた。
荒事は向きじゃねぇんだけどなぁ、と内心に苦言、そして大塔の大手口へ駆け入る。
手に手に得物を携えて、班員達も後に続いた。
――――――――――――
「あら、いもうとよ、人が」
旅装の長壁姫が、白い顔を上げた。
「まあ、おねえさま、ひとが」
禿の亀姫が、円らな眼で女を見遣った。
引き抜かれた太刀の痛みと、含み笑いの消えた声音に、会予廼の薄れかけた意識が浮上する。
「入り込みましたわ」
「はいりこみましたわ」
ふたりの姫は凶手を休め、口々に「人が」「ひとが」と言い合っている。
会予廼は耳にしたふたりの言葉から、兎にも角にも人間を嫌悪する泥濘を汲み上げた。
それは例えば、米櫃に湧いた穀蔵虫に眉を顰める如く、うぞうぞと這い回る虫螻を蔑視する高慢にも似ていて、
「憎たらしいこと、かしましいこと」
それは例えば、汚らしいどぶ泥の不快極まりない悪臭に顔を顰める如く、見るも厭わしい汚濁を憎悪する潔癖にも似ていた。
「いやらしいこと、おぞましいこと」
詰まる所、このあやかしたちは、人間など塵芥と同じくらいにしか思っていないのだ。
朦朧と、会予廼がそう考えている間に、長壁姫と亀姫は彼から離れた。
「いもうとよ」
「ええ、おねえさま」
相も変わらず谺の様に、ふたりは交互に言葉を交わす。
ぴちゃぴちゃ、にちゃにちゃ、粘つく血の足跡を付けながら、とすんとすんと階段を降りて行った。
薄く、会予廼は安堵の息を吐く。
どうにか、時間稼ぎは出来た様だ。
炉玖砥を最上層に送り出し、自身は大塔を下りて兵士を集めて、ふたりの姫に挑んだ。
その判断に間違いは無かったと思いたい。
大塔に詰める兵士ではなく、下段で訓練中の兵士を召集したのは、大塔の詰め兵が現役ではないからだった。年齢や怪我、病等の事情で身体の能力が落ちた者が、兵士に関わる諸事を処理する、いわば事務方だ。警護役でもあるが、身体能力を鑑みて、屋内での最低限の武力、という程度である。
存在しない筈の足音は、その主があやかしである事を想起させたのだろう。事実、あやかしであった。
引き連れて来た下段の兵士達は、衛士程ではないが会予廼よりは強い。
立場と言葉と気迫で、会予廼が幾らかでも粘り、後は兵士達に託すよりないが、
(……いかに何でも、相手が悪かった、か……)
会予廼が蹲っているのは、二層目から三層目へ上がる階段の、上がりきった突き当たりの壁際だった。赤い斑に塗り替えられた漆喰壁に背を凭せて、野分に玩ばれた案山子の如く、ぐたりと崩れ落ちている。
羽鉋の邦頭、という立場に、あやかしも多少は斟酌したらしい。
周囲を見れば、無残に引き千切られた詰め兵が点々と転がり、頭上に目を遣れば、詰め兵の中身がぶらぶらと磔になっている。
瞬きの間に、会予廼を縊り殺す事も、あのあやかしたちには出来た。それをしなかったのは、会予廼を頭だと看做したからだろう。
米櫃の米を食い尽くす穀蔵虫の、親玉と。
蜘蛛の子を抱える親蜘蛛と。
言葉の端々から、城に対する執着が伺えた。
気に入りの城に棲み付いた害虫の頭だと、思われたのだろう。
だからだろうか、あやかし――特に亀姫は、ねちねちと会予廼を甚振った。
太刀を提げた亀姫に対し、長壁姫は無手であるが、しかし、そもそも刃金は必要ないのだろう。亀姫の手にある太刀は、確か、三層目の階段の警護兵が持っていたものだ。殺して、奪ったに違いない。
武官でもなく、借りた脇差しか持たない会予廼には、敵うべくも無い相手。無論、それはふたりの姫にも明らかであっただろう。
だからこそ、先頭を切って挑んだ会予廼を御座なりにあしらい、くすくすと笑いながら誘導し、そして死体に囲まれたこの場所で、ゆっくりと会予廼を斬り刻む事も出来たのだ。
最初に足を斬られた。腱を断ったのだ、とは転んでから気が付いた。斬られた右脚を庇い立ち上がる間に、左脚の腱も断たれた。起き上がれない会予廼を蹴り飛ばし、漆喰壁に押し付けて、長壁姫が会予廼の右手を踏んだ。ほっそりとなよやかな足に踏み付けられて、手首の骨が軋んだ。脇差を握っていられなくなり手放すと、それを拾い上げて手元で遊ぶ。さも良い事を思い付いた、とばかりに赤い唇が弧を描き、脇差は会予廼の肩へ突き立てられた。ざっくりと根元まで、背後の壁に縫い付ける様に。
『あら、あら、かわいそうに』
『まあ、まあ、おいたわしや』
くすくす、くすくす、
『おねえさま、わたしもまねをしたいですわ』
『それなら、反対の肩に刺しなさいな。骨と骨の間を、通すのですよ』
くすくす、くすくす、
笑いながら、亀姫が太刀を振り、両肩を壁に縫い止められた会予廼は、さながら磔刑に処された罪人の如く。
激痛に喘ぎ、気が遠のきそうになって、会予廼は覚悟を決めた。
これは拷問ではない。ふたりの姫は、会予廼の持つ情報や物品を欲しては居ないのだ。だから、これは拷問ではなく、遊戯である。
それならば、遊戯の終いは会予廼の死であるはずだ。
生きている人間を甚振って遊ぶのならば、会予廼が死んだら遊びは終わる。
(そう簡単に死んではならん。意識を失ってもいかん。衛士が来るまで、俺は生きていなければならない)
そうして耐えた所で、会予廼が助かるかどうかは、甚だ怪しい。が、それでもいいと思ったのだ。己が耐えて羽鉋が救えるなら、永劫の苦痛にさえ耐えてみせよう、と。
腱を断たれた足の先から少しずつ刻まれた。右脚が膝まで無くなった所で、左脚に興味が移った。左脚は肉と言う肉を毟り取られ、膝の皿を粉々に打ち割って終わった。綺麗に骨だけ残っているが、どうにか抜け落ちずに脚らしき形は残っていた。膝から上の腿には、どうやら興味は無かったらしい。
初めに脇差を握っていたからか、今度は右手が遊びの材料になった。庭の小石をめくるように爪を剥がれた。五本の指の関節は、曲がれば曲がるだけ逆方向に捩られた。それから捩り折った指を更に摘んで捩じ切られた。指が無くなると掌を裂いて、剥き出しの骨を弾いて遊ばれた。それから長壁姫が両手を使って、前腕を肘の辺りまで双つに裂いた。この辺りで、どうやら人間を解体するのが面白くなってきたらしい。
前腕の二本の骨から肉をこそげ落として、片方を捻って肘から捥ぎ取った。血塗れの骨でこつこつと額を叩かれた。案外に骨とは重いものだ、と叩かれながら思った。
左手も同じ作りなのかしら、と亀姫が尋ね、案の定、確かめてごらんなさい、と長壁姫が唆した。
『おねえさま、にんげんは、しぶといですわ』
心底嫌そうに呟いた亀姫の言葉に、会予廼はふてぶてしい笑いを覚えた。
人間は脆い。しかし、しぶとい。
瞬きの間に千切り殺される程、人間は脆く儚いが、何かを成す為には幾らでもしぶとくなる。命を賭して時間稼ぎをする会予廼の様に。
『さいしょのにんげんは、あっけなかったのに』
しかし、その言葉は、聞きたくなかった。
途絶えそうな会予廼の意識は、そこでまた怒りという炎を燃やした。
最初の人間とは、最上層の様子を見に行った炉玖砥の事だ。
炉玖砥は、殺されてしまったのだ。
会予廼は、自身が羽鉋の為の捨石になる事は容認できても、炉玖砥や部下達が死ぬ事は我慢ならなかった。
(これだけ殺されておいて、今憤るとは、俺も随分と贔屓が過ぎる……)
副官の炉玖砥は、会予廼が特に目を掛けている人材だった。
三十も半ばを過ぎてひょろひょろと細っこいが、腕力に反比例して頭は切れる。予算に絡む諸事には冷徹な計算を見せるくせに、驚くほどよく気が利いた。
小さな頃には大工に憧れていたと言うだけあって、作事や普請といった仕事への興味と憧憬は並々ならぬものがあった。それゆえに、一般的には軽んじられがちな作事・普請への気配りを欠かさず、高い関心に裏打ちされた正確な計算は、親方衆の信頼を勝ち得るに至った。働いたら働いた分だけ報酬が貰える、その当たり前の事が、他所の邦では当たり前ではないと聞く。邦頭やその副官とは、本来なら縁遠き仕事だからだ。
炉玖砥は、どこの作事でどういう工程を組んでいるか、あそこの普請は何日掛かるか、ここの作事に親方と子方がそれぞれ何人いるのか、全てを把握していた。前任者が嫌がった、親方人工と子方人工に分けての報酬計算も、嫌がる素振りなど見せなかった。逆に、請求される報酬から、どこの親方の下にどの程度の子方が何人いて、そろそろ独り立ち出来そうだとか、子方人工でも色を付けてやって良いだとか、実に細かい。またそれが、親方の評価と大きく違わない為に、親方からも子方からも熱烈な信頼を集めている。
惜しむらくは、炉玖砥の関心が作事・普請方面に偏っている事だが、それは会予廼が指導して偏重を直して行けばよい。一つの方面で才を発揮したのだ、他の分野でも同じ事が出来るように、いずれ、なるだろう。
そうすれば、会予廼は羽鉋の邦頭という大役を、安心して炉玖砥に任せる事が出来る。
自身の後継者として、優秀な副官として、会予廼は炉玖砥を可愛がっていた。
作っただけでまだ使っていない、簡略指示の一を、早く使いたかった。
炉玖砥の差配する羽鉋を見たかった。
そういう将来が訪れるものだと思っていた。
その未来を信じていたかった。
炉玖砥は、死んでしまった。
否、炉玖砥だけではない。
兵士は大半が死んだ、生きている者も民の避難に当たっているだろう。ならば来たのは、衛士か。連晴隊が、間に合ったのか。
全体として若い衛士隊だが、班長季錐を筆頭に、腕の立つ者が多い。
彼らならば、あのあやかしたちを、滅してくれるだろうか。
「殺しましょうか」
「そういたしましょう」
仲良さげな後姿から聞こえた声は、聞かなかった事にしておきたかった。
――――――――――――
大塔内に踏み入った奈由羅は、酸鼻を極める基礎層に、ぐっと奥歯を噛み締めた。
血腥いだけでなく、原型も分からぬ程に引き裂かれた腸の中身が異臭を放ち、生命の喪われた身体から漏れ出る熱が生温い。
警護兵だったそれらを直視する事を避け、視線を巡らしたのは階段だ。
「一組孔厨李、基礎層を調べろ。鉤館の奴らが合流したら、こっちに半分送れ。二組と三組は上だ」
了解、と孔厨李が五人を引き連れ、赤黒い基礎層の奥へ向かう。
奈由羅は残り二組十一人の先に立って、二層目への階段を上った。
ぽつり、ぴたり、ねとり、ぬらり、滴り流れる血が、耳障りな音を其処此処で鳴らしている。
「警戒は絶やすな」
自身に言い聞かせる様に、奈由羅は指示を出す。
「油断するなよ、奴らは理に従わん。どこにでも現れる」
あやかしとは、理から外れたものだ。空が上で地が下、壁は通り抜けられず、無いものは有ったりしない。そういう理を無視するのが、あやかしだった。
果たして、奈由羅の言葉の通り、衛士達に掛けられた声は、天井から聞こえた。
「にんげんのくせに、めはしがきく」
ぽたぽたと滴る赤い雨を浴びながら、天井近くに浮かび上がった童女が近付いてくる。
夜気を炙る業炎にも似た嫌悪が、円らな黒瞳にゆらゆらと灯っていた。
「あら、まあ、その通り、人間にしては目端が利く」
続く声音に、奈由羅の後ろに居た衛士達が、それぞれの得物を構えた。
「新しい人、まだ生きている人、ぞろぞろ、ぞろぞろと」
こちらは床を歩いてきた女が、山野を焼く獄炎にも似た厭悪を端麗な顔貌に滲ませて、衛士達を睨む。
ふわふわと床まで下りてきた童女――亀姫が、美しい女――長壁姫に訴えた。
「いやらしい、にんげんども。わたしのしろに、はいりこみましたわ、ぶれいにも、ぶれいにも!」
好き勝手に喋るふたりの姫に、奈由羅が怒声を割り込ませる。
「ここは人の城だ。あやかしの巣じゃねぇ」
その言葉に、亀姫が振り返った。奈由羅を見据えて、きりりと睨む。
「いいえ、いいえ、これはわたしのしろ。わたしがすんでいるから、わたしのしろ。じゃまをするのは、いつもひと。わたしのしろに、かってにはいって、わたしをじゃまものあつかいする」
「人が築いた、人の城だ。貴様らあやかしは、人が築いたものを掠め取る、薄汚いこそ泥なんだよ」
奈由羅もまた、ぎりぎりと双眸に憤りの火焔を燃やして、亀姫を睨む。
喉の奥、胸の深くで、煮え滾る憤怒は今にも弾けんとしている。奈由羅は気炎を吐いた。
「あやかしは、あやかしらしく、薄暗い隅っこに引っ込んでろ」
「あら、あら、いもうとよ。この人間は、ずいぶん傲慢だこと」
長壁姫の冷笑が、亀姫に加勢する。
「ええ、ええ、おねえさま。なんでもかんでもあやかしのせいにして、くらやみさえもこわがるくせに」
和解の道は無い。
互いに嫌悪と憎悪を胸中に抱いたひととあやかしとは、どこまでも平行線を辿るのみ。
奈由羅は掌中に太刀の柄を握り締めた。
ふたりの姫はすうと半身を退いて構えた。
「失せろ、」
「あやかしめ」
「にんげんどもめ」
――――――――――――
晩秋の風に混じっていた悲鳴が、ふと途切れた。
季陸醒は顔を上げ、大塔の方向を振り仰ぐ。
先を駆ける先輩衛士に、それを告げるべきかと逡巡して、しかしそれの示す意味が分からず、沈黙して彼の後を追った。
大手門で左右に別れた季錐班は、五組の内三人と掌卒を隊長の元に置き、五組の残り二人が左右それぞれに伝令として加わっている。
季陸醒が居るのは左に駆けた方、一組と二組の集団だった。殆ど人の手も入っていない悪路を、辺りに気を配りつつ進んでいる。
今日が初陣の季陸醒は、班内の最精鋭である一組に所属している。組を纏める掌卒を初め、季陸醒以外の衛士達も腕利きが揃っている。ひよっこの面倒を見つつ任務を遂行出来るだけの、実績と自信があった。
季陸醒は十五歳、訓練は欠かさなかったが実戦は本当に初めてだ。これが正真正銘の初陣だった。
類例の無い「謎の女」の討伐を予定していたのが、まさか邦を揺るがす大惨事に対処する事になるとは、誰も予想し得なかっただろう。
(……俺に、出来る事なんて有るのか……?)
季陸醒は、胸に蟠る不安を感じた。
訓練は欠かさなかった。稽古では充分な強さを発揮できた。だが、季陸醒はまだ、あやかしを斬った事は無い。
あやかしは、現ならざるものである。ただ斬り掛かったのでは斬れない。
あやかしを斬るには、信念が必要だと教わった。
(揺らがぬ事だと、班長は言った。俺はあやかしを斬れると信じて太刀を振るえば、斬れるものだと)
伝承や御伽噺は、希代の英雄と稀有な武具を語る。しかし、本当に必要なのは「斬る」と信じる事なのだ、と。
幾度もあやかしを斬り倒し討ち滅ぼしてきた季錐は、そう言っていた。季錐だけではない。季陸醒を直接指導した、一組掌卒の砂浪も、同じ事を繰り返していた。
信じる事が強さになる。
十二で見習い入隊してから三年、歯を食い縛って積み重ねてきた訓練は、必ず季陸醒の力になっている。
衛士隊の訓練は、兵士の訓練とは一線を画す厳しさなのだ。それが衛士の衛士たる所以なのだから。
(兵士は人から民を守る。衛士は、全てから民を守る)
兵士は武具を備えれば良い。人が人である以上、人は地を駆けるしかないからだ。
しかして衛士は「邦を翔る」。そこに川が有ろうと崖が有ろうと、或いは森や街が有ろうと、衛士の歩みを妨げる理由にはならない。
民よりも兵士よりも速く駆ける者。民よりも兵士よりも強く在る者。それが衛士だ。
(戦闘は、まだ先輩達には敵わない。だけど、駆ける事になら自信がある)
季陸醒は小柄だ。身の丈は、並みの男より二寸は低い。しかし小さい分だけ、身軽で素早い。速く駆ける事に割く意識を、余人よりも多く別の事に回せる。
それが分かってからは、重点的に眼も鍛えた。
「前方、壕川を視認。水量、並。足場、良好」
目に映った物を声に出す。初陣の新入りは全てが訓練だ。分かり切った事でも、一つ一つ確認する事が訓練になる。
壕川は城の北、戦ヶ原を流れる川である。東から西へ流れて翠湖に注ぐこの川は、堀を持たない翠湖城の、唯一の防備だった。
南の大手門からは、ちょうど城を挟んで反対側に当たる。半周したのだ。
右へ向かった半数も順調に進んでいれば、城の北面で擦れ違う事になる。季陸醒は目を凝らした。
城で変事が有ったとして、壕川は最も有りそうな避難路だ。誰か、或いは何かが居るとして、可能性が高い場所だった。
季陸醒は目を凝らす。そして気付いた。
「班長、水面に赤い色が見えます!」
赤とは何か。それは血であるだろう。
傷付いた誰かが居るのだ。
「分かった。季陸醒と砂浪は先行、他の者は川辺を確認しろ」
季錐の指示を受けて、季陸醒は速度を上げた。木の根を跨ぎ、岩を跳び越し、跳んだ先の枝に捕まって更に跳んで、獣道以下の悪路を翔る。
水面の赤は、誰の血か。
あやかしが血を流すとは、聞いた事が無い。しかし、血を流すのが人間だけとも限らない。
最も良いのは、それが傷付いた獣である事だ。
(だけれど、奈由羅班長は悪い予想をしておけと、言っていた)
最も悪い予想とは何だろうか。
意識の一隅で季陸醒は考える。
最も悪い事態は、何だろうか。
(例えば、罠)
川辺に潜んでいるのはあやかしで、鮮血迸る死体を水に晒して、衛士をおびき寄せている。
季陸醒に考え付くうちで、それが一番悪い想像だ。
ならば、最悪の事態に陥らない為に必要なのは、何だろうか。
(周囲を確認できる安全な場所から、相手が何かを確かめる)
真っ直ぐに駆け寄る事はしない。
もしかしたら一刻を争う重傷者かもしれないが、もしかしたら狡猾なあやかしかもしれない。
では、一刻を争う重傷者であった場合、立ち止まり誰何する為に浪費した時間を補うには、どうしたらよいか。
(叶う限り短時間で、相手が何かを見極める)
川辺に足を踏み入れてから手当てをするまでに十の時間が必要ならば、帳尻が合えば良いのだ。
真っ直ぐ駆け寄る時間を十とするならば、その十の間に誰何と確認を終えて駆け寄れれば良い。
季陸醒が受けた訓練は、その計算を可能としていた。
(だったら、後は!)
あとは、十の時間のうちに、計算しただけの事をしてのければ良い。
恐れず、迷わず、震えずに、やってのければ良い。
だん、と土を蹴り、川縁に降り立つ。
「誰か、そこに居るのか!」
よく通るように、はっきりと声を張り上げた。
川の水音を押し退け、季陸醒の声がわずかに反響する。
言葉の終わりから五つ数えて、季陸醒は傍らの砂浪に振り向く。
「返答無し。探します」
「ああ。援護は任せておけ」
季陸醒の問い掛けに答える声は無かった。
けれど、依然として水面の赤色は消えていない。
(意識を失っているか、或いは……)
透明な流れに混じる赤を辿る。
枯れ色の薄の根元に、赤色の源が有った。
子供だ。
雀の尾の様に、短い括り髪の先が見えた。少年だ。
膝を抱くように縮こまって横向きに倒れ、腰から下はせせらぎに洗われている。川の水は冷たいが、ぴくりとも動かない。
「男児を発見しました。一名です」
「了解」
薄を掻き分け、季陸醒は手を伸ばす。
生きているにしろ、死んでいるにしろ、その藪から引っ張り出さねば始まらない。
まして、生きているのならば、冬も近いこの季節に、身体の半分を水に浸けているのは生命に係わる。
伸ばした指先が、少年の腕を掴んだ。ひやりと冷たい。躊躇せず、そのまま引っ張り出す。
幼い少年の小さな身体は、容易く季陸醒に抱きかかえられた。
その細い首に指先を押し当てる。弱々しいが、脈打っているのが分かった。
「生きています。外傷は見当たりません」
「人間だな?」
「そう見えます」
「よし、班長の所に戻るぞ」
季陸醒は、衛士隊の揃いの羽織を脱いで、少年の冷え切った身体を包んだ。改めて抱え直し、川辺の土手を駆け上がる。
城内の多過ぎる被害に比して、たった一人。
けれど、この一人の生命は救いたい。
自分の手が届く所で、この手で抱えた一人の生命は、きっととても大切なものだ。
そう思いながら、季陸醒は、意識の無い少年をしっかりと抱き締めた。