<4> ふたり姫 中
※少々グロいです。
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翠湖城の大塔に、ふたりぶんの足音が聞こえている。
旅装の女を先導して、禿の童女がくすくすと笑う。
「すてきな城ですね、いもうとよ」
「まあ、うれしいですわ、おねえさま」
「長押は、隠しているのですか?」
「ええ、もくめが、うつくしくないのです」
「あら、あら、そうなのですね、木目は大事な美しさ、時には隠すことも美しい」
「ええ、おねえさま、そうなのです、ときにはなげしがたも、よいそうしょくに、なるのです」
姉姫は、白魚の様な指で、内壁をとろりと撫でる。
「綺麗な漆喰ですね、白い漆喰は美しいものです」
「まあ、そうですわ、しっくいは、しろがさいじょうですわ」
「海鼠壁も、趣向を凝らしているのですね、いもうとよ、腰瓦の端整なこと」
「ええ、おねえさまの、きれいなおしろを、まねているのです」
「あら、嬉しいこと、可愛いいもうとよ」
「おねえさま、らんまも、ごらんになって」
妹姫は、円らな瞳で欄間を見上げる。
「あら、あら、この意匠は」
「ええ、ええ、おわかりになりますか?」
「もちろんですよ、いもうとよ、これは、あなたにぴったりですね」
「かわいらしいかめ、わたしの、おきにいりですわ」
欄間の細工は、山景に鶴と亀をあしらった、精緻な意匠だ。
するりと背伸びをして、妹姫の指先が、木彫りの亀を撫でる。
「亀姫、いもうとよ、この鶴は何ですか?」
「しらつるですわ、おねえさま」
「あら、ますます、あなたにぴったり」
「まえのおしろも、よかったのですけれど、あたらしいおしろに、つるはきませんの」
「鶴は賢い鳥ですからね、いもうとよ、あの城の人間を嫌ったのでしょうね」
拗ねた様に唇を尖らせる妹――亀姫を、姉――鷹葉の長壁姫が、優しく慰める。
「嫌な人間は、追い払ってしまえば良いのですよ。さあさ、あなたの城を、もっとよく見せてくださいな」
ふうわりと笑んだ姉姫に、妹姫も微笑みを浮かべた。
「ええ、おねえさま、もっと、わたしのおしろを、ごらんになって」
「そうですね、ありがとう、いもうとよ」
「だけれど」
「だけれども」
「人が 多すぎる」
「ちょっと、上の様子を見て来ます。鍵をお借りしますね」
「ああ、気を付けろよ、炉玖砥」
邦頭用の文机から、上層に続く階段の鍵を取り出して、会予廼は気遣わしげに天井を見遣る。
足音らしきものは、今は聞こえない。
階段を降りる所までは感じられたが、軋む扉を開く音はしなかった。
そのまま扉の向こうに留まっているのか、或いは――足音など必要なかったのか。
しかし、聞き取れない声の様なものは、とよとよと微かに響いていて、一度それに気付いてしまえば、もはや気付かぬ振りは出来なかった。
「邦頭殿は、念の為に兵の選別を。衛士は……」
「衛士は出払っているが……分かった、十五人程、声を掛けて来よう」
炉玖砥が階段の扉を開ける音を背に、会予廼は大塔を降りて、鉤館の番卒を呼んだ。
今の時間であれば、下段の居に訓練の兵士が集まっているが、そこまで降りるのは手間だった。何より、一兵士にとって邦頭は要らぬ緊張を強いられる相手だ。
それならば、まだ鉤館の番卒の方が、邦頭の相手にも慣れている。
「急ですまぬが、腕の立つ者を十五人ばかり、集めておいてくれるか」
唐突な要請にも、番卒は速やかに了承を伝える。
何の前触れも無い召集だったが、会予廼の表情に穏やかならぬ何かを感じたのか、理由を尋ねられる事は無かった。
会予廼もまた、敢えて疑念を伝えずとも良いと判断した。
彼ら羽鉋の民にとって、翠湖城は政事や商いの中心であるだけでなく、目に見える安心感だからだ。
――そこに、あやかしが入り込んだ、等と、
人々に知らしめる訳には行かなかった。
きい ぃ 、
軋む扉を、ゆっくりと押し開ける。
扉の蝶番と同じく、階段も僅かに軋む。慎重に踏み板を上り、炉玖砥は手燭を掲げた。
猪皮を貼った風除けの合間から、橙の灯明が客間を照らす。
しかし、締め切られている筈の最上層には、予想に反して明かりが有った。
美しい景色を眺め、あるいは自然光を用いて明かりとする為に、翠湖城の窓は大きく作られている。
それが全て開いているのだ。
建物の内の開口部には彫刻欄間が、外壁の窓の上には格子欄間が嵌め込まれている。
油紙を貼った格子欄間は、陽に透けて美しい影の綾を描いていた。
その綾を纏う、ふたりの姫。
「……何者か」
問う炉玖砥に、妹姫と姉姫は美しい微笑を向ける。
「まあ、おねえさま」
「あら、いもうとよ」
「ひとですわ」
「人ですね」
谺する様に、姫と姫が言葉を交わした。
完璧と言うに相応しい程の美貌と、銀鈴を転がすが如き麗声。
禿の童女は、黒々と艶めく前髪の下から、くりくりと円らな眼が姉姫を仰ぐ。
旅装の女は、白々と滑らかな頬を嘲笑の形に歪め、紅色の唇で薄い弧を描く。
綺麗で美しい姉妹に見えた。
とても仲の良い姉妹に見えた。
けれど炉玖砥の背は粟立った。
此処に有る筈の無い姿。誰も立ち入らぬ筈の場所。余りにもそぐわない姉妹。
姉妹は、人間によく似たかたちをしていて、だけれど人間だとは思えなかった。
「……お、お前達は……」
あやかし、なのか?
問う言葉が喉の奥でひり付いて、炉玖砥は己が恐怖している事に気付く。
こめかみから顎へと、いやに粘つく汗が流れていく。
口の中はからからに渇いて、如何なる言葉をも吐き出す事は適わぬだろう。
血の気が引く寒さと、悪熱に浮かされた様に奇妙な眩惑とが、歯の根をかちかちと震わせた。
姿形が美しいからこそ、
「すてきな城なのに、人が多すぎる」
「ええ、おねえさま、ちかごろ、ひとが、おおすぎる」
ふたりの姫の纏う、血腥い黒紅の香りは、おぞましく炉玖砥の鼻腔を侵し、
「邪魔ですね」
「じゃまですわ」
ふたりの姫の紡ぐ、紫黒に滴る言葉の毒は、残酷に炉玖砥の耳を犯した。
「いもうとよ、間引きましょうか」
「ええ、おねえさま、へらしましょうか」
ふたりぶんの瞳がぬるりと動き、どす黒い視線が炉玖砥を絡め取る。
「この城には、たくさんの人が群れているのですか、いもうとよ」
「ええ、たくさん、たくさんいますわ、おねえさま」
「それなら、半分殺して、半分飾れば」
「まあ、なんてすてきなこと」
いつしか、炉玖砥の膝は笑っていた。
手燭が放つ頼りない光が、がくがくと震えている。
「そうしましょうか」
それを翳す炉玖砥の手が震えているのだ。
得体の知れない、おそろしく、おぞましいなにかを前にして、一介の文官である炉玖砥には、ただ竦み震える事しか出来なかった。
「そういたしましょう」
炉玖砥が知ったのは、そこまでだった。
ざく、ざく、 ぐちゃ
烽火が、上がっている。
会予廼は、嫌な予感が既に抑え切れぬ程に膨れ上がっている事を、自覚した。
誰も居ない筈の四層目から聞こえた、足音と話し声。
有事の際にしか上がらぬ筈の烽火。
そして、開いた窓や狭間から、途切れ途切れに聞こえる、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
「武具持ちは俺に続け。残りの者の半数は、城下の町へ行き、速やかに避難する様、指示せよ。もう半数は、鉤館の女子供の避難を指揮せよ」
こみ上げる震えを、固く握った拳に閉じ込めて、会予廼は指示を下す。
誰何役の番卒が、困惑した様子で問い掛けた。
「邦頭様、衛士の方々は……」
「ちょうど出払っているが、遠くに居る訳では無い。足に自信の有る者、五名で南の里への道を辿れ。連晴殿が居る筈だ」
往け、と手を振り、駆け出す兵士を見送る。
最後尾の出立より早く、会予廼と武具持ちの兵士達は、大塔を振り仰ぎ、大手の坂道を登り始めた。
ばたん、とけたたましい音が響き、二層目の窓が勢いよく開く。
内側から窓にぶつかり、それを押し開けたのは、二層目に詰めていた警護の兵の半身だった。
赤黒い血と、千切れた胴から腸を撒き散らしながら、一層目の屋根瓦に落ちて跳ね、大手口の脇の地面にどちゃりと降った。
あぐあぐと呻く声は直に絶えた。
兵士達は戦慄し、僅かながら足が止まる。しかし、邦頭という文官である会予廼が大手口を潜るのを見て、覚悟を決め後に続いた。
「誰か、俺に武具を貸してくれ」
そう言った会予廼の声こそ、刃の様に鋭かった。
「邦頭の城で、斯様な暴虐、許す訳に行かぬ。此処は、羽鉋の要だ」
嫌な予感も、底知れぬ恐怖も、会予廼の憤怒の火焔に燃え尽きた。
今、会予廼を支えているのは怒りだ。
敵わぬかも知れぬ、間に合わぬかも知れぬ、そんな事は二の次だった。
邦頭とは、人々の安穏たる生活を護る要。邦の城とは、邦頭と衛士隊長とで鼎立する、場の要。
要を侵される事は、邦を侵される事と同じだ。
羽鉋の民を侵される事と、同じなのだ。
邦頭たる会予廼は、それを許す事は、絶対に出来なかった。
「何者か知らぬが、斯様な狼藉を犯す者は、この羽鉋の敵である」
太刀持ちの兵士から脇差を借り、抜き身の鋼を手に、会予廼は進む。一層目は基礎層で、二層目への階段の他に、人は詰めていない。
「あら、あら、いもうとよ、白漆喰を汚しては、すてきな城になりませんよ」
「まあ、まあ、おねえさま。そうですわ、そのとおりですわ。しっくいかべが、しみになってしまいますわ」
「壁に飾るのは、およしなさいな」
「ええ、ええ、おねえさま。かべではなくて、てんじょうに。こうしてかざりましょう、はりつけてかざりましょう」
「あら、あら、なんてすてきな城だこと」
「まあ、まあ、なんてうれしいこと」
故に会予廼は先頭を切って階段を目指し、それ故に、真っ先に狼藉者の姿を見る事になった。
「あら、いもうとよ、人が増えましたよ」
旅装の女が、血に塗れた細指で会予廼を示す。
大手口からの光に、ぬらぬらと照る、その緋。
「まあ、おねえさま、ひとが、ふえましたわ」
禿の童女が、血に塗れた太刀を提げて、会予廼を見る。
くりくりとした円らな眼に、どす黒く広がるのは、嫌悪。
「名乗れ、あやかし共」
会予廼は命じた。
そこに立つ女達があやかしであろうと、羽鉋を侵す狼藉者である以上、会予廼の敵だ。
「あら、あら、わたくしたちの名前を、どうしようと言うのです」
「まあ、まあ、おねえさま、わたしはいやですわ、にんげんに、なまえをおしえたくは、ありませんわ」
「ならば名無しで良い。女と娘で、充分に通じる」
怒りつつ、激しつつも、会予廼の冷静な部分は、必死に考えていた。
まずは時間を稼ぐ事だ。
連晴達、衛士を派遣したのは、南の里であやかしが目撃された為。その調査と、遭遇したなら討伐が任務である。
衛士を派遣する立場であるから、邦頭の会予廼も報告は見ている。
『旅装の女が里を抜けた』
それは、つまり目の前の女の事だろう。
であるならば、連晴隊の班長――奈由羅辺りが気付く筈だ。
連晴隊が北を向いていたなら、城から烽火が上がっている事にも気付くだろう。
火急の事態にしか使わない、烽火が。
それを見れば、精強たる衛士達は駆けるだろう。
南の里へは、徒歩にて二刻。衛士や兵士が駆ければ一刻程。
一刻、それだけ稼げれば良い。
文官たる邦頭だとて、鋼を扱えぬ訳では無い。
むしろ、邦頭は武の心得が有るのが望ましい。
有事の際に、己が身を守れぬ様では、民の身など任せられぬからだ。
しかし、あくまで「心得が有る」だけの事、大塔詰めの兵士を惨殺する様なあやかしに、敵う程ではない。
時間稼ぎも難しかろう。
だが、それでも。
「俺は会予廼、羽鉋の邦頭だ。刃金持つ者の礼として、名乗ろう」
刃を以てして不足ならば、言の葉にて。
精強たる衛士達の駆ける時間を得る。
烽火が上がった以上、城にて変事有りとは、既に人々も察しているだろう。事を秘す利は無い。
翠湖城にあやかしが入り込んだ凶事が明らかであるならば、あやかしを討ち取ったと言う吉事で上塗りすれば良い。
その為には、心許ない武術ではなく、言葉で時間を稼ぐ、これこそが会予廼に出来る上策であった。
「いやらしい人間だこと。わたくしたちに礼が無いと、言いたいのかしら」
「おねえさま、わたし、はらがたちますわ」
「わかりますよ、いもうとよ。だけれど、礼を示した者には返礼を」
女は、嘲りの色を浮かべたどす黒い眼で、にたりと笑む。
「わたくしは長壁の姫。こちらは翠湖の亀姫、わたくしのいもうと」
長壁姫は、艶美に一礼した。
「これで良いかしら、人間よ、邦頭よ、要たる一人よ」
そうして、ゆうらりと腕を広げ、
――――――――――――
行く手に、細い煙の筋が立ち昇っている。
季錐は歯噛みした。
あれは烽火だ。
火煙を用いて急を報せる、唯一にして確実なる手段。
「隊長、あの烽火は……」
「悪い方を予想しておけ。あれはあやかしだ、と」
季錐の問いに振り向かず答え、連晴は奈由羅へ目を向ける。
「奈由羅、根拠の有無に関わらず答えろ。翠湖城に居るのは何だ?」
連晴を追う様に駆けつつ、奈由羅は答えた。
「亀姫、かと」
「それは如何なるあやかしか」
「姿は童女、強力にして暴虐、あるいは気儘な性格をしていると思われます」
「南の里を抜けた女はどうか」
「鷹葉は白壁城の大塔に棲む、長壁姫」
「特徴は」
「姿は美女、亀姫に同じく剛力、そして残虐で気紛れ、と」
奈由羅が語る最悪の可能性は、連晴隊の心胆を寒からしめた。
その想像は、紅蓮。
暴虐の童女と残虐の美女が、ふたり共に知られるのは、ふたりの為す事の余りの凄惨さと、気紛れ故の生存者の為。
彼の姫の機嫌を損ねたならば、酸鼻を極める凄絶な死が待つ。しかして、彼の姫に気に入られれば、死のみは免れられる。
白壁城にまつわる伝承のうち、一つ二つはそういった情報を含んでいた。
「皆、一番悪いのを想像しておいたほうがいい。でなけりゃ、いざ最悪の事態が起こってた時に、対処が遅れちまう」
普段は飄々とした、悪戯好きの奈由羅だったが、彼は真顔で悪戯を仕掛ける事は無い。
だからこそ、蒼白に張り詰めたその面差しに、誰もが――季錐もまた――薄ら寒い戦慄を感じ取った。
「連晴隊長、城に着いたらどう動きますか」
季錐は、悪寒を飲み込んで尋ねる。
到着してからの指示では、間に合わないかも知れない。ならば、移動中に大まかにでも指示を受けておきたいと思ったのだ。
「奈由羅班は城内の捜索、及び救助を。季錐班は城周辺の探索を行い、避難者が居れば救助し、あやかしが居たなら消せ」
滔々と、流れる水の様に連晴の指令は澱みない。
が、季錐は疑問を抱き、反問する。
「奈由羅班長は、調査の方が得意では?」
むしろ、あやかしと戦う事になるならば、荒事向きの季錐班が順当と思われた。
「お前の班には季陸醒がいる。初陣で姫は荷が重い」
「それなら、季陸醒を奈由羅班長に預ければ良いのでは? 失礼ですが、俺と奈由羅班長とでは、俺の方が戦向きです」
「いや、おれもそう思うけどな」
気分を害した風も無く、奈由羅が口を挟む。
「もう一つ、奈由羅に任せている調査の一環でもある。知ると知らぬとでは、護れるか護れぬかも違う」
「……ずいぶん、持ち上げてくれますね」
「私は、酔狂でお前に手を掛けている訳では無い。役立って見せろ」
了解、と奈由羅は嘯き、ちょうどその時、視界が開けた。
山道の木立を抜け、城下の主街道に入ったのだ。
城に大して横方向に延びる城下町――翠湖の町では、主街道はさほど長くない。
邦一番の大店が並ぶ主街道を駆け抜ければ、薄い雑木を纏う城の塁壁が現れる。
その、さほど長くない主街道を駆ける間に、連晴隊の面々は、人々を誘導し避難させる兵士を幾人も目にしていた。
「……どうやら、最悪の事態、ですね」
「隊長、さっきの指示通りで?」
連晴は頷いた。
「奈由羅班、城内へ。季錐班、塁壁沿いに行け」
口々に承諾を叫ぶと、奈由羅に従う三十人は城の大手門を潜り、季錐が率いる三十人は十二人ずつ、左右に別れて疾走する。残る四人は、伝令役として、大手門に立つ連晴に随った。
采配は揮われた。
目を細めて睥睨し、思考する連晴は、帥であった。