<4> ふたり姫 上
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五十嶋には五十の邦がある。
波好と大条で一域、海瀬為と荒斗異で一域、他は一邦一域で四十八域五十邦である。
五十邦を束ねるのは、鳥ノ居の中央府に座す守長だ。その下に、一邦から十四邦を束ねる邦長がいて、一邦ごとに邦頭がいる。
政事を統率する守長からすれば、邦を治めるのは邦長であるが、人々にとっては邦頭だ。
隣近所の数件で隣組、纏まった集落は里や村となり、里長あるいは伍長が面倒を見る。その上が邦頭だ。人々にとって邦頭とは、雲の上の邦長や守長と違って、自分たちの身近に居る偉い人である。
農作物の実りが芳しくなければ相談し、豊作ならお裾分けをして、商いで難しい事があれば質問し、繁盛したならお裾分け。里長や伍長で裁けない難事も、邦頭に相談すれば、大抵は片が付く。あるいは大家同士の婚姻には仲人に立ってもらい、長筋に弔事があれば死に水を取ってもらう。
そして、人々の生活を護る衛士を派遣するのも、邦頭の仕事だ。
ひとつの邦に一人の邦頭と一人の衛士隊長。
人々が、普段、邦だと認識しているのは、その範囲である。
邦の要には城がある。
一邦に一城、邦頭と衛士隊長の詰める拠点であり、邦を治めていく上で重要な人々が暮らす官舎でもある。
ここ羽鉋の城は、小高い山の上にある。
より詳しく言うならば、小高い山を抱く様に広がる、透明な湖の畔にある。
湖を眺め渡す城は、いつからか「翠湖城」と呼ばれるようになった。
春には可憐な桜が咲き競い、夏は鮮やかな深緑が陽光に輝き、冬の深雪に凍てた水面は陽にきらめく鏡の様。
今は秋、兎弐治十七年の晩秋だ。
湖を囲む山々は紅蓮に色付き、北西に広がる戦ヶ原は薄が黄金に穂を揺らす。絢爛たる秋の装いである。
深く碧緑に澄んだ湖に対比する、白漆喰の大塔が美しい。
ぜんたい、翠湖城は美麗であった。
――――――――――――
その城に続く、なだらかな坂道を進む人影があった。
一見して、旅装の女である。
つぼ装束に袿をからげ、外側の袿は頭からかづいた、よくある旅路の女である。
しかし、女の姿を誰かが見れば、不思議な事だと思ったやもしれない。
黄の単に萌黄の袿、かづいた方の袿は蘇芳と、いかにも鮮やか、艶やかだった。猩々緋の懸帯が、女の白い肌に照る。その胸元に、守り袋は無かった。
そして、翠湖城を訪った女が居たと、知る者が居たのならば。
尚、不思議に思った事だろう。
誰も、城の大手門に詰める番兵達でさえ、鮮やかな旅装の女を、見た者は居なかった。
――――――――――――
「まあ、よくおいでくださいました、おねえさま」
「久方ぶりですね、いもうとよ」
大塔の、最上層に、軽やかな声が響く。
「いらしてくださって、うれしくおもいますわ」
「いつも、あなたが私を訪ねてくれますものね」
幼げな少女の声は、妹と呼ばれる姫。
優しげな女の声は、姉と呼ばれる旅装の姫。
翠湖城の大塔に、誰も気付かなかった旅装の女が、入り込んでいる。
それは異常な事であった。
大塔というのは、城の中枢なのだ。
城というものは丘に築かれる。平地であれば土を盛り、あるいはこの城のように山を利用して、小高く盛り上がった場所に三層から五層の塔を建てる。これが大塔である。
大塔から一段下がり、中段の内ノ居。周囲をぐるりと三方から覆うように建てられるのが鉤館だ。大塔の大手口から降る坂道は、鉤館の突き当たりに接して折れ、幾度か折り返しながら下段の居に繋がる。
下段は、おおよそ、広場が占めている。兵士や衛士の駐屯場所であり、危急の際の民の避難場所でもある。大手口に続く坂道を境に、大抵は東ノ居、西ノ居と呼ばれている。
下段の居は、大人の男の背丈ほどもある城壁がぐるりを囲み、大手口からの坂道が大手門を潜って、城下の主街道に替わる。
大塔は、最奥なのである。
大手門の番兵も、下段の居に詰める兵士達も、鉤館の突き当たりで来城者を誰何する番卒も、大塔の下層で仕事に励む邦頭でさえ、旅装の女には気付かなかった。
「めずらしいですわ、おねえさまが、ひるひなかから、いらっしゃるなんて」
少女が、こくりと首を傾げる。
漆黒の禿がさらりと揺れる。白い肌に、くりくりとした円い眼が愛らしい。小ぶりな唇は桜桃の如く、ぷっくりと艶めいている。
可愛らしい少女は、旅装の女に問いかける。
「いかがされたのですか? うれしいけれど、ふしぎですわ」
「あら、いもうとよ、たいした事ではないのです」
女はふうわりと微笑んだ。
切れ長の、黒目がちの双眸が、少女を見つめる。緩やかな弧を描く唇は紅く、なめらかな肌は少女より尚白い。
美しい女は、禿の少女に笑いかける。
「あなたの城を、よく見たいのです。月の光の夜ではなくて、明るい昼間に、見たいのです」
「まあ、なんてうれしいこと」
少女は手を叩いて喜んだ。
「さあさ、おねえさま、どうぞ、ようくごらんになって」
はしゃぐ少女は、姉の手を引く。
触れ合った指先から、血腥い黒紅の香りが舞った。
――――――――――――
連晴は衛士である。
羽鉋の邦の衛士を束ねる衛士隊長である。
その時、連晴は、翠湖城から一刻程歩いた辺りの街道を、部下と共に進んでいた。
あやかしを見た、という報せがあったのだ。
城に程近い里を、怪しげな女が通った、という事である。
「隊長、その女は、何故あやかしだと思われたのですか」
連晴に問いかけたのは、少年の様に若い男だ。
連晴隊の班長である季錐だ。若干二十歳ながら、三十人の班を任される逸材である。
「何でもかんでも隊長に尋くなよ、季錐。自分の頭で考えるのも、大事だぜ」
連晴を見上げる季錐に、からかうような言葉をかけたのは奈由羅。
季錐と同じく、三十人の班を抱える連晴隊の班長だ。
若者を揶揄する奈由羅だが、その当人も充分に若い。三十を幾つか過ぎた頃だろう。
「里を女が通った、というだけでは、考え様が無いのでは?」
「空いた部分を補足すりゃいいのさ。例えば、その女は一人だった、とか」
「それは推測であって、確定ではありませんよ」
「うるさいぞ、二人とも。考え事は頭の中でやれ」
じゃれあう季錐と奈由羅に、連晴の制止がかかる。
もっとも、班長二人の掛け合いは、日に何度も繰り返される馴染みのもので、連晴隊の名物でもある。責務に関係ない事柄でもないので、連晴は割合に好きにさせているのだが。
今回の報告は、いささか風向きが違ったようだ。
「どうされたのですか、隊長?」
「奈由羅、考察しろ。……旅装の女、連れの無い一人旅、上等の身形、南から北へ里を抜ける」
「ちょ、いきなり……?」
「問う。彼の女は、あやかしか、否か」
問うた連晴は、部下の答えを待たず結論を出している様子だったが、奈由羅は考えて、答えた。
「九割九分、あやかしでしょう。その女の風体の詳細は、報告にありますか?」
歳若い季錐をからかって、意地の悪い薄笑みを浮かべていた顔には、今は、怜悧な表情が上乗せされている。
大柄な体躯、野趣溢れる顔立ち、それに伝法な口調と、荒事向きに思われがちな奈由羅だが、これで存外、頭が切れる。
「遠目に見た者の言だが、懸帯の結び目の下に袿が見えた、と」
「……つまり、懸守は無かった……断定は避けますが、あやかしですね。狐の類でしょうが……」
はた、と奈由羅が言葉を留める。
「どうしたんですか?」
「……いや、」
不思議がる季錐が振り返る。言葉だけでなく、脚も止めていた奈由羅に気付き、連晴も振り向いた。
「どうした、奈由羅」
「隊長……さっきの報告、里を抜けたのって、南から北ですよね」
「ああ」
「その報告は、南の里から城へ来たんですか?」
「……そうだ」
「戻りましょう。南の里に、あやかしは居ません」
連晴隊は踵を返した。
城から南の里へと向かっていた衛士達は、今度は北の城へと駆け出す。
一刻歩いた疲労は忘れ、悪い予感の駆り立てるまま、疾風の如く。
――――――――――――
ふと物音を感じて、会予廼は顔を上げた。
動作に気付いた副官が、書き物の手を止めて尋ねる。
「どうされました、邦頭殿」
「いや……」
言葉を切って耳を澄ませても、これといって気になる音は無い。
半開きの窓から鳥の声が、風に騒めく梢の葉擦れが、西ノ居で訓練に励む兵士達の声が、ふわり遠くに聞こえるだけだ。
気のせいか、と会予廼は職務に戻る。
羽鉋の邦頭たる会予廼には、日々多くの仕事が舞い込むのだ。ぼんやり出来る時間は、そう多くない。
「何でもない」
「左様ですか。ああ、すみません、こちらの訴状ですが……」
副官も、何事も無く訴状を差し出す。
戦ヶ原東の村から、人夫の工面に関する相談が届けられた案件だった。
夏の終わりの激しい雨に、川が増水して橋が流されてしまった。その修繕を行いたいが、思う様に普請の人夫が集まらない、という内容である。
格別難しい仕事でもなく、辛い仕事でもない。季節は晩秋から冬にかけてであるから、寒さが辛いという問題はあるものの、それはどの仕事でも同じ。報酬もおおよそ相場通りで、伍長が主導である為、むしろ他の普請よりも幾らか高めである。
「この条件で人夫が集まらないとなると、城から一言添えて公事とするのはいかがでしょうか」
「うむ……普請に掛かる人工は、どれくらいになる?」
「延べ三十人工は下らないでしょう。多く見積もって三十八から四十かと」
少し考えて、会予廼は筆を取る。掌ほどの大きさに揃えた紙束に、さらさらと数字を書き付けた。
それを副官に渡す。
「伍長が纏められるうちは、公事にせずとも良いだろう。報酬のうち十一人工分は城から出す。雪が降る前には片付けたい」
「では、その様に返答します。援助する報酬は通常通り米と干物、使途は報酬に限り自由、としますが、よろしいでしょうか」
「それで良い。あとは、お前の名で証状を書いてやれ。普請や作事に関しては、お前の方が受けが良い」
かしこまりました、と頷いて、副官は受け取った紙切れを読む。
城から援助する米と干物の数量と、伍長に伝えるべき注意点、もしも人夫が足りなかった場合に頼れる他の里村の一覧、と少ない文字数で多くの指示が詰められている。
指示の内容を項目に分け、それぞれに数字を振った簡略指示だ。覚えるのは大変だが、覚えてしまえば伝達が早く、重宝する。
末尾に記された「六十、三」に、副官は微かな笑みを浮かべた。
副官――炉玖砥の名の書き換えに、三は炉玖砥に与える権限と行動指針である。
数字は一から五まであり、三は「副官・炉玖砥に差配を任せる。邦頭・会予廼へは報告のみで良い」だった。普請や作事の差配が得意な炉玖砥に、全面的に任せるわけである。
ちなみに、一は「全て炉玖砥が差配し、会予廼へは報告不要。予算の一分までは自由に使って良い」との全権委任で、五は「邦長へ奏上する為、関わるべからず」という、会予廼の差配を意味している。
「普請と作事に関しては、いずれお前に任せても良いな。精進しろよ、炉玖砥」
「はい。ご期待に添える様、努力……」
ふと、炉玖砥の言葉が途切れた。
「どうした?」
「いえ……」
会予廼の問いに、炉玖砥は首を傾げる。
「何か、物音が聞こえた気が致しまして……」
主従の入れ替わった遣り取りが沈黙した時、
と、と、と、
上層から、微かな音が聞こえた。
会予廼の眉間に皺が寄る。
彼らが居るのは、翠湖城の大塔、四層あるうちの三層目だ。四層目の最上層は、普段は使われない客間があるのみ。階段に設けられた扉は閉まり、鍵が掛かっているはずである。
物音は、足音の様に聞こえた。
「……誰か、上に居るのか?」
「いえ、今日は上を使う予定など……」
と、とん、とと、と、
足音が、
『――― 、――――』
聞き取れない声が、
とん、とん、とん、
階段を下りてきた。
誰も居ないはずの四層目から、閉ざされているはずの扉を抜けて、
――――――――――――
城の南にある里を、南から北へ女が通り抜けた。
ならば、女は城のある方へ進んだのだ。
女を追う道筋で届けられた知らせには、謎の女を追い抜いた事は含まれていない。
城から南下した連晴隊も、謎の女とすれ違っていない。
街道には脇道もあるから、忽然と消えた訳では無い。だが、道を逸れたと考えるのは不自然だ。
脇道は狩人や杣が使う、獣道に近いものだ。
旅装の女が選ぶ様な、歩きやすい道ではない。
では、どういう事なのか。
女は消えたのではない。見えないだけで、本当は街道を歩いていたのだろう。
あやかしとは、人ならざるもの、あやしきもの。
確たる姿形を持たず、景色や暗がりに溶け込んで、人の目には見えなくなる。
女の姿のあやかしは、そうして連晴達を遣り過ごしたのだろう。
「奈由羅、何を焦る」
「隊長は、そのあやかしの正体を、何だと思いますか」
「狐の類か、鬼女か」
「おれ、ちょっと気になる話を聞いたんです。眉唾モンだって思ってたんですが」
奈由羅は、駆けながら語る。
「隊長の温情に感謝ですよ。あっちこっちの伝承まで、集めて頂いて」
「どういう話を聞いた?」
「北の、断糸の古城の話です。昔は、羽鉋じゃなくて断糸の城が『翠湖城』だった。湖の畔に建つ、白漆喰の大塔。そこに、童女のあやかしが棲み付いた」
羽鉋の北は二つの邦に接する。北西の素芽鋳と、北東の断糸。
東の海岸を北へと上がれば、そのまま断糸に至る。その更に北は空岳で、五十嶋の北端だ。
断糸の中心辺りに、大きな湖がある。かつて、その湖の北の畔に城があった。今、断糸の中枢である白鶴城は、旧・翠湖城から南西、湖の西の畔にある。
城が移された理由は、はっきりとは伝わっていない。当時の邦頭が素芽鋳の邦頭と親密だったため、素芽鋳に近付けて移築した。古城の北にある山が長雨で崩れて城が呑まれたため、崖崩れの心配の無い西の平地に移築した。等、幾つかの説があるが、共通しているのは「不都合があって移築した」という骨子である。
「でも、それって実は違うらしいんです。断糸の古城は棄却されて、湖の西に『築城』した」
城を築く、と言っても、移築と新築では大きく違う。
通常、城を移すときは「移築」だ。城を解体し、材を運んで、組み上げ直す。大条にあった中央府も、鳥ノ居に移った時は「移築」だった。
だが、断糸の白鶴城は新築だ、と奈由羅は言う。
「移築なら移築って言いますよね。なのに、古城の棄却と新城の築城が語られてる」
「古城を棄てた理由は?」
「あやかしです。大塔に棲み付いたあやかしは、鷹葉の白壁城に姉がいて、手土産に男の首を幾つか持って遊びに行った、と。胴体は大塔の最上層に打ち棄てられて、やがてその骸が動き出し、城主は已む無く城を棄てた」
あやかしとは、おそろしきもの、災い為すもの。
弔われぬまま年月を経た骸は、最もよく知られているあやかしの種だ。
罪も無く首を刈られ、打ち捨てられ、忘れられた骸は、生者に災い為すあやかしと成る。
そういうあやかしを滅するには、炎を以て弔うほかに術は無い。
「旧い翠湖城は焼かれたと言います。それで、古城に湧いたあやかしは消え去った。けれど」
けれど、この伝承の本題は、ここからだ。
「童女のあやかしは、南へと逃れた。そうして、同じ様に湖畔に建つ羽鉋の城に移り棲んだ」
しばし、沈黙が降った。
やがて口を開いたのは季錐だ。
「……奈由羅班長のお話が、この場に合致するのなら……」
「言ってみろ、季錐」
「南の里を抜けた女とは、童女のあやかしの姉、ではないでしょうか」
鷹葉に棲む姉のあやかしが、妹を訪ねてやって来た。
それが人間であれば、姉妹の心温まる愛情と言える。
しかしあやかしであるから、衛士達が感じたのは冷え切った嫌悪と胸焦がす憎悪だった。
あやかしとは、人ならざるもの、災い為すもの、よからぬもの、
そして、人と相容れぬもの。
「あやかしに、人の様な情など有るものか。奴らは、只の化け物だ」