<3> 煙々羅
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ふうわり、 ふわり
ゆうらり 、 ゆらり
灯火は 揺 れて
あの影 も 揺れ
ゆ らゆら
ふわ ふ わ
檻 の 木戸 開け
む かえ に 来るの は
あれ は 、 だ ぁ れ ?
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大条は、この五十嶋の中央だ、と言われる。
幾つもの邦が集まって五十嶋を形作る中で、大条はちょうど真ん中にあるからだ。北は空岳、砂去野から、南は覚洞に萩野目まで、五十嶋の五十の邦の要が大条である。
その位置の故に、古い時代には、五十嶋の中央府が置かれていた事もある。
百余年の昔に、中央府は大条の西南、鳥ノ居へと移されたが、大条の都はそれまでに完成されていた。
中央府が鳥ノ居に移ってからは、旧都としての地位を確立している。
旧き都とは言え、百余の年月を経ても尚、都と言えば大条を指す。島邦である鳥ノ居は政事の中央ではあったが、風流や学問、商いに技術など、生み出し磨ぎ上げるのは大条だった。
五十の邦を担う邦頭、その上役たる邦長も、中央の十三域十四邦では大条に属している。少ない所では邦頭が邦長を兼ねる外川や、二邦で成り立つ北端なども有る中で、十四邦を束ねるというのは、それだけ大条属という事が有力であり、重要である事の証左と言えるだろう。
人が記憶する七百有余年の歴史の中に、大条の占める中央府都としての時代は、大きかった。
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好いた女がいた。
特別に美しい女ではなかったが、悲しげに笑む顔に捕らわれた。
女の痩せた手首が頼りなくて、細い首筋は今にも折れそうで、肉の薄い肩が寒そうで、抱き締めてやりたいと思った。
無礼だとか、はしたないだとか、そういう事は気にならなかった。
ただ、抱き締めてやれば、温かいだろうと思ったのだ。
格別に賢い女でもなかったが、寂しげに囁く唇に囚われた。
潤んだ眼に見詰められたいと思った。
儚げな後姿を見ていたくなくて、別れ際にはいつも、急いで背を向けた。
追い駆けて捕まえてしまえば良い
その思い付きは名案だと思えたが、いざ実行する事は、なかなか出来なかった。
今日こそ、今度こそ、と、いつも思いながら帰る。
己が淋しいと同じ様に、女も寒いのだろう、と判っていた。
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大条は、都である。
旧き都であっても、そこは都だった。
日の出と日の入りを計算し、どの通りにも等しく陽光が注ぐよう巡らされた街路。材と色を統一して得られた外観の調和。
かつての中央府こそ、遷移に伴って移築され失せたが、賑々しい町並みの有り様は往時を髣髴とさせる。
東西を流れる川には幾筋もの橋が渡り、大路に辻に人が行き交う。菜売りと布売りがすれ違い、弓を負った狩人が山鳥を売れば米売りの荷車が通り過ぎて、針子の庵に糸売りが蚕を運ぶ。
商いが盛んであり、行商を含めた商人を相手取る飯屋も繁盛していた。
魚売りに歩かない漁師が持ち込む魚を焼いて、山塩と山椒の風味を加えて売り出す魚飯屋。
狩人が猟の傍ら摘んでくる山菜を、米と醤油と炊いた混ぜ飯屋。
山鳥、雉、鵯、鶉に鴨と、様々な鳥を捌いては焼く鳥飯屋。
昼時ともなれば、雑多な飯屋が軒を連ねる飯屋通りは黒山の人だかりだ。
麦の粉を捏ねた生地に辛味菜を包んで焼いた焼饅頭は、特に人気がある食い物だ。
汁気が無いので持ち運びが容易く、しかし中の辛味菜の水気があるので食べても噎せる事は無い。腹持ちと味が良い上に滋養に富み、値段も手頃とあって、その日の昼時も、焼饅頭を売る店屋の前には行列が出来ていた。
ぴゅう、ぴゅう、と風が吹く。
夏が過ぎてだいぶ経った。秋も直に去ろうとする、肌寒くなってきた季節である。木枯らしには早い、ひやりとした風が大条の飯屋通りを吹き抜けた。店の軒先が風に撫でられ、細く甲高い音を立てる。
焼饅頭は、囲炉裏の灰の中で焼く。辛味菜を包んで寝かせた生地の表面は乾き、灰がこびり付く事は無い。手でぱたぱたと払ってやれば、充分にきれいになる。
「はいよ、お待ちどうさま。焼饅頭、ふたつだね」
「ああ、ありがとう」
「中は熱いから、気を付けてお食べなさいよ」
客の差し出した手拭いに、出来立ての焼饅頭を載せてやると、店屋の親仁は愛想良く笑った。客は返礼代わりに片手を挙げ、熱々の焼饅頭を手拭いで包んで、懐に仕舞う。ふいと冷えるこの季節、焼きたての饅頭は温石代わりに丁度良い。
柳色の筒袖に丁子色の括り袴、灰青の羽織を纏った客は、三十路の男だ。総髪を朱の麻紐で括った洒脱な装いである。
焼饅頭を収めた懐を、羽織の上からぽんぽんと撫でて、じわり広がる温かみに口元をほころばせる。
「冷めぬうちに、届けてやらねばな」
満足気に独りごちる。朱の麻紐の先で、青銅の飾りが揺れた。珠を双つ連ねただけの簡素なものだが、造形よりも色合いが、洒落た男の雰囲気に合っていた。
ぬくぬくと温まる懐が、手足や首元、鼻先の寒さを忘れさせる。
大条の人々は、そうした「季節の風情」を好んでいた。
雪が降れば笹と南天の実で兎を作り、夏の蝉時雨には風鈴を鳴らす。
晴れた日には木漏れ日の綾を愛で、雨の日には竹傘を差して雨音を楽しむ。
風情を好み、趣を凝らす。
長い争いの続く世上、そうした些細な楽しみを縒り合わせて、日々を生きる明かりとしている。
逞しさと図太さこそが、今の世を生き抜く術であると、人々は知っているのだ。
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大条は、都である。
大条は、旧き都である。
大条には、都の闇がある。
そこには、古い旧い暗闇がある。
幾年、幾年と育まれた、澱んだ暗黒が在る。
しあわせか、と問う。
しあわせです、と答える。
ほんとうか、と問う。
いいえ、ほんとうです、と答える。
うそをつくな、と詰る。
はい、ほんとうです、うそなのです、と答える。
本当に、嘘ではないのです。
うそをつくな、と詰る。
うそです、ほんとうです、ほんとうの、うそなのです、
あなたが だいじ
灯火の揺らめく明かりに影が揺れる。
障子紙を透かして浮かび上がるのは、立ち上がった男の影。髪の解れた女の影。
男の影に、縋り付く女の影。
男の影は女の影を振り払う。
女の影は倒れ込む、しどけなく、しずけき影の女は影の男に縋り付き、裾を引く。
影の男は影の女を打擲する。
一度、
二度、三度と、
影の女は蹲り、起き上がり、細い頤が、乱れ髪の絡む首筋が、滑らかな肩の線が、障子紙に浮かぶ。
影の男を見上げ、何事か囁くと、影の男は影の女を蹴り倒した。
足蹴にされた女の影が倒れ込む。
ゆらゆら揺れる灯台の火と共に、影の女は倒れ込む。
油皿から零れた灯油が障子紙を濡らし、撥ね飛んだ灯芯から小さな火がちろちろと燃え移る。
男の影は躍るように歪み揺らめき、伏し蠢く影の女の喉首を掴む。
憎い、にくい、ああ、憎い、憎たらしい、嗚呼!
障子を舐める炎に、影の男と影の女が照らされる。
ぴゅう、ぴゅう、と吹く風が炎を煽る。
燃え上がった障子は桟を焼き、壁を焼き、柱を焼く。
明々と浮かび上がった男の影は、女の影の喉首を掴んで締め上げている。
垂木が、軒が、杉皮葺きの屋根が、紅緋の火炎を纏っている。
朱の麻紐が解けて落ちた。青銅の珠は、一つが毟り取られて、影の女の掌中に有った。
炎の侵蝕が虹梁をもぎ取る。火の粉を散らして床を貫いた虹梁は、畳表の藺草を捲り、床下までも紅蓮に照らし出す。白鼠色の髑髏が庭を見ていた。
憎い、憎い、憎い、嗚呼、ああ、嗚呼、嗚呼!!
真朱に染まる軒から軒へ、家から家へ、
憎い、何故だ、どうして、嗚呼、憎い、
炎が広がっていく。
火焔が群がっていく。
火災は留まらない。
藍色の夜に咲く篝火のように。
大条の町に炎が広がる。火焔が群がる。紫黒の夜空に煙が棚引く。風が吹く。ひゅう、ひゅう、と風が吹く。
焔に呼ばれた風が吹く。
棚引く煙は風に揺れて、ゆらゆら、ぬらぬら、揺れている。
紅蓮に灼かれた紫黒の夜空に、煙々羅が揺れている。
煙羅煙羅が揺らめいている。
煙羅は風に吹かれて、眺めている。
「燃えている。燃えている。燃えている」
煙羅は見ている。漂って見ている。ふわふわ、ざわざわと揺れている。
火事の巷で、人々は燃える家から転び出て、家族や家財を抱えて逃げ惑う。
幼子を、少年少女を、老人を、女を、男たちは火の手の及ばぬ遠くへと逃がす。駆けて駈けて逃げよと送り出す。川へ、池へ、水路へと人々は逃げ惑い群がる。
「燃えている。燃えている。燃えている」
荒々しい風体の男たちが、燃え盛る家々の隙間から入り込んでは、未だ炎に喰われていないものを浚って行く。
金品を、家財を、幼い子供を、火事場泥棒が攫って行く。
奪われまいと抗う人々を、火事場泥棒は振り払う。殴り飛ばし、蹴り倒し、斬り伏せていく。渦巻く炎に呑まれて人が焼ける。
殴られ、蹴られ、斬られた人間が焼けていく。
屈強な男の集団が現れた。棍棒や刀槍を振り翳して、火事場泥棒を殴り、蹴り、斬る。囂々と猛る焔に呑まれて人が燒ける。
「燃えている。燃えていく。燃えて逝く」
人が死ぬ。
人が死ぬ。
焼けて斬られて殴られ転げて死んでいく。
屈強な衛士は、人々を護る為に、火事場泥棒を殺して往く。
人が死ぬ。
業炎に喰われて死んで逝く。
黒紅の空に漂って、煙羅はただ、見ている。
「煙羅は、よく、わからぬ」
ふわふわと、煙羅は呟いた。
「わからぬ、わからぬ。どうして、人間は、人間を、殺すのだ?」
ゆらゆらと、煙羅は囁いた。
「どうして、人間は、人間を、守ったり、殺したり、するのだ?」
ざわざわと、煙羅は揺らめいて、累々と連なる炎と煙の地上を見ている。
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好いた女がいたのだ。
女は遊女だった。
特別に美しくも、格別に賢くもなく、痩せぎすの女は安い遊女だった。
それでも、己にとっては良い女だった。
悲しげに笑む顔が、寂しげに囁く唇が、儚げに揺れる指先が、細い頤が、折れそうな首筋が、なめらかに薄い肩が、病む程に白い膚が、肋の浮く様な躯が、抱き締める度に震える爪先が、反り返る咽喉が、
あなた が だいじ
掠れた声で嘯く言葉が、
あたしと いきて
己を絡め捕り心を掠め獲ったのだろう、と。
くらくらする程に愛おしかった。
熱に浮かされた様な、胡乱な頭で思い出す。
朦朧と、茫洋と、虚ろに思い返す。
そうやって好いた女は、何人目だっただろうか。
――――――――――――
「わからぬ、わからぬ、煙羅には、よく、わからぬ」
煙々羅は飛び去った。
わからぬ、わからぬ、と呟きながら、風に吹かれて去って行く。
煙棚引く方へ、炎立つ西の方へ。
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誰も知らない事がある。
洒落者の男の家には骸が在る。
偏執的な恋慕が遊女を捕らえて殺してしまうのだ、と、知る者は幾人居ただろうか。
決まって安い遊女が居なくなった。
安い女ならば事が荒立たぬ、という理由ではなく、ただ男が好いたのが痩せぎすの女だっただけだ。
痩せぎすの遊女は安い。
女の肌に埋もれたい男が遊女を買うからだ。
好いた遊女を殺して終うのは、男の恋慕に女が答えなかったからだ。
男にとっては好いた女、しかし遊女にとっては只の客。
つれなくされて男は怒り、哀しみ、嘆き、憎しみの余りに遊女を殺した。
そうして床下に棲む女の骸は五つ、六つ。
虚ろな眼窩で暗い庭を眺めて暮らして居た。
しかし、七人目の遊女は、少し違っていた。
偏執的な恋慕に、応えて仕舞った。答えて終ったのだ。
生来の顔付きが物憂げで、陰気な女と嫌われて、苦界に沈むも矢張り陰気と疎まれた。
金が無く欲に喘ぐ男しか、彼女を買わなかった。
けれど、彼女を求める男が現れた、現れて終った。
女は男を求めた。男が女を求める様に、女も男を求めて終った。
それでも男が女を殺して終ったのは、女の胸中に在ったのが恋慕ではなく、渇望だったからだ。
偏執的な恋慕でも、歪んだ欲でも、彼女は求めて欲しかった。求められる事を望んで、焦がれて、欲して、捕らえて、囚われて。
彼女は男が好きだった。
男は彼女が好きだった。
恋うて恋われて焦がれて乞うて壊れて請われて毀れて終った。
女は囁く。「あなたがだいじ」
男は嘯く。「おまえがだいじ」
交わらなかった恋慕と渇望は火焔に沈んだ。
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大条の火事は鎮まった。
燻る炭火に細い煙。
焼け焦げた骸は、女も男も分け隔てなく弔われる。
庭を眺めて暮らしていた髑髏も、髑髏も、髑髏も、髑髏と髑髏と髑髏も、弔われた。
あとには人が残るだけだった。