<2> 木霊
※少々グロいです。
5/20 ルビ修正
そこは緑溢れる場所だった。
連なる山々は木々に覆われ、木々は緑の葉に覆われて、そこは緑の只中であった。
透明な空気、ひやりと澄んだ風、さわさわと流れる水は青く深い。覗き込めば底の石まで見えるだろう。青く碧い水の深みは、見えざる緩やかな流れを懐に抱いて、小石を魚を囲っている。
蒼の深水のすぐ上に、木々の緑を縫うように、細い山道が走っていた。幾年、幾年と道を歩むものたちによって、その細い山道は途切れることなく繋がっている。踏みしめられ、固められた土から石は除けられ、大木の太い根をぐるりと避けて、山肌から突き出た大岩の庇を潜る。降り積もる落葉は細かく砕けて、あるいは道の脇へと押し退けられ、豊かな下生えの草も道には茂らない。
それは細く細く繋がる、人々の生計の路だった。ここ実理に住む人々は、点々と散在する山里に暮らしている。里と里とを結ぶのが、細く細く踏み固められた山道だった。
菜の採れる里からは菜を運び、米の取れる里からは米を運び、幾つもの里を結んで、肉を、魚を、布を、鉄を、あらゆるものを廻らせる。
細い道は山を巡り、木々の合間を縫い、峠を尾根を跨いで延びる。崖の上、谷の縁、山肌の高い場所では、音が幾重にも響いて谺する。鳥の声が、転げる岩音が、狼の遠吠えが、折れ倒れる大木の軋みが、幾重にも幾重にも響く。音に満ちた静かな山間に似つかわしくない、荒々しい怒鳴り声もまた、殷々と谺する。
山道の峠の天辺に、二人の人間が怒鳴り合っていた。
「邪魔をするんじゃねェよ」
「看過する事は出来ん」
「何の所縁で、お前は俺の邪魔をするんだい」
「貴様が山里の人々をおびやかすからだ」
伝法な口調で谺を響かせるのは、弊衣蓬髪の、見るも明らかなならず者。
対して、相手の罪を問う冷たい谺は、総髪を組紐で括った帯刀の若者。臙脂の素襖が木々の緑に冴えて赤い。
「近隣の里では、貴様の噂を幾つも聞く。夏の炎天にも冬の雪にも、春も秋も時を問わず、行商の歩みを襲う者。刀槍を持たず、しかして辺りの木々を手折り、棍棒として襲う者」
若者の声は冷ややかに、ならず者の男を詰っていく。淡々と、湧き水の流れが沢になるように、その流れが川になり外海へ注ぐように、里を巡って得た証拠を論う。
対して、男の余裕は未だ崩れず。にやり、黄ばんだ歯を晒して笑うと、総髪の若者に向けて問う。
「それで、里の奴らが衛士を呼んだ、ってわけかい。一人で来るとは、随分な度胸だなァ」
「相手が無法者の一人二人ならば、俺一人で充分だ。捕らえるのは不得手なのだがな」
ちりっ、と男の歯が鳴った。鋭く噛み締められた歯の擦れる音だ。不快に、憎々しげに、男は顔を歪める。侮られている、蔑まれている、と感じる事は、男にとって屈辱であり、嫌悪と憤怒を呼び起こした。
「でっけェ口叩きやがる。そこまで言うンなら、やってみろ!」
男の声は、怒鳴り声と言うよりは咆哮に近かった。怒りという混じりけのない感情が、男の声を響かせる。殷々と、蓬髪の男の咆哮は、山間のあちこちに谺した。
「ならば貴様に問う。衛士の渡帷から生き残れるか、問う」
若者――渡帷は、腰に帯びた太刀に手を添えた。手近な木の枝を圧し折り、棍棒とした男へ向けて、鋼の色が鞘走る。一閃、即席の棍棒は二分され、太刀の切っ先が男の胸を裂く。
男は再び吼えた。
「衛士のくせに、人間を殺そうってのかよ!」
それは無法者の理不尽な怒りだったが、渡帷の冷たい声は乱れない。
「貴様は、里の人々を傷付けすぎた。貴様が何と呼ばれているか、もう想像は出来るだろう」
一閃、鋼色の弧は蓬髪をばっさりと薙いだ。男は屈み、飛び退って太刀から逃げようとするが、追う渡帷の方が速い。
「あやかし憑き」
二つに分かれた棍棒の一方を渡帷に投げつけ、男は路傍の茂みに転げ込む。もはや苦し紛れの時間稼ぎであることは明白だった。臙脂の素襖が翻る度に、言葉と刃が男を苛む。
「貴様は、もう人間に混じる事は叶わん」
殷々と響く谺の中に、しゃりんと硬質な刃の音が溶ける。
一閃、稲光にも似た抜き打ちの通った後には、胴を半ばまで断ち割られた無法者が残った。肩から腹へ、ばくりと裂き開かれた傷口は、どうどうと血の滝を落とす。赤い血溜りにぼちゃぼちゃと腸が降る。鈍い音を立てて男は倒れた。驚愕に見開いた目は丸く、円く、ぬろぬろと動いて渡帷を見上げた。
渡帷は男を見下ろした。僅かな息はあるものの、十を数える前に事切れるだろう。渡帷はそれを確かめねばならない。人々の守護者たる衛士は、人々を脅かす危険が確実に去った事を、人々に示さねばならない。
今回であれば、この無法者の首級を持ち帰ることだ。残酷ではあるが、腕や脚では足りぬのだ。この男は、山里の人々から首級を望まれる程の蛮行を繰り返していた。山賊だったのだ。辛うじて死者は出なかったが、奪われた者、傷付けられた者は百を数えた。
最初の被害に遭った娘は、菜を運ぶ行商の道中で拐かされて、十日の間玩ばれた。犯され嬲られ、心が壊れて、男と名のつく者は父や兄弟、夫にも近寄れなくなった。
最も多いのは食べ物を奪われる事だった。菜や豆や米、肉に魚、塩や味噌など、およそ食える物は殆ど狙われた。荷を奪われまいと抵抗すると、手近な木の枝を圧し折って、それで撲られ蹴られて痛めつけられた。
被害が十五を数えた辺りから、女は行商に出なくなった。男も老人と少年は里に籠った。畢竟、行商の歩みは壮健な男たちが担う事になった。しかしそれでは、里の生活がままならない。木を伐り薪を作るのも、土を耕し畠を作るのも、壮健な男たちがいなければ、遅々として捗らなかった。
困窮した里の長たちが、それぞれ衛士に助けを求めた。衛士は窮状を訴える里の位置から、原因たる山賊の塒を燻り出した。
そうして、渡帷がやって来た。
捕らえるのも調べるのも助けるのも不得手だが、事、相手を制圧する技能は抜きん出ている。渡帷の出陣は、すなわち無法者の死である。
血溜りの中に沈んだ山賊は、ごぼごぼと喉奥の血に溺れて、息絶えた。渡帷は首級を刈るべく、ざんばらの蓬髪に手を伸ばす。
「死を以て詫びろ」
ぽつりと零れた呟きは、幾多の罪を犯した男にも、それでも詫びを許す寛容だったのか。百を数える人々が傷付けられた事への憤りだったのか。
鋼色の刃が山賊の首を断ち切った時、さわさわと木の葉が揺れて谺が返った。
死を以て詫びろ
渡帷は顔を上げる。
わずかな間を置いて繰り返された己の言葉に、不審を抱いたのだ。否、それは既に、不審ではなく警戒に変わっている。
怒鳴り声が、咆哮が、谺するのは理解に易い。が、呟きが谺するとは、いかなる事か。答えは簡単である。
「あやかし……木霊か」
渡帷は顔を廻らせる。どことも知れぬ声の出所を探ったが、木霊の声はそもそも出所が無い。山肌に響く谺が木霊の声だからだ。
渡帷は顔を廻らせる。己の周囲の木々が、風も無いのに揺れている事に気付いた。木霊とは姿無き声、徘徊する古木。すなわち、渡帷の周囲の木々は全てが木霊だ。
「正体を現さねば、斬られずに済むものを」
山賊の首級を放り出し、渡帷は腰の太刀に手を添える。山賊を斬り伏せた抜き打ちの構えだ。
渡帷と山賊との一部始終を見ていた木霊たちは、それが渡帷の攻撃であると理解していた。ざあざあと騒めいて、
死を以て詫びろ
渡帷の言葉を、誰とも知れぬ声で繰り返す。
人間を殺す人間、あやかしに非ざるものをあやかしと呼ぶ人間、
木霊たちがわなないた。
あやかしを辱す人間は、死を以て詫びろ
渡帷は、すうと息を留めて、鋼を薙いだ。
一閃、鞘走った刃は渡帷の周囲の木霊に傷を刻む。はつりと太刀を納めて、渡帷は道に転がっていた山賊の首級を拾い上げる。
そして駆け出した。古木生い茂る木霊の群れへ。
――――――――――――
山間に、炎の爆ぜる音が谺していた。
明々と燃え盛る炎を前に、渡帷は薄紙を取り出して、細い炭の欠片で文字を書き付けていく。
『われ渡帷、実理の山中に於いて木霊を焼く。火の始末故に、到着の期日を守る事能わず』
指笛を吹くと、よく躾けられた伝令鳥が舞い降りる。渡帷の肩に止まると、焦げ茶の円い眸で主の顔を仰ぐ。伝令鳥の喉を指先で撫でて、渡帷は先の薄紙を細く丸めると、伝令鳥の脚の筒に差し込んだ。獣皮の栓を詰め、もう一度、忠実な伝令鳥の喉を撫でて、空へ放つ。ピィ、と一声鳴いた伝令鳥が飛び去ったのは、渡帷の上役が居る荒斗異の方角だ。傾きかけた陽光を背に浴びる。
実理での役目は、山賊の首級を里に届ければ終わりだ。しかし、遭遇した木霊を焼いた為に、足止めを余儀なくされた。この火を放置すれば、山々が際限なく焼けてしまう。
「……さっさと届けてしまいたいんだがな」
渡帷の居る場所は、山賊を斬った峠から四半刻ほど歩いた沢辺である。
寒い季節ではない。ゆえに、首級を早く届けねば、腐乱してしまうだろう。もとより面相が重要なのではないが、腐った首級はおぞましいだけだ。届けられたとしても、一瞬の安堵の後には嫌悪しか残るまい。
悪人、罪人といえど、弔いは必要だ。慈悲ではなく、自衛である。弔われないまま放置された骸は、あやかしとなって報いに来る。斬った渡帷の弔いでは足りぬだろう。どこの里でもいいが、ほんのわずかずつでも骸を憐れまねばならない。
生来の悪人ではなく、生粋の罪人でもない。山賊に身を窶す前には、この男にも名が有った。小さな行き違いの繰り返しの末に、山里を追い出されて森に彷徨った男の名を、滝会と言う。里を出る時に、里の長が付けた名を捨てて、ただの山賊になった。
乱暴だったのだ、粗暴だったのだ、だけれど山里の男の誰よりも力が強く、能有る杣人だった。だけれど粗野で、破天荒で、若い女が殊更好きだった。
滝会は、哀れな男だった。
誰か一人でも、それを思い出して憐れんでやらねばならない。
男は、死を以て詫びた。里の人々は、憐憫を以て詫びるのだ。共に生きられなかった事を、受け入れてやれなかった事を、追い詰めてしまった事を。
(人の世は、そうして巡る。あやかしの入り込む隙間は無い)
渡帷の頬を、赤々と炎が照らしていた。
やがて、風が止んだ。炎は消えた。燻る音も絶えて、後には静かな音。絶えた音。音のない場所。
山は森は音を吸い込む。立ち昇る煙の残滓、火炎の傷痕、殷々と響いていた谺も、山に森に吸い込まれる。
音は絶えた。人は去った。騒めき蠢く生命は燃えた。
そこには灰が残るだけだった。