<1> 狐火
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あれは煉獄、骸の地獄 からころ乾いた風が吹く
人とあやかし、あやかしと人 不和にして対、後ろの表
巡る争い、士と死は廻る 争いは廻り、巡りて已まず
一年、数えて 骸を焼いて 一年、数えに 戦さは已まず
焼いて灼かれて、燒かれて焼いて 人とあやかし、皆々骸
あれは煉獄、炎の巷 紅蓮に渦巻き降り積む地獄
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いま、何刻だろう……
男はちらりと疑問を抱いた。
刻限が分からない。
外の様子が見えないからだ。ここは暗い。洞穴と言ってもいいほどの、ここは谷間の木々の下だ。
男は、手にした太刀を握り締める。
じとりと湿った感触は、掌に滲む汗だろうか。返り血ではない。まだ斬っていない。
(ならば、汗だろう。具足の中が、いやに蒸れる)
鉢金の下の額、帷子が覆う脇、糧食を負った背中、それに顎から首へと汗が浮いている。
脂汗だろうか。否、ただ暑いだけだ。谷底の茂みには風が無い。
季節は夏に差しかかり、風の無い日はどんよりと暑い。まさしく今日のように。そんな季節に具足を纏い、風絶える谷底で、男は抜き身の太刀を携えている。
気がふれたのではない。常時であれば、男も夏に重たい具足など着たくはない。が、わけがあるのだ。
(ここに狐の巣がある、とは、確かなことだ)
男は狐を探していた。
否、正しく言うなれば、狐火を探している。
あやしい狐が、この谷底に出入りしている、と聞いて、暑い最中に具足を着込んでやって来た。
「……忌まわしい妖怪め、この俺が退治してくれる」
男は、あやかし退治にやって来たのだ。
あやかし、とは。
人ならざるもの、あやしきもの、の事である。
火の気も無いのに煙が立ち、灯火が揺らめき、時には火事を引き起こす。
人気も無いのに声が聞こえ、音が聞こえ、物が動いて消えたり隠れたり。有る筈のものが無く、無い筈のものが有る。
おそろしきもの、災い為すもの、それがあやかしだ。
男が探している狐火も、あやかしの類である。
火の気の無い所に浮かぶ灯火。時にそれは列をなし、時にそれは人を惑わす。夜道の歩みを惑わされた、と男は聞いていた。
あやかしは、よからぬものである。
人を惑わすものは、よからぬものなのだ。
よからぬものは滅するべし。
ここは人の世、天と地の間には、人の世があるのだ。
男は怒りを抱いていた。
胸中の怒りは静かで、密やかだったが、腹の底を炙るように、苛立ちと不快とを呼び起こす。
ここは人の世だ。人の世なのだ。
あやかしなどに惑わされるべき世ではない。
人の住まう世を侵された怒りは、男の中に、激情ではなく嫌悪と憎悪の名を以て燻っている。
「どこだ、ばけものめ。この俺が退治てくれよう!」
男は声を張り上げた。
ここは暗い。洞穴と言ってもいいほどの谷底だ。
外の様子は見えず、空も見えない。いまが何刻であるか分からないほど、ここは暗い。先の見通せぬ暗がりで、あてもなく探す労苦がわずらわしい。
あやかしを呼ばう男の声は、鬱蒼と覆いかぶさる木々に吸われて、谷の中へは響かない。
ごそり、
と、何かが身じろぐ音が聞こえた。
頭上の木々の欠片だろうか、足元には枯葉と枯枝が積もっている。男の向く先、右の辺りで、何かが枯葉を踏んだのだろう。
男は太刀を構えた。抜き打ちの技は使わない。木々に遮られて抜けなくなる前に、と、茂みの手前で抜刀していた。
右手で握る柄に左手を添える。
ここは狭い。洞穴と言ってもいいほどの茂みだ。太刀を大きく振る事は適わぬだろう。ゆえに、男は太刀を引きつける。振る事が適わずとも、突けばよいのだ。
「姿を現せ、忌々しいあやかしめ。こそこそ隠れるしか能が無いのか!」
男は声を張り上げる。
敵の姿は見えない。我から切り込んで行くのは無謀だ。挑発し、唆して、飛び出させるのだ。
しかし、男の声に応えたのは、あやかしの姿ではなかった。
ごそり、
ごそ、ごそ、
ごそり、
ぱち、ぱち、
男の耳に、鼻腔に、危険が囁く。
火だ。
男の向く先、枯葉を踏む何かは、火を点けたのだ。
足元の枯葉、枯枝は、幾日幾月そうしてそこに在っただろうか。どんよりと暑い夏の日にも、それらはからころと乾いている。よく燃えることだろう。いままさに、男の足元を舐める様に、青白い火が這い寄って来る。
男は、にじり寄る火を踏みつけた。水を掛けずとも、踏みつければ火は消える。青白い狐火とても同じことだ。相手が狐火と、草鞋ではなく革沓を履いて来た。それに、枯葉と枯枝はよく燃えるが、周囲は青々と茂る生木なのだ。生木は容易には燃えない。
「ばかめ、この俺が小火に怖気付くとでも思ったか!」
男は嘲り、地を這う狐火を突いた。真っ当な炎と違い、あやかしの火は刀槍を以て斬ることが出来る。狐火は鋼色の太刀を恐れたか、ぱっと散って男から離れる。近付くのを躊躇う様に、輪の如く距離を置いてちろちろと揺れている。隙と見て男が踏み込む。切っ先は枯葉と枯枝と狐火の一部を裂いて、裂かれた青い火は軋むように呻いた。傷付いた狐の鳴き声にも似ている。さても狐火とはこれが由縁か、と男は思う。
二度、三度と鋼が走った。
二度、三度と狐火が散る。軋む呻きも絶え間ない。きいきいげえげえと、輪の如く男を囲む狐火は鳴いている。
きいきい、
ぎいぎい、
ぐげげ、げげ、
けけけけっ!
不意に、男の周囲に火柱が立った。
前後、左右、四方、八方、竹林よりも隙間なく火柱が林立する。
「な、なんだっ!」
火柱は青い。青白い、あやかしの火だ。燃えない筈の生木が、ごうごうと燃えている。瞬きをするより早く、木々は炎上している。熱を持たないまやかしの狐火と違い、木々の纏う炎は赤く熱い。
――――熱いのだ。
まやかしでも幻でもない真っ当な炎が、男を取り囲んでいる。
これは刃金では斬れない。革沓で踏んでも、背負った水筒の水を掛けても、まだ足りない。この炎を消すには、洪水か豪雨が必要だ。
男は逃げ場を失った。
その日、風の無い谷間の鬱蒼とした茂みが一つ、山火事によって焼失した。
――――――――――――
狐火は思う。
あのにんげんは、ばかだったなあ。
狐火は、夜道を照らしながら、思う。
おいらは、いたずらなんか、していないってのに。
夜道の歩みを惑わしたのは、結果だ。
その日、二股に分かれた道の、片方はひどいぬかるみで、もう片方は乾いていた。そのとき夜道を歩いていたのは、頭の毛の白い人間で、よくこの道を通っていた。近くの林が住処である狐火は、頭の毛の白い人間を覚えていた。
人間は、いつも通る道を選ぼうとした。だけれどそちらは、ひどいぬかるみだったのだ。頭の毛の白い人間は、二本の足のほかに、木の棒をついて歩いていた。もたもたのろのろした歩き方で、きっと脚が弱いんだろう、と狐火は思っていた。
だから、いつも通るぬかるんだ道を暗くして、乾いた道を照らしたのだ。どろどろのぬかるみを歩くのは、大変だろうから。
それなのに、おいらの火をみて、おこりだすんだもの。
頭の毛の白い人間は、狐火の青白い灯火を見て、それがあやかしだと気付いたのだ。
おのれ、あやかしめ、その手には乗らんぞ。
そんな事を言って、もたもたのろのろと、いつもの道を通った。そうしてぬかるみに嵌まって、わしを化かしたな、と怒鳴った。
狐火は、気まぐれの親切を台無しにされて、ちょっぴり頭にきた。
頭の毛の白い人間が、長い刀を持った人間を呼んだから、谷底に誘い出して焼いてやった。
かたなのにんげんも、ばかだなあ。ぐそくとかいう、おもたいのなんか、きこんできてさ。
おいらの火は、ぐそくなんて、すっかり焼いちまうってのに。
あーあ、にんげんなんて、しんせつにするもんじゃないなあ。
狐火は知らない。
ぬかるみに嵌まった老人の事も、太刀を携えた男の事も。
乾いた道の先に住むのが、老人の村から追い出された厄介者だという事も。
そして、厄介者を追い出したのが老人である事も。
老人は、乾いた道を選べなかった。いかに歩きやすくても、道の先の先に帰る村があっても、道端に住む厄介者に近付けなかった。どれほどの悪路でも、犬猿の仲である厄介者のいない道を選ぶしかなかった。
厄介者はまだ若く、腕っ節が強くて、めっぽう喧嘩っ早い。村で何度も揉め事を起こして、幾人も怪我をする者が出て、ついに村八分となった。主導したのは、当時の伍長である老人だった。
老人は足腰が弱り、杖がなければ歩けない。杖があっても、その歩みは遅々として、気を付けなければ小石を踏んでも転んでしまう。そんな状態の老人は、彼に恨みを抱く厄介者の近くは通れなかった。
狐火は知らない。頭の毛の白い人間が、乾いた道を選べない理由を。
老人は知らない。狐火が夜道を照らしたのは、気まぐれだけれど本当の親切だったことを。
谷底で焼け落ちた男は、何も知らない。
そこには炭が残るだけだった。
 




