ここで
目が覚めて、 まだ生きていた。
側には魔桃の生る木。
どうやら、 舌の先に一瞬だけの果汁では死ぬには足りなかったようだ。
体中が軋み、 頭が割れるように痛い。
自分が何処の誰か咄嗟に思い出せないくらいに痛かった。
相変わらずの甘い香り。 どれほどここに倒れていたのか。
周りには相変わらず生き物の気配はなく、 誰も居ない。
果汁を舌に触れさせただけでは飢えが満たされるわけがなく、 かと言ってあの街に行っても残飯を見つける前に捕食されるのがおちだ。
だから、 実をもいで舐めては意識を失い、 また目覚めれば同じことを繰り返し。 一体どれだけ同じことを繰り返したかわからない。
気付けば、 表皮を舐めるだけだったものが果肉を一欠けら齧り、 吐き出していたそれをいつの間にか飲み込めるようになっていて。
甘い甘美と、 身を裂かれるような激痛を繰り返し、 やがてその実を一つ食べきれるようになった。
ふと顔を上げれば、 いつもより全てがよく見えた。
星も、 何もかも。 見えなかったものも、 見えるように。
魔桃を一つ食べ終えて、 立ち上がる。
少し背が伸びたかもしれない。
擦り切れ汚れたシャツとズボンから腕と足が僅かに長くなって出ているのをみてぼんやりとそう思い、 歩き出す。
夜だと言うのに昼間のように周囲がはっきりと見える。
空に月は無い新月。
蠢く気配。 響く食べるものと食べられるものの声。
はっきりと聞き取れるそれにそれでも以前とは違い、 それほどの恐怖は覚えなかった。
目の前の路の角から、 何かが転がり出てきた。
それは、 自分とそう変わらない年頃の少年だった。
その少年は怯えきった様子で転がり出てきた方向を見て、 立ち上がって逃げようとした時にこちらに気付いた。
そして、 その瞳がまた恐怖に染まる。
少年が絶叫した。 自分を見て。 そして、 逃げ出していく。
わけがわからなくてその後姿を見て、 そして凍りついた。
その姿を見て、 思ってしまった。
美味しそう、 と。
そう思ってしまったことに、 心底恐ろしくなって、 少年がこちらを見て逃げたことに思い至って姿を映すものを探す。
僅かな灯りの下で、 硝子の破片を見つけてそれを手に取り姿を映して絶句する。
そこにあったのは、 化け物の姿などではなかった。
人間と同じ形。
いつもと変わらない形の自分の顔。
けれど、 いつもの下がった眦の瞳は人の瞳孔ではなく、 色彩も人では持ち得ないものだった。
夕闇と黄昏の混じりあったような、 紫黄の色彩。
手から破片が滑り落ちて、 足元で砕ける。
破片は砕けても、 その姿は変わらない。
魔力に侵食されたその器はもう、 人のそれではなかった。
◆ ◇ ◆
「坊主、そんなことしてっと死ぬぞ?」
無精ひげを生やした四十代くらいの外見の男が、 桃の木の下で実をもぎ取って口に運ぼうとしている少年に声をかけた。
煙草をふかし、 死にたいなら止めないけどな、 と笑ったその顔が、 少年が桃を齧り始めたことで怪訝なものに。
そして、驚愕へと色を変えた。
「なっ」
一口齧れば、 魔族すらその強すぎる毒で殺すその魔桃を少年は平然と齧って飲み込んでいく。
男が桃をもぎ取って、 まじまじと見た後に齧りかけて、 その桃を打ち捨てる。
「どうなってやがる……。 やっぱり魔桃のまま……。 坊主、 お前なんでこいつを」
「慣れた」
「何?」
「ずっと、 口にしていたから……段々、 食べれるようになって……」
その言葉に、 鳶色をした男の瞳が細まった。
ありえないはずのことだから。
そして、 焦点のぼんやりとした少年のそばに片膝をついてその顔を覗き込む。
「腹、 それでも満ちてねーだろ。 食事なんでとんねーんだ。 餌ならそこらにこの階層なら腐るほど」
「嫌だ!」
強い拒絶そして、 その瞳の動向が横に細く細くなる。
ぐしゃりと髪を掴み頭を抱え込みながら、 少年が血を吐くような声で言う。
「嫌だ……嫌だ……僕は…………っ」
人間だ。
人間のままで居たい。
食餌をしてしまえば、 もう人間では無いと認めることになってしまう気がして。
そんな少年を見ながら、 男はしばらく何かを考えていたが、 徐に立ち上がりその少年の腕を掴んで無理やりに立ち上がらせる。
「何すっ」
「おめぇ、元は違うんだな」
「っ」
「けどな、 もうおめぇは元には戻れねぇ。 吸血鬼でもなさそうだが、 何が食餌だ?」
黙り口を真一文字に固く引き結ぶ少年に、 男は溜息をつく。
「屍肉喰らいでもなさそうだしな。 ……まぁ、 良い。 俺と一緒に来な。 別の食事を食わせてやる」
そのニュアンスは少年に伝わり、 困惑の表情を浮かべた少年に男がニィッと口の端を吊り上げる。
「面白そうだ。 飯食わせてやるから、 俺に協力しろ。 どうせ自分じゃ気づいてねーんだろうが、 その魔力、 利用しねーのは勿体ねぇ話だ」
「魔力……」
「おめぇ、 名前は?」
「名前……」
何だっただろうか。
もう記憶さえ曖昧で、 自分の名前が出てこない。
名前は、 何だっただろうか。
「…………フォルシシア…………アマランサス………………………テイラー」
自分の名前なのか、 それはわからない。
ただ、 名前といって思い浮かんだものを口に出す。
男はその言葉にひょいと片眉を跳ね上げて、 笑う。
「テイラー……“仕立て屋”かよ。 そりゃ職業だろう。 それとも、 仕立て屋になりたいのか、 仕立て屋なのか? 後でスペル書いてみろ」
「仕立て屋……」
とても懐かしい、 誰かを思い出しそうな気がした。
いつも笑っていた、 誰か。
彼は……誰だっただろう?
嗚呼でも、 仕立て屋か。 良いかもしれない。
「仕立て屋……に、 なりたい、 な」
「んじゃ、 俺の繕い物からだ。 いくぞ」
男に連れられ、 少年は行く。
その世界のものを口すれば、 もうもとの世界には帰れないのだとどこかの物語は言っていた。
それでも、 僕はそこに帰りたかった。
それが叶わない夢だと、 知っていたけれど……
――― そして君が羽ばたくまで ―――
世界は揺り籠で眠り続ける
終