僕は
◇ ◆ ◇
目の前には、 燃え盛る炎の色。
目の前には、 赤い紅い赫い人の命を支えている液体が染み出して出来た水溜りがあった。
「あ……あ、 あ……あぁぁぁぁぁっ!」
燃え盛る火の檻。
天井の折れた梁が胸を背から貫いている。
ごぽっと音がして、 その口から搾り出すようにまた溢れる赤い色。
もう息絶えるだろう。 けれど、 彼は笑った。
翠の瞳を大きく見開き、 叫んだ少年を見て。
いつものように微笑んだ。
「よ……か…………」
良かった、 と。 笑った。
そして、 少年の背後にある扉を指差しながら、 彼は事切れた。
少年を庇い、 身代わりに貫かれ、 彼は。
少年は動けない。
ただ目の前で自身の赤い水溜りに沈む彼を見るだけ。
彼が庇ったのは生かすため。 彼の最後に指差した動きは逃げろということ。 逃がす為に生かしたというのだってわかっている。
それでも、 動けない。
バラバラともう他の部分が崩れ落ちてくるのも時間の問題というような天井から火の粉が雪のように降り注いでも、 その周囲の熱風が頬を舐めても、 動けない。
目の前にある彼へと手を伸ばし、 そして一つ音がした。
合図のように、 燃えた天井が降ってくる。
石畳は所々はげて、 漂うのは濁った空気。
息を切らせて走る。
迷宮を思わせる薄暗い街の路上を立ち止まることなく。
周囲では悲鳴や哄笑が響いているそこは、 まるで煉獄のようだった。
先ほどまで一緒にいた“仲間”はもう居ない。
最後の断末魔だけが耳にこびりつく。
どれほど長い間、 食物を口にしていないのか忘れてしまったが、 泥のような水を啜って生き延びられるくらいの時間なら長いとは言わないのだろうか。
靴はもうとっくに底が擦り切れてしまっている。
表皮も破れ、 素足が穴から見えているけれど、 それでも朝夕の骨も凍るような寒さならないよりましだろう。
元の色などもうわからないほどに汚れた服。
所々引っ掛けたように破けている。
街並みから抜け出し、 それでも後ろを振り返ることなく走り続けると、 完全に人気が消えた。
そこまで来てやっと、 倒れるように足を止める。
膝を突いた地面の土が肌につく。
それだけで、 言い知れないほどの寒気がした。
一本だけ生えた桃の木。
けれど、 そのたわわに実った桃は薄紫色をしている。
木の周りには雑草すら生えず、 少年以外に生き物の気配もない。
濃厚な魔の瘴気のようなものが、 桃の木を中心としてそこには満ちていた。
色こそ悪いが、 なんともいえない甘美な香りが漂う実。
けれどその実を食べる鳥も虫も居ない。 それは魔族といわれるものたちですら手を伸ばさない、 魔桃。
あまりにも強すぎる魔力を帯びたそれは、 毒の実。
その香りに、 喉が渇く。
爪は割れて、 血が乾いて茶色く染まった指先が一番近い枝に生っている実へと伸びる。
死の香りがした。
けれど、 どの道このままではきっと飢えて死ぬ。
そうやって仲間は死んでいったものも多い。
もしくは、 人では無いものたちに捕まりどうにかされるか、 だ。
どちらにしても、 それは死しかない。
少年はふわりと笑った。
どれを選んでも同じなら、 飢え死ぬのも捕食されるのもごめんだ。
パキッ、 と枝から桃をもぐ。
その薄皮へと唇を寄せて、 やんわりと歯を立てれば芳醇な香りがする。
じわりと柔らかな果肉から染み出す果汁が舌に触れた瞬間、 眩暈がした。
甘い甘いしびれるような感覚と共に、 意識が暗く狭まっていく。
手から魔桃が転がり落ちる。 身体が傾ぎ、 魔力に犯され汚染された地面へと倒れこむ。
そのまま意識が遠のき、 暗転。
魔桃の魔力はあまりにも強い。 毒のような魔力。
それに侵された体は死骸すら動物に食べられない。
遺骸を貪られるのもごめんだから、 これで良い。
世の中には運というものがある。
それは、 最初から自分では選べない。
母親は綺麗な金髪の女性だった。 気立ても良くて、 誰からも好かれるそんな性格だった。
それが、 先代領主の目に留まったのは本当に偶然。
先代は家同士が決めた許婚がいたが、 母との為にそれを破棄しようとまでした。
けれど、 現実は物語のように優しくなどない。
結局は仲を引き裂かれ、 先代はその許婚と。
そして母はその許婚の女から眼の敵にされ、 街を追い出されることになった。 お腹の中にはすでに先代の子を宿しながら。
どうやって手を回したのか、 街を出てもその女の差し金はついて回った。
街から町へ。 町から村へ。
放浪するかのように、 母は子供の手を引いて歩き回った。
定職にもつけず、 そんな子供がいる上にけちの付けられた女と一緒になろうと言い出すものもいなかったから、 ずっと母と子の二人だけだった。
段々とやつれて、 細く今にも折れてしまいそうなほど痩せていく母を見るのは、 子供心にも痛かった。
どうにもできない自分が歯痒かった。
なんでこんな目に、 と思ってもおかしくないのに母はいつも優しく微笑んでいて、 どうして笑えるの、 と思わず聞いた。
母の答えはいつも同じだった。
――― 幸せだからよ。
信じることなんて、 できなかった。
月日は巡って、 子供が大人になって。
そして春が幾度か過ぎた後に、 母は死んだ。
先代譲りのブルネットの髪は長く伸びていて、 それを後ろでしっぽ髪に結う。
母はこの髪型が好きだった。 お父さんに似ているわ、 といつも少女のように笑っていた顔がとてもまぶしい人だったから、 いつのまにか自分でも無意識に伸ばして結って。
髪の色以外は母譲り。
顔立ちも、 青い瞳も。
数年前から、 あの女の差し金もむけられなくなっていた。
それは、 先代が亡くなったからだと知るのは少し後。
いつの間にか、 母と先代の出会った街へとやってきていた。
それは別に会いに来たわけでも、 あの女に復讐しようと思ったわけでもなかった。
ただの偶然。 仕事で赴いた。 ただそれだけ。
偶然だったのに、 それは訪れた。
新たな仕事先として紹介されたのは、 領主の家御用達にというもの。
互いの立場は、 雇い主と使用人だった。
目の前には長年母を苦しめた女の年老いた死体があった。
焼け落ちた梁に潰され、 今は炎が赤い舌でそれを舐めている。
手を伸ばしていれば、 助かっただろう。
けれど、 自分は手を伸ばさなかった。
不思議なくらい静かにその身体が押しつぶされ潰された蛙のような悲鳴を最後に上げるのを目の前で見ていた。
あっけなかった。
「…………は、 はは……クッ…あはは」
笑い声が零れる。
笑い声なのに、 全然楽しくない。
嬉しくもない。
だが、 悲しくもない。
いうなら、 虚無。
もっと清々するかと思っていたのだが、 実際にその死に様と死体を見ても何の感情も湧かなかったことに、 とんでもなくくだらないという思いが湧き上がってくる。
踵を返して部屋を出て行こうと死体に背を向けた時、 部屋に飛び込んできた人物がいた。
「御祖母様、 アマランサス!」
「坊ちゃん……」
ハネそうなブルネットの髪をきちんと整え、 自分の仕立てた礼服に身を包んだ少年が滅多に揺れない翠の瞳を焦りと不安で一杯にして部屋に駆け込んできて。
「アマランサス」
「危ないですよ。 早くお逃げなさい」
「それはアマランサスも同じでしょう!」
少年は仕立て屋の先で梁に押し潰されて燃え始めている祖母の姿を目に捉えた。
御祖母様、 と呼びながらもう事切れていると傍目からでもわかりそうなそれに、 駆け寄ろうとする。
こちらに来ようとしたその頭上で、 嫌な音がした。
今度は、 考えるより先に身体が動いていた。
悲鳴が、 聞こえた。
いつも人形のように綺麗に笑っているのに感情の滅多に籠もらない顔を、 これ以上ないくらい歪め、 この手で突き飛ばした少年は叫び声を上げる。
さっきは何も感じなかった。 喜びも、 何も。
なのに、 何故だろう。
今は、 良かったと思うのだ。
守れて良かったと。
おかしな話だと思うのに、 それでも安堵している。
何故だろう。 自分の子でもない。
しかもあの女の血も引いているのに。
無事でよかった、 なんて。