聖女を優先した婚約者へ、国境の冬を返します
風向計の針が北を指した朝、フロレンスは婚約者の机へ契約終了通知を置いた。
「暖風供給は、今月末をもって終了します」
領都ヴァレの祝祭館では、冬迎えの舞踏会が始まろうとしていた。窓の外では初霜が屋根を白く縁取り、館内には季節外れの薔薇が咲いている。六年間、フロレンスが南の谷から運び続けた暖風のおかげだ。
その薔薇の中央で、婚約者ルイは聖女ベアトリスの肩へ白貂の外套を掛けていた。
「今、その話をする必要があるのか。ベアトリスは長旅で疲れているんだ」
「ですから、今です。終了まで三十日。風塔の操作訓練は明日から二十日間、燃料と毛布の備蓄一覧は別紙に。領民への告知案も添えました」
フロレンスが指で示したのは、通知書より分厚い引継ぎ帳だった。
ルイは表紙さえ開かなかった。
「大げさだな。風向計を南へ合わせ、魔石を入れるだけだろう。誰にでもできる」
「では、誰かにしていただいてください」
「拗ねるなよ。君の婚約者としての務めを、少しベアトリスへ分けてやりたいだけだ。彼女の奇跡は領地の誉れになる。君は裏方が得意なんだから、今までどおり――」
「婚約者としての務め、ですか」
フロレンスは左手の手袋を外した。六年前、婚約の印としてルイの母が刺繍してくれた革手袋だ。風脈を編むたび指先が擦れ、三度も裏地を替えている。
その手袋を、契約終了通知の上へ置いた。
「婚約も、本日をもって解消を申し入れます。暖風は婚姻後の共同事業を見越して、私の工房が無償提供していました。婚約がなくなる以上、無期限に続ける根拠はありません」
音楽が止まった。
招待客の視線が集まる。ルイの顔が、暖かな室内で赤くなった。
「ベアトリスを妬んでいるのか」
「いいえ」
「あの」
二人の間へ、ベアトリスが声を差し入れた。華やかな金髪に似合わず、その声は診療所で患者を起こさないような静けさだった。
「私は、フロレンス様の補佐として招かれたと伺っております。雪の季節に増える肺病を癒やしてほしい、と。暖風の担当を替える話は聞いておりません」
ルイは一瞬だけ目を泳がせた。
「細かな役割の話だ。君の奇跡なら、寒さなど――」
「凍傷を癒やすことはできます。けれど、凍傷にならない家を造ることは別の仕事です」
ベアトリスは外套を肩から外し、近くの椅子へ畳んだ。
「私を飾るために、誰かの仕事を小さく見せないでくださいませ」
フロレンスは初めて、聖女を正面から見た。肖像画では眩しいばかりだった青い目に、長旅の疲労と、職務を歪められた者の怒りがあった。
「二十日間の訓練は、どなたでも受けられます」
フロレンスは彼女にも引継ぎ帳を見せた。
「ただし、聖女様の本来のお仕事を奪うつもりはありません」
「ありがとうございます。私も、あなたのお仕事を奪いません」
それで話は終わった。
少なくとも、フロレンスにとっては。
◇
暖風は、風向計へ魔石を入れれば届くものではない。
南の石灰谷で温められた空気を捕まえ、十二基の中継塔で少しずつ圧を整え、山肌の冷気とぶつからない高さへ持ち上げる。風向き、湿度、積雪、煙突の排気を読み違えれば、暖気は谷底へ沈み、濃霧を生む。霧が凍れば街道は鏡になる。
フロレンスは六年前から、夜明け前と日没後の二度、風向計の記録をつけてきた。吹雪の晩には塔へ泊まり込み、凍りついた羽根を手でほどいた。
それでもルイは、最初の訓練日に来なかった。
二日目も、三日目も。
代わりに来た若い役人たちへ、フロレンスは惜しみなく教えた。塔の癖、危険な雲の色、暖風を止めるべき兆候。帳面を三部複写し、領主館、町役場、風塔へ置いた。
「ここまで渡してしまってよろしいのですか」
技師見習いの少年が心配そうに聞いた。
「領民は、ルイ様の判断をしたわけではありません」
フロレンスは新しい毛糸の手袋をはめた。古い手袋は、婚約解消の受領印とともに返送されてきた。短い手紙には、冷静になれば戻るだろう、とだけあった。
「私が返すのは災害ではないの。ただ、この土地に元からあった冬よ。だから皆さんには、冬を越える方法も返します」
彼女は備蓄庫を確認し、老朽家屋の隙間を塞ぐための麻束を発注し、共同暖炉の薪を増やす予算案まで残した。
ところが、ルイは予算案を退けた。
聖女歓迎祭の花火に費用が要る。暖風があるのに薪を買うのは無駄だ、と。
ベアトリスは歓迎祭を辞退した。浮いた費用を診療所と毛布に回すよう求めたが、ルイは「君の名誉のためだ」と聞かなかった。
二十日目、訓練を修了したのは役人三人と、粉屋の娘一人だった。
三十日目の正午。
フロレンスは南の石灰谷にある主塔へ登った。
空は薄青く、遠いヴァレの屋根が豆粒ほどに見えた。彼女は供給魔石を抜き、風路の弁をゆっくり閉じた。最後の暖気が頬を撫で、北へ流れていく。
「六年間、お疲れさま」
誰にも聞こえない声で風向計へ告げる。
針は揺れ、それから自然の北風へ向き直った。
その日の夕方、ヴァレには雪が降った。
◇
「うちの町なら、最初から寒い」
国境侯ゴート・ヴァイスは、求人面接の第一声でそう言った。
「正確には、暖風を買えるほど豊かではない。雪は腰まで積もる。風塔は二基とも壊れている。宿舎の窓は鳴るし、食堂のスープは薄い」
「ずいぶん率直でいらっしゃいますね」
「雇ってから騙したくない」
北西国境の町カルムは、ヴァレよりさらに山深い。城館の応接室にも隙間風が入り、卓上の雇用契約書がぱたぱたと鳴っていた。
ただし契約書の内容は、驚くほど温かかった。
技術長としての俸給。研究予算。吹雪の際に作業中止を命じられる拒否権。三年以内に後継技師を二人育てるための教育費。
「婚約が破れた風術師を、よく技術長に据えますね」
「婚約の成否で風向きが読めるなら考慮した」
ゴートは灰色の目で彼女を見た。
「私はあなたの論文を読んだ。恒常的な暖風は便利だが、土着作物の休眠を乱し、害虫を越冬させる。町を一人の術師へ依存させる危険もある、と書いたのはあなただろう」
その論文を、ルイは「婚姻後に暇ができたら本にすればいい」と笑った。
「読み終えた方に初めて会いました」
「二度読んだ。一度目は難しくて半分しか分からなかった」
真顔で言われ、フロレンスは少し笑った。
「では、二度目の結果はいかがでした?」
「暖風を呼ぶ人より、暖風がなくても生きられる町を造る人が必要だと分かった」
ゴートは自分の署名欄を空けたまま、契約書を彼女の正面へ戻した。
「あなたが必要だ、フロレンス技師長。だが、今夜は宿舎を使って考えてもいい。明日断っても、ここまでの旅費は払う」
フロレンスは契約書をもう一度読み、研究予算の欄へ一つ書き足した。
「羊毛洗浄所の改修費も必要です」
「高いな」
「冬はもっと高くつきます」
「採用だ」
二人は同時に署名した。
◇
カルムでの最初の仕事は、風を起こすことではなく、風を探すことだった。
フロレンスとゴートは町を一軒ずつ歩いた。北風が角を曲がって溜まる路地、雪が屋根を押し潰す傾斜、煙が逆流する共同住宅。彼女が風向計を立て、ゴートが住民から昔の吹雪を聞き取る。
「領主様が戸口へ膝をつくのは、格好がつきませんよ」
老婆に笑われながら、ゴートは床下の穴へ腕を突っ込んだ。
「風は爵位を読まないからな」
「埃もです」
戻ってきた彼の頬には煤がついていた。フロレンスが指で示すと、彼は反対側を拭いた。
「こちらです」
仕方なく手を伸ばす。煤を拭った瞬間、ゴートが息を止めたのが分かった。フロレンスも、自分の指が思ったより長く彼の頬へ触れていたことに気づいた。
「……現場確認を続けましょう」
「そうしよう」
二人とも、次の家まで妙に早足だった。
風を避ける雪垣。二重窓。屋根裏へ詰める羊毛。地下を通して予熱する共同浴場の排気。夏のうちに熱を蓄える黒石の壁。大きな奇跡は一つもない。けれど、小さな工夫を百軒へ積めば、町全体の薪は三割減った。
フロレンスは風術学校も開いた。
「風は命令するものではなく、頼み方を覚えるものです」
子どもや職人を前に、彼女は紙の風車を回した。壊れた二基の風塔は暖風用ではなく、吹雪を町の上へ逃がす排風塔へ造り直す。
ゴートは工事のたび、彼女の図面を会議卓の中央へ置いた。
「技師長案だ。質問は彼女へ。決裁責任は私が負う」
成果だけを領主の名にしない。失敗だけを技師へ負わせない。
その当たり前が、フロレンスには新鮮だった。
収穫祭の前には、もう一つ小さな争いがあった。
町の古参商人たちは、冬市場を諦めて保存食だけを買い込むべきだと主張した。フロレンスは反対に、南向きの石壁へ細長い硝子温室を造り、寒さに強い薬草を育てる案を出した。
「吹雪を避ける町に、わざわざ壊れやすい硝子を置くのか」
会議で問われ、彼女は小さな模型を卓上へ載せた。
「風を避けるのではなく、屋根の上へ滑らせます。雪の重みはこの支柱へ逃がす。暖風は使いません。日中に黒石が蓄えた熱だけで、夜の凍結を遅らせます」
「失敗したら?」
「私の設計責任です。原因を公開し、次の温室で直します。ただし試作費を私の俸給から引くことには同意しません。町の事業として成功を受け取るなら、失敗も町の費用です」
以前のフロレンスなら、反対されることを恐れて、自費で小さく試したかもしれない。ルイの領地で暖風の魔石代まで負担し始めたのも、最初はそのような遠慮からだった。
ゴートは帳簿を閉じた。
「試作費を認める。代わりに、成功したときも『領主の発案』にはしない。温室組合の名で売れ」
商人たちはまだ渋い顔だったが、領主が責任を半分持つと分かると、硝子職人と石工が模型を囲んだ。
一棟目の温室は、完成三日後の強風で硝子を二枚失った。
フロレンスは悔しくて、割れた破片を前に一晩中図面を引き直した。夜半、工房の扉が開き、ゴートが湯気の立つ椀を二つ持ってきた。
「叱責なら明日にしてください」
「玉葱のスープだ」
「慰めも、今は結構です」
「食事だ。慰めるかどうかは、あなたが飲んでから決める」
彼は図面へ口を挟まず、向かいの椅子で冷めたスープを飲んだ。フロレンスは空腹に負けて一口すすり、二口目で涙が出た。
「硝子を二枚も割りました」
「町は残っている」
「設計を信じてくれた人を、がっかりさせました」
「なら、明日一緒に謝ろう。その次に直そう」
成功を褒める人はいた。失敗の隣に座る人は、初めてだった。
翌朝、硝子職人は割れ方を見て、留め金に遊びを作る案を出した。石工は支柱の角度を変え、子どもたちは割れずに残った硝子へ雪の結晶を描いた。
二棟目は秋の嵐を越えた。温室で採れた香草を浮かべたスープが収穫祭で振る舞われ、商人たちは早くも来年の販売量を言い争った。
祭りの灯の下、ゴートが小声で尋ねた。
「今夜のこれは、慰めに数えていいだろうか」
「成功祝いです」
「では、踊りを一曲申し込んでも?」
差し出された手へ、フロレンスは自分から手を重ねた。
「技師長の勤務時間は終わりましたから、一曲だけ」
踊りの間、彼は一度も彼女の歩幅を急がせなかった。
秋の終わり、ヴァレから最初の手紙が届いた。
ルイではなく、訓練を受けた粉屋の娘からだった。
『引継ぎ帳のおかげで、暖風を半分だけ再開できました。ただ、領主様は以前と同じ温度を求め、危険な強風運転を命じています。私たちは拒否しました』
続いてベアトリスからも便りが来た。
『歓迎祭は中止になりました。私は診療所で働いています。ルイ様から、奇跡で町全体を暖めるよう求められましたが、お断りしました。あなたが残した備蓄案を町会へ提出し、住民の方々と実行しています。私の癒やしは、冬支度を怠る言い訳ではありません』
ルイからの便りは最後だった。
『君が意地を張るせいで、領都の評判が落ちた。今なら戻ってきてもよい』
フロレンスは三通を並べた。
ゴートは隣で、返事を急かさず待っていた。
「ヴァレへ戻りたいか」
「いいえ。ただ、私の教えた人たちが無理をさせられているのは心配です」
「ならば技術者組合として、危険運転を禁じる通知を出そう。あなた個人の恋情の話ではなく、資格と安全の話にする」
「領地同士の摩擦になります」
「それを引き受けるのが、私の仕事だ」
彼はそう言って、白紙を一枚差し出した。
「文章は技師長に任せる」
フロレンスは羽根ペンを取った。
通知は翌朝、国境全域の風術師組合へ送られた。資格を持つ役人三人は通知を根拠に強風運転を拒否した。ルイが無資格者へ塔を触らせようとすると、町会は領都憲章の安全条項を発動し、風塔の運営権を領主単独から役人と住民代表の共同管理へ移した。ヴァレは薔薇を冬に咲かせることを諦めたが、死人を出さずに冬を越した。
ベアトリスは春まで診療所に残り、暖風が届かない村を巡回した。ルイから求婚めいた贈物が届くたび、未開封で領主館へ返したという。
『私は誰かの代わりになるため、聖女になったのではありません』
その一文に、フロレンスは深く頷いた。
◇
カルムの初雪は、夜明け前に来た。
鐘が三度鳴り、フロレンスは寝台から飛び起きた。窓の外は白く、風向計の針は北西で震えている。
外套を羽織って城門へ走ると、ゴートがすでに馬を用意していた。
「排風塔の東側が予定より強い」
「学校の生徒を避難所へ。私は第一塔へ行きます」
「私も行く」
「領主は指揮所へ」
「決裁責任は私だと言った」
「だからこそ、生きて戻れる場所にいてください」
短く睨み合い、ゴートが先に折れた。
「分かった。十五分ごとに信号を」
「必ず」
第一塔では、雪を含んだ横風が石壁を叩いていた。フロレンスは梯子を上り、風路の翼を一枚ずつ開く。生徒たちが下で縄を支え、町の屋根からは煙がまっすぐ上がっている。
暖風はない。
それでも二重窓は閉じ、黒石の壁は昨日の熱を残し、共同窯では大鍋のスープが煮えていた。羊小屋にも雪垣が立っている。
排風塔の翼が北風をつかんだ。
重い唸りとともに、吹雪が町の屋根を越えて谷へ流れる。風向計の針が、危険を示す赤線からゆっくり離れた。
フロレンスが城門へ戻った頃には、雪は静かになっていた。
ゴートが駆け寄ってくる。無事を確かめるように両肩へ手を置き、すぐに離そうとした。
今度はフロレンスが、その手をつかんだ。
「信号は全部届きましたか」
「届いた。最後の青旗を見たとき、寿命が十年戻った」
「それまでは十年縮んでいたのですね」
「技師長を第一塔へ行かせた領主だからな」
「私が決めて行きました」
「そうだった」
彼は彼女の選択を、自分の手柄にも罪にも変えなかった。
町の人々が広場へ出てきた。子どもたちは新雪へ飛び込み、大人たちは白い息を吐きながら笑う。共同窯から、焼きたての黒パンが運ばれてきた。
「冬迎えの鐘です!」
誰かが叫んだ。
ヴァレでは恐れられた初雪を、カルムの人々は祝っていた。備えたからこそ、季節を季節として迎えられる。
フロレンスの胸にも、張りつめていた何かがほどけた。
「ゴート様」
「うん」
「春以降も、この町の技師長でいたいです。三年契約の更新ではなく、もっと長く」
彼の灰色の目が明るくなる。けれど、すぐには都合よく解釈しなかった。
「雇用条件を改めようか」
「それも必要です。それから――あなた個人との将来も、考えたい」
今度こそ、ゴートは言葉を失った。
フロレンスは笑って、新しい手袋の片方を外した。風塔の工事で汚れ、指先には小さな縫い跡がある。
「婚約は、仕事の無償提供を条件にしません。私の技術は町が正当に買う。あなたの爵位は、私の返事を買わない。意見が違えば会議で争う。三つです」
「厳しいな」
「嫌ですか」
「いいや。私からも一つだけ。危険な塔へ上る前には、必ず私に無事で戻ると言ってほしい」
「命令ですか」
「願いだ」
フロレンスは差し出された手を取った。
「では、努力します。あなたも」
ゴートは彼女の冷えた指へ唇を触れた。周囲から歓声が上がり、二人は同時に赤くなった。
その後、町の広場には小さな風向計が据えられた。
台座には、フロレンスが選んだ言葉が刻まれている。
『風を従えるのではなく、風と生きる』
北風が吹くたび、銀の針は自由に回った。
初雪を受けたフロレンスは、もう誰かの領地へ春を送り続ける必要がない。
彼女は自分で選んだ町に立ち、自分の冬を、愛する人とともに迎えた。
お読みいただきありがとうございます。
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