短歌と春の終わり
席替えの翌日。
教室に入ると、窓側の一番後ろに俺の席があった。
左には窓。
右には、小日向まひろの席。
昨日と何も変わっていない。
それだけのことなのに、カバンの肩紐が少しだけ重く感じた。
窓の外では、若葉が風に揺れている。
桜の色はもうどこにも残っていない。
俺は椅子に座り、机の中に教科書を入れた。
「おはよう、佐倉くん」
「……おはよう」
小日向は席に座ると、机の端を指先でそっと押した。
昨日より、少しだけ近い。
気のせいかもしれない。
そう思って横を見ると、小日向の頬がほんの少し上がっていた。
笑った、というほどではない。
でも、昨日までの席からは見えなかった表情だった。
隣にいると、こんな小さな変化まで見えてしまう。
目が合う。
小日向は何も言わない。
ただ、机の端に置いた指先が、ほんの少しだけ動く。
さっきまで上がっていた頬が、そのまま戻らない。
俺は前を向いた。
隣の沈黙だけが、しばらくそこに残っていた。
窓の外で、若葉が風に揺れている。
チャイムが鳴った。
教室に残っていた朝のざわめきが、少しずつ小さくなっていく。
一時間目は国語だった。
高瀬先生が教室に入ってきて、教卓にプリントの束を置く。
「今日は短歌を作る」
その一言で、教室の空気が少しだけ揺れた。
「作るんですか?」
「読むだけじゃないんですか」
「先生、短歌って難しくないですか」
あちこちから声が上がる。
高瀬先生は慣れた顔で黒板に文字を書いた。
**春の終わり**
「テーマはこれ。春の終わり。若葉でもいいし、風でもいい。制服、教室、窓、帰り道。自分の近くにあるものから考えろ」
春の終わり。
黒板の白い文字を見て、窓の外へ目をやる。
枝の先には若葉が増えていた。
風が吹くたび、光を返す。
春は終わる時、音を立てない。
気づいた時にはもう、別の季節の顔をしている。
「今回は隣同士で一首作る。片方が上の句。片方が下の句。五・七・五、七・七だ。プリントはペアで一枚でいい」
俺は右を見た。
小日向もこっちを見ていた。
目が合う。
すぐに、俺の方が先にそらした。
隣同士。
今さら分かっていたことなのに、授業の中でそう言われると、妙に逃げ場がない。
小日向は何も言わず、前から回ってきたプリントを一枚取った。
俺が次の一枚に手を伸ばそうとすると、小日向が首を横に振る。
「一枚でいいよ」
「……ああ」
「ペアで一枚って、先生言ってたよ」
「聞いてた。聞いてたけど」
「じゃあ、これ」
小日向はそう言って、プリントを俺の机と自分の机の間へ置いた。
ちょうど境目をまたぐような場所だった。
真ん中。
その位置を見ただけで、少しだけ落ち着かなくなる。
「書くなら、ここがいいかなって」
小日向は何でもない顔で言って、プリントの端を指で押さえた。
その視線が、プリントから俺の机へ移る。
それから、ほんの少しだけ俺の方を見る。
まるで何かを測っているみたいだった。
「……今、何か見てなかったか」
「ううん」
「見てた」
「少しだけ」
「……どこを」
「まだ内緒」
小日向は何でもない顔で言った。
その声が、妙に近かった。
高瀬先生が黒板の前で説明を続ける。
「最初からきれいに作ろうとしなくていい。言いたいことを削って、残ったものを言葉にする。短歌は、全部言わない方が伝わることもある」
全部言わない方が伝わる。
高瀬先生の声が、教室の前から落ちてくる。
俺はプリントを見た。
小日向がシャーペンを持つ。
「どっちが上の句にする?」
「どっちでもいい」
「じゃあ、私が上の句」
「早いな」
「佐倉くん、考えすぎて書けなさそうだから」
「……否定はできないけど」
「じゃあ、決まり」
小日向は少しだけ笑った。
それから、プリントにきれいな字を書いていく。
春終わる
窓辺の風が
近すぎて
書き終えると、小日向はシャーペンの先を止めた。
「はい」
「……はいって言われても」
「下の句、佐倉くん」
「……近すぎるの、風か?」
「他に何があるの?」
小日向はこっちを見ない。
見ないまま、そんなことを言う。
窓の方から風が入ってきた。
小日向の髪の先が少し揺れる。
春終わる。
窓辺の風が。
近すぎて。
窓辺の風の話のはずだった。
なのに、目を離す先が見つからない。
「佐倉くん」
「……分かってる」
俺はシャーペンを握った。
七・七。
それだけなのに、何も出てこない。
とりあえず、無難な言葉を書く。
若葉の色を
ただ見て終わる
小日向がプリントをのぞき込む。
「……それにするの?」
「春の終わりだからな」
「うん」
小日向はプリントを見たまま、少しだけ首を傾けた。
「これでいいの?」
「……よくはない」
俺は消した。
消しゴムの跡が、プリントに薄く残る。
動揺を隠すように、また書く。
ただ黒板を
眺めているよ
五・七・五の上の句に、無理やりくっつけただけの二行。
何の情緒もない。
書いた瞬間、自分でも違うと思った。
「それも?」
「……分かってる」
「佐倉くん」
「……うん」
「逃げたね」
返す言葉がなかった。
小日向はプリントを見たまま、ほんの少しだけ笑う。
その笑い声が、授業中のざわめきに紛れて、俺の方だけに届く。
「下の句は、佐倉くんが書いた方がいい」
小日向の声は低かった。
教室のあちこちでは、他の生徒たちが言葉を探している。
笑い声もある。
高瀬先生の足音もある。
でも、今の声だけが、妙に残った。
「一応、書いてる」
「それは、置いただけ」
小日向はプリントの端を押さえたまま、俺を見た。
「佐倉くんの言葉で書いて」
シャーペンの先が止まる。
俺は黒板を見た。
春の終わり。
白い文字。
窓から入る風。
隣の席。
小日向の横顔。
見ないようにすればするほど、視界の端に残る。
息を吐いた。
プリントの空白に、シャーペンを置く。
君の横顔
見ないふりする
最後の一文字を書き終えるより先に、指が消しゴムへ伸びていた。
小日向の手が、プリントの端を押さえた。
さっきより、少しだけ力が入っている。
「待って」
「……消す」
「だめ。消さないで」
小日向の声が、いつもより少しだけ早い。
消しゴムの角が、紙に触れたまま止まる。
白いところに、鉛筆の影が少しだけ移った。
小日向は短歌を見ている。
春終わる
窓辺の風が
近すぎて
君の横顔
見ないふりする
喉の奥が詰まった。
紙の上だけが、やけに静かだった。
「……ふり、なんだ」
小日向が小さく言った。
「短歌の話だろ」
「うん。短歌の話」
小日向はそう言った。
けれど、プリントから目を離さない。
高瀬先生が教室を回っている。
近づいてくる足音に気づいて、俺は姿勢を戻した。
「小日向、佐倉。できたか?」
「はい」
小日向がプリントを少し上げる。
高瀬先生がのぞき込んだ。
「春終わる、窓辺の風が、近すぎて。君の横顔、見ないふりする」
声に出された。
一瞬、教室の音が薄くなった。
近くの女子が、息を吸うみたいに小さく笑う。
「え、今の……」
「よくない?」
後ろの方で、誰かが囁いた。
廊下側の席から、田辺の声がした。
「佐倉、お前――」
「田辺」
高瀬先生が名前を呼ぶ。
「はい黙ります」
教室に小さな笑いが起きた。
俺はプリントを見ないようにした。
小日向はプリントを持ったまま、指先に少しだけ力を入れている。
「いいな」
高瀬先生は、目を少しだけ細めた。
「春の終わりの風を口実に、隣の人間を意識している情景が浮かぶ。『見ないふり』という屈折が効いているな。短歌はこういう、白状しきらない余白が大事なんだ」
白状しきらない余白。
その言葉が、変なところに刺さった。
高瀬先生は満足そうにうなずいて、次の席へ向かった。
教室のざわめきが戻る。
でも、さっきとは少し違う。
誰かがこちらを見ている気配がある。
すぐに目をそらす気配もある。
俺は口を開きかけて、閉じた。
「……読まれたな」
「読まれたね」
「先生が勝手に読んだだけだ」
「うん」
「あれは、短歌として褒められただけで」
「うん」
「……その、別に」
「うん」
小日向は短く返事をした。
その声は、いつもより少しだけやわらかかった。
授業の終わりに、プリントが回収された。
小日向は最後まで、俺の下の句を消さなかった。
チャイムが鳴る。
高瀬先生が教室を出ていくと、休み時間の空気が一気に戻ってきた。
田辺が廊下側の席から立ち上がりかける。
俺は目で止めた。
来るな。
田辺は口元を押さえながら、楽しそうに肩を震わせている。
来るなと言っているのに、たぶんあとで来る。
小日向は隣で筆箱を閉じていた。
いつも通りの横顔。
何でもない顔。
けれど、プリントが回収された後も、机の上に残った薄い消し跡を見ている。
「佐倉くん」
「……何」
「実験結果」
「……まだ続いてたのか」
小日向は机の端を指でなぞった。
さっき、プリントを真ん中に置いた場所。
俺の机と小日向の机の間。
「見ないふりは――思ったより、隠せません」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
小日向は前を向いたままだった。
その横顔は、いつも通り澄ましている。
けれど、口元だけがほんの少し緩んでいた。
教室のざわめきの中で、小日向が小さく息を吸った。
「でも」
「……まだあるのか」
「消さなくて、よかった」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
言葉が喉に張り付いて、呼吸の仕方が分からなくなる。
小日向はやっぱり、こっちを見ない。
ただ、机の端に置いた指先だけが、少しだけ落ち着かなかった。
俺は黒板を見るふりをして、その指先を見ていた。
あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第5話は「短歌と春の終わり」でした。
今回は、言葉にしないつもりだったものが、短歌の中に少しだけ出てしまう話です。
見ていないふり。
意識していないふり。
ただの授業のふり。
そういう逃げ道を作っているはずなのに、隣にいる相手には、思ったより隠せない。
佐倉にとっては、かなり危険な一時間だったと思います。
小日向にとっては、たぶん少しだけ嬉しい実験結果でした。
席ひとつ分の距離になった二人ですが、その近さに慣れるには、まだまだ時間がかかりそうです。
次回も、隣の席だからこそ起きる話になる予定です。
少しでも「続きが気になる」「小日向かわいい」「佐倉がんばれ」と思っていただけたら、ぜひ感想・評価・ブックマークで応援してもらえると嬉しいです。
感想をいただけると、二人のどんな距離感が刺さったのか分かってとても励みになります。
評価やブックマークも、次の話を書く大きな力になります。
ひとつひとつの反応が、本当にありがたいです。
それでは、次の実験でまたお会いしましょう。




