相合傘と雨の帰り道
翌朝。
俺は登校してすぐ、自分の席に座り、机に額を押しつけていた。
机は冷たい。
冷たいものに触れていれば、昨日のことも少しは薄れるんじゃないかと思った。
もちろん、そんな都合のいいことは起きない。
昨日の放課後。
小日向まひろに、黒歴史ノートを見られた。
名前呼びの実験とかいう、正気とは思えないイベントが発生した。
小日向に「悠真くん」と呼ばれた。
仕返しのつもりで、俺も「まひろ」と呼んだ。
その瞬間、小日向が一瞬だけ黙った。
そして最後に、あの黒いノートは小日向のカバンへ入っていった。
返してもらうはずだった。
というか、返してもらわなければならなかった。
なのに小日向は、あまりにも自然に持って帰った。
理由は一つ。
「佐倉くん、これ捨てるでしょ」
否定できなかった。
それが、俺の敗因だった。
「朝から机に沈んでるな」
横から声がした。
顔を少しだけ上げると、田辺陸がカバンを肩にかけたまま、俺を見下ろしていた。
「沈んでない」
「じゃあ何してんだよ」
「……昨日のことを忘れようとしてる」
「机に額押しつけて?」
「冷静になれるかと思って」
「それ、次はもう少し勢いつけたら記憶ごと飛ぶんじゃね?」
「どこの少年漫画だよ」
「いや、現実だと普通に保健室行きだけどな」
「急にまともになるな」
田辺は笑いながら、自分の席にカバンを置いた。
こいつは朝から元気だ。
その元気を少しでいいから俺の精神に分けてほしい。
いや、やっぱりいらない。
田辺の元気は、だいたい余計な方向に使われる。
「で、何を忘れたいんだよ」
「何でもない」
「何でもないことを忘れようとしてたのか?」
「忘れても支障がないからな」
「それ、逆に忘れなくていいやつだろ」
「うるさい」
「昨日、放課後なんかあった?」
「何もない」
「何もないやつの反応じゃないんだよな」
「どんな反応だよ」
「朝から顔が終わってる」
「ざっくり傷つけるな」
「じゃあ、ちゃんと言うわ」
「言うな」
「スマホの検索履歴を親に見られた直後みたいな顔」
「具体的に嫌な例えを出すな」
「近い?」
「遠くはないのが腹立つ」
田辺はにやっと笑った。
「やっぱ何かあったな」
「ない」
「小日向?」
「何でそこで小日向が出る」
「今、反応したから」
「してない」
「した」
「してない」
「はいはい。そういうことにしといてやるよ」
「その言い方が一番腹立つ」
俺は机から顔を離して、窓の外を見た。
空は灰色だった。
校庭の端に並ぶ桜は、もう花をほとんど残していない。
枝先には薄い緑の葉が増えていて、風が吹くたび、名残みたいな花びらが数枚だけ地面を転がった。
天気予報では、午後から雨らしい。
春と呼ぶには少し重くて、夏と呼ぶにはまだ冷たい空だった。
こういう日は、何も起きないでほしい。
昨日だけで、俺の高校生活はだいぶ削られている。
できれば今日は平和に過ごしたい。
そう思った時だった。
「おはよう」
教室の入口から、明るい声がした。
小日向まひろだった。
水色のヘアピン。
肩にかかるくらいの髪。
いつも通りの、話しかけやすい笑顔。
小日向は教室に入ってくると、近くの女子に手を振った。
「おはよう。昨日の課題、最後むずかしかったよね」
「まひろ、やった?」
「一応。でも自信ないから、あとで答え合わせしよ」
別の男子がプリントを探していると、小日向はすぐに自分のファイルを開いた。
「昨日の英語? これだよね」
「助かる」
「どういたしまして」
誰にでも感じがいい。
近すぎず、遠すぎず。
相手が困らない距離に、自然に立つ。
小日向まひろは、そういうやつだった。
ただし、俺にだけは少し違う。
その小日向が、俺の席の横で足を止めた。
「おはよう、佐倉くん」
普通だった。
普通の挨拶。
普通の呼び方。
普通の声。
なのに、俺の背中だけが勝手にこわばった。
昨日の夕方の教室。
名前を呼ばれた時の一瞬。
黒いノートが、小日向のカバンにしまわれる音。
全部まとめて、頭の奥で勝手に再生される。
「……おう」
返事が、少し遅れた。
小日向はそれを見逃さなかった。
「眠そうだね」
「寝起きだからな」
「登校してきたあとに言う台詞じゃないよ」
「精神がまだ家にある」
「じゃあ、今日は無理しない方がいいね」
小日向はそう言って、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。
周りの誰が聞いても、ただの朝の会話だった。
なのに、俺には分かった。
小日向は俺が何を思い出したのか、たぶん気づいている。
分かったうえで、何も言わない顔をしている。
それが一番たちが悪い。
「今日もよろしくね、佐倉くん」
「……ああ」
小日向は田辺にも「おはよう」と声をかけて、自分の席へ戻っていく。
その背中を見送っていたわけじゃない。
見送っていたわけじゃないが、視界には入っていた。
高校二年にもなって、朝の挨拶ひとつで動揺するなんて、自分でもどうかと思う。
中学のころなら、まだ言い訳できたかもしれない。
でも今の俺は、もう十七歳だ。
十七歳にもなって、女子に「おはよう」と言われただけで返事が遅れる。
冷静に考えると、かなり情けない。
すると、隣から田辺が肘で軽くつついてきた。
「なあ」
「何だよ」
「お前、小日向に挨拶されただけで固まりすぎじゃね?」
「固まってない」
「いや、固まってた。朝のホームルーム前にフリーズするなよ」
「パソコンみたいに言うな」
「再起動する?」
「しない」
田辺はにやにやしながら、小日向の席の方をちらっと見た。
「昨日、何かあっただろ」
「何もない」
「普通のやつは、挨拶返すまでに三秒かからない」
「三秒も経ってない」
「体感では五秒」
「お前の体感、信用できない」
「じゃあ言い方変えるわ」
田辺は少し声を落とした。
「お前、小日向のこと、急に意識してない?」
「してない」
「即答が早すぎる」
「遅くても早くても文句言うな」
「じゃあちょうどよく否定してくれ」
「注文が細かいんだよ」
田辺はまだ何か言いたそうだったが、チャイムが鳴った。
担任の高瀬先生が教室に入ってくる。
高瀬先生は出席簿を教卓に置き、教室をぐるっと見渡した。
「朝から元気なのはいいけど、席につけ。ホームルーム始めるぞ」
助かった。
昨日から日直やチャイムに救われてばかりだ。
俺は前を向いた。
できるだけ普通に。
できるだけ何もなかった顔で。
でも、視界の端に小日向の横顔が入るたび、昨日の「名前呼び」が勝手に思い出される。
人間の記憶というやつは、本当に不要なところだけ性能がいい。
午前中は、どうにか何も起きなかった。
小日向はいつも通りだった。
誰かに話しかけられれば笑う。
頼まれれば手を貸す。
先生にプリントを配るよう言われれば、「はい」と明るく返事をする。
そして、時々こっちを見る。
目が合うと、ほんの少しだけ笑う。
それだけで俺はノートを開く手が止まる。
いや、俺のノートはもう手元にない。
黒歴史ノートは、今、小日向のカバンの中にある。
そう思っただけで、机の上の教科書まで信用できなくなる。
俺の過去が、隣の女子の荷物の中で静かに持ち運ばれている。
どういう状況だ。
昼休みになると、教室の空気が少しざわついた。
窓に、細い雨粒がつき始めていた。
校庭の土の匂いが、少しだけ教室まで上がってくる。
花の終わった桜の枝で、若葉が雨に濡れて光っていた。
「うわ、降ってきた」
「傘持ってないんだけど」
「駅までなら走れるかな」
そんな声があちこちから聞こえる。
小日向は、隣の女子に折りたたみ傘を見せていた。
「帰りまで降ってたら、駅まで一緒に行こ」
「助かる。まひろ神」
「神ではないけど、駅までは送れる」
そう言って笑う。
優しい。
誰にでも、自然に優しい。
それを見ていると、昨日俺だけに見せた少し意地悪な顔が、別の人みたいに思えてくる。
いや、同じ人なのだ。
同じ人だから困る。
小日向はそのまま俺の席の近くまで来た。
「佐倉くんは傘、持ってきた?」
「持ってきた」
「本当に?」
「疑うな」
「昨日、数学ノートの代わりに別のノート持ってきた人だから」
「人前でその話をするな」
「別のノートって言っただけだよ」
「その言い方が一番怖いんだよ」
小日向は口元に指を当てて、小さく笑った。
「今日はちゃんと傘?」
「傘だ」
「黒い?」
「普通の紺」
「極秘って書いてない?」
「書いてあったらもう傘じゃない」
「極秘傘」
「分類が分からない」
「開いたら何か始まりそう」
「始まるな」
小日向は楽しそうに笑った。
田辺がパンを食べながら、こちらを見ている。
「お前ら、傘の話でそんな盛り上がる?」
「盛り上がってない」
「俺には盛り上がってるように見えるけど」
「田辺くんも傘持ってきた?」
小日向が自然に話を振る。
「あるぞ。部活のやつと帰るから使うけど」
「そっか。じゃあ佐倉くんは大丈夫だね」
「大丈夫だ」
俺はそう言った。
自信を持って言った。
確かに、今朝、玄関で傘を見た。
紺色の傘。
持ち手のところに小さな傷がある、いつもの傘。
それを見た記憶はある。
見た記憶は、ある。
問題は、持ってきた記憶が曖昧なことだった。
昼休みの終わり頃。
雨は本格的になっていた。
窓の外が白くにじむ。
校庭の土は色を濃くし、体育館へ向かう渡り廊下では、走る生徒たちの声が響いていた。
俺はカバンを開けた。
傘を確認するためだ。
ない。
もう一度見る。
ない。
教科書。
筆箱。
弁当箱。
プリント。
傘はない。
黒歴史ノートもない。
ないものが二つに増えている。
片方は小日向が持っている。
もう片方は、たぶん家の玄関にある。
俺はゆっくりカバンを閉じた。
「……終わった」
横から田辺がのぞき込んでくる。
「また何か失ったのか」
「傘」
「昨日は記憶、今日は傘」
「勝手に俺の喪失リストを作るな」
「明日は何をなくすんだ?」
「お前への信頼」
「最初からそんなにないだろ」
「よく分かってるな」
田辺は笑いながら、自分の傘を机の横から取り出した。
「入れてやってもいいけど」
「いい」
「まだ最後まで言ってないだろ」
「田辺と相合傘だろ」
「そうだけど」
「それは違う」
「何が」
「いろいろ」
「いろいろで断るなよ」
「じゃあ、はっきり言う。気まずい」
「俺もだよ」
「じゃあ提案するな」
田辺は肩をすくめた。
「まあ、昇降口で少し待てば? 弱くなるかもしれないし」
「そうする」
「小日向に入れてもらうとか」
「ない」
「今のは早かったな」
「ないものは早い」
「ふうん」
「その顔やめろ」
「いや、別に」
「絶対別にじゃないだろ」
結局、田辺には頼めなかった。
というか、頼む前に断った。
午後の授業中、俺は雨の音を聞きながら考えていた。
走って帰るか。
昇降口で雨がやむまで待つか。
誰かに傘を借りるか。
選択肢はいくつかある。
ただし、その全部が面倒くさい。
そして、俺の脳内に、見たくない選択肢が一つ浮かんでいた。
小日向。
いや、だめだ。
昨日からの流れで、それは危険すぎる。
黒歴史ノート。
名前呼び。
そして雨。
条件がそろいすぎている。
中学二年の俺なら、喜んでノートに書きそうな展開だ。
今の俺は、それを冷静に拒否する知性を持っている。
持っているはずだ。
放課後。
ホームルームが終わると、教室はいつもより早く動き出した。
雨が強くなっているせいで、みんな早く帰りたがっている。
昇降口には、傘を開く生徒たちが集まっていた。
ビニール傘がぱっと広がる音。
濡れた靴の匂い。
外の地面には、いくつも水たまりができている。
俺は昇降口の端で立ち尽くしていた。
走れば帰れる。
たぶん帰れる。
ただ、制服とカバンは無事では済まない。
春の終わりの雨は、見た目より冷たい。
傘のない生徒たちが、肩をすくめながら校門の方へ走っていく。
あと、黒歴史ノートは小日向のカバンに入っている。
そこだけは、今日に限って安心できた。
安心していい内容ではないが、雨には強い場所にある。
「佐倉くん」
声がした。
振り向く前から、誰かは分かった。
小日向まひろが、折りたたみ傘を持って立っていた。
「傘は?」
「ある」
「どこに?」
「家」
「それは、ないって言うんだよ」
「存在はしてる」
「ここにないなら、今日はないのと同じだよ」
「急に正論を言うな」
小日向は傘を軽く振った。
水色の小さな折りたたみ傘。
一人なら十分。
二人なら、たぶん少し狭い。
「じゃあ、実験しよっか」
「しない」
「まだ内容言ってないよ」
「この状況で言う内容なんて一つしかないだろ」
小日向はカバンを軽く叩いた。
「ちゃんと資料もあるし」
「俺の黒歴史を資料扱いするな」
「参考文献?」
「もっと嫌だ」
「じゃあ原典」
「宗教みたいにするな」
小日向はくすっと笑って、傘を開いた。
ぱさ、と小さな音がして、水色の傘が広がる。
「相合傘」
「やらない」
「雨の日、ヒロインは主人公に傘を差し出す」
「俺のノートに書いてあったやつだろ」
「うん。第七章」
「章番号まで覚えるな」
「いい章だったよ」
「作品として評価するな」
雨が昇降口の屋根を叩く。
ざあ、と音が強くなる。
生徒たちは次々と傘を差して帰っていく。
田辺は部活の友達と、すでに校門の方へ歩いていった。
昇降口には、人が少なくなっていく。
「入らないなら、ここで雨がやむまで待つ?」
「待つ」
「天気予報、夜まで雨だよ」
「……」
「学校に泊まる?」
「相合傘よりは安全かもしれない」
「何がそんなに危険なの?」
「俺の精神」
「じゃあ実験向きだね」
「人の精神を実験材料にするな」
小日向は傘の下を少し空けた。
「はい」
俺は動けなかった。
相合傘。
単語としては知っている。
中学の俺が、王道イベントとしてノートに書いた。
雨。
傘。
二人の距離。
袖が触れる。
肩が濡れる。
そういう、いかにもなやつ。
でも、現実で目の前に出されると、かなり困る。
「佐倉くん」
「何だよ」
「入らないの?」
「……」
「カバン、濡れるよ」
それを言われると弱かった。
教科書もプリントも入っている。
小日向のカバンには、もっと危険なものも入っている。
俺は一度だけ雨を見て、それから小日向の傘を見た。
「今回だけだからな」
「うん」
「実験に協力するわけじゃない」
「うん」
「これは緊急避難だ」
「うん」
「あと、あとで変なデータを取るな」
「それは内容による」
「約束しろ」
「善処します」
「政治家みたいに逃げるな」
小日向は笑った。
俺は諦めて、傘の中に入った。
近い。
最初に思ったのはそれだった。
傘は、二人で入るには少し小さかった。
肩と肩の間に、ほんの少ししか空間がない。
歩き出すと、自然に歩幅を合わせる必要がある。
少し離れようとすると、傘の外に出る。
近づくと、今度は小日向の腕が視界の端に入る。
これは、よくない。
何がよくないのかは分からないが、とにかくよくない。
校門を出ると、雨は細いまま、途切れずに降っていた。
歩道の端には、散りきれなかった桜の花びらが貼りついている。
踏まれて薄くなったそれを、雨水が少しずつ側溝の方へ運んでいた。
傘の外へ少し肩が出るだけで、制服の布がすぐに重くなる。
「佐倉くん、半分出てるよ」
「出てない」
「出てる。右肩、濡れてる」
「これくらい平気だろ」
「平気じゃないよ。風邪ひくよ」
「右肩だけだから大丈夫だ」
「右肩だけ風邪ひくってこと?」
「そういうことになるな」
「それ、普通に全身で休んだ方がいいよ」
「右肩のために全身が休むのか」
「持ち主なんだから責任取って」
「俺の右肩に厳しいな」
小日向は笑って、傘を少し俺の方へ寄せた。
その分、小日向の肩が傘の端に近づく。
俺は慌てて、傘の位置を戻した。
「今、戻した?」
「戻してない」
「戻したよ」
「そっちが濡れそうだったから」
言ってから、しまったと思った。
小日向が少しだけ目を細める。
「へえ」
「何だよ」
「今のは記録しておきたいね」
「するな」
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
小日向は楽しそうに笑う。
くだらない会話なのに、傘の中だと妙に逃げ場がなかった。
周りには、同じ学校の生徒も何人か歩いている。
そのうちの何人かが、ちらっとこちらを見た。
小日向は平気そうだった。
俺だけが、妙に落ち着かない。
「見られてる」
「相合傘だからね」
「実験中止」
「ここで出たら濡れるよ」
「濡れた方がましかもしれない」
「じゃあ出る?」
「……出ない」
「素直でよろしい」
小日向は楽しそうに笑う。
最初からずっと、小日向のペースだ。
こいつは誰にでも優しい。
でも、こういう顔をするのは、たぶん俺にだけだ。
そう思った瞬間、余計に落ち着かなくなる。
俺は前だけを見ることにした。
濡れたアスファルト。
白く跳ねる雨粒。
靴の先にできる小さな水しぶき。
歩道に貼りついた薄い桜の花びら。
そういうものだけ見ていればいい。
隣を見る必要はない。
「佐倉くん、歩き方かたい」
「雨の日は慎重に歩くものだ」
「私と相合傘だから?」
「地面が滑るから」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
小日向は、傘の柄を持ち直した。
指先が近くにある。
雨で少し冷えた空気の中、傘の中だけが妙に狭い。
しばらく、二人で歩いた。
最初は学校の話。
今日の授業。
田辺の変な発言。
英語の小テスト。
どうでもいいことばかり。
それでも、二人で一つの傘に入っているだけで、いつもの会話とは違って聞こえた。
駅へ続く道に入る。
生徒の数が少しずつ減っていく。
雨の音が、さっきよりはっきり聞こえるようになった。
「ねえ」
小日向の声が、少し近くなった。
「佐倉くん」
「何だよ」
「今なら、昨日の続きしても田辺くんに聞かれないね」
「するな」
「まだ何も言ってないよ」
「言う前から分かる」
「さすが」
「褒めるな」
小日向は少しだけ傘を傾けた。
顔は見える。
いつものように笑っている。
でも、声だけは少し小さい。
「じゃあ、ゆうま」
足が止まりかけた。
水たまりの手前で、靴の先がわずかに止まる。
「……その呼び方、外で使うな」
「今、周りあんまりいないよ」
「そういう問題じゃない」
「効いてる?」
「効いてない」
「じゃあ、もう一回」
「やめろ」
小日向は小さく笑った。
人前では、佐倉くん。
こういう時だけ、急に距離を詰めてくる。
わざとだ。
絶対にわざとだ。
俺がどう反応するか分かっていてやっている。
分かっているのに、反応してしまう自分が一番腹立たしい。
「昨日よりは平気そうだね」
「昨日の話をするな」
「記録は更新されていくものだよ」
「人を日々観察するな」
「観察じゃなくて、実験」
「余計悪い」
小日向は笑った。
雨の日の道に、その声が少しだけ混じる。
細い道に出たところで、後ろから車の音が近づいてきた。
水たまりの上を、タイヤが踏む音。
小日向は車道側を歩いていた。
考えるより先に、俺は傘の柄を持ち直して、小日向の腕を軽く引いた。
「え」
小日向の声が、雨音に混じる。
次の瞬間、車が横を通り過ぎた。
跳ねた水が、俺の靴の先を濡らす。
「……佐倉くん」
「今のは、道路が悪い」
「私、何も言ってないよ」
「言いそうな顔してた」
「どんな顔?」
「こいつ意外とちゃんとしてるな、みたいな顔」
「自分で言うんだ」
「先に言われるよりましだろ」
小日向は少しだけ目を伏せた。
傘に当たる雨の音が、急に大きく聞こえた。
「……ありがと」
「別に」
「そこは素直に受け取ればいいのに」
「今の俺に素直さを求めるな」
小日向はそれ以上からかわなかった。
その沈黙が、少しだけ落ち着かなかった。
雨はさらに強くなった。
風が吹いて、傘の端が少し持ち上がる。
小日向の肩に雨がかかりそうになった。
俺は反射的に、傘を小日向の方へ寄せた。
その分、俺の右肩に冷たい雨粒が落ちる。
数歩歩いたところで、小日向がそれに気づいた。
「佐倉くん」
「何だよ」
「肩、濡れてる」
「このくらい平気だろ」
「平気そうな顔してないよ」
「雨に濡れて平気そうな顔って、どうやるんだよ」
「少なくとも今みたいな顔じゃない」
「どんな顔してる」
「我慢してます、って顔」
「見なかったことにしろ」
小日向は少し笑った。
でも、すぐにその笑いを引っ込める。
カバンからハンカチを出して、俺の肩にそっと当てた。
「ちょっとだけ」
「いや、自分で――」
「動かない」
言い方は軽かった。
けれど、手つきは思ったより丁寧だった。
雨の音が傘を叩く。
小日向の指先が、制服の布越しに近い。
近い、と思った瞬間、何を言えばいいのか分からなくなった。
肩に触れているのは、ハンカチだけだ。
それなのに、そこだけ雨の冷たさから切り離されたみたいだった。
「……終わったよ」
小日向が手を離す。
「ああ」
「まだ濡れてるけど」
「そこはもう仕方ない」
「ほんとに風邪ひかないでね」
「右肩に言っておく」
「まだ言うんだ」
「さっきから心配されてるしな」
小日向は小さく笑った。
さっきまでみたいな、からかう笑い方ではなかった。
それからまた、二人で歩いた。
駅へ向かう道の途中、俺と小日向の帰り道が分かれる角がある。
いつもなら、何も考えずに曲がる場所だ。
でも今日は、その角が少しだけ近づくのが早く感じた。
いや、違う。
たぶん、傘の中が狭すぎたせいだ。
歩幅を合わせること。
肩が触れないようにすること。
小日向が濡れないように、傘を少し寄せること。
そんなことばかり気にしていたら、いつの間にか着いていただけだ。
角まで来ると、小日向は傘を少し傾けた。
俺が出やすいように。
街路樹の若葉から落ちた雫が、歩道の水たまりに小さな輪を作った。
ついこの前まで桜色だった道は、今は濡れた緑と灰色に沈んでいる。
車道を走る車のライトが、濡れたアスファルトの上でにじんでいた。
「実験結果」
小日向が言った。
俺は返事をしなかった。
正確には、できなかった。
相合傘なんて、狭いだけだ。
歩きにくいだけだ。
肩は濡れるし、どこを見ればいいのか分からない。
そういう言葉なら、いくらでも用意できた。
でも、小日向が傘の柄を両手で持ち直したせいで、全部どこかへ行った。
傘の下で、小日向の声が少しだけ近くなる。
「相合傘は――思ったより、悪くないです」
小日向は言い終えると、すぐに傘を少し下げた。
表情は見えなかった。
ただ、傘の向こうから聞こえた声だけが、いつもより少しだけ小さかった。
傘の端から落ちた雫が、二人の間に小さく跳ねる。
俺は右肩に手をやった。
制服の布は、まだ冷たい。
さっき小日向のハンカチが触れたあたりだけ、妙に輪郭が残っている。
「……以上、記録終了」
小日向が言った。
傘の端を伝っていた雫が、いつの間にか細くなっていた。
小日向が少しだけ傘を上げる。
雲の切れ目から、白い光が差していた。
晴れ間に映る小日向の横顔は、さっきまでより少しだけ遠く見えた。
傘の下にいた時は、近すぎて見えなかったものが、雨が上がった途端、急に輪郭を持つ。
濡れた髪の端。
まつげに残った小さな雫。
言い終えたばかりの唇。
どれもすぐ隣にあるのに、触れたら消えてしまいそうだった。
小日向は何も言わず、傘を閉じた。
ぱたぱたと水滴を払う音がして、俺たちの間にあった小さな屋根がなくなった。
「じゃあ、また明日。佐倉くん」
「ああ」
小日向は水色の傘を畳んだまま、駅の方へ歩いていった。
俺は反対側の細い道へ足を向ける。
家に帰るには、少し遠回りになる道だった。
雨上がりのアスファルトに、雲の切れ間から落ちた光が薄く伸びている。
濡れた桜の花びらが、靴の先に貼りついた。
何歩か歩いてから、俺はようやくそれに気づいた。




