第9話「隣の席の子」
午後の授業が終わると、教室の空気が少し緩んだ。
帰りのHRまで、あと十分。女子たちは席を立って話し始める。ゆうはノートの整理をしながら、その空気をなんとなく聞いていた。
右隣の席は、今日も空いていた。
でも左隣の席には、朝から同じ子がいた。
(相沢、ひなた)
記憶にある名前だ。大人しい印象で、グループの中心にいるタイプじゃない。でも一人でいるわけでもない、どこにでも自然に溶け込める子——前の崎山ゆうの記憶はそう処理していた。
今日一日、彼女は何度かこちらを見ていた。でも話しかけてはこなかった。
その相沢ひなたが、突然、ノートを落とした。
机の端から滑って、二人の席の間の床に落ちる。
ゆうは考えるより先に動いていた。椅子から少し体を傾けて、拾い上げる。
「どうぞ」
ひなたに差し出した。
ひなたが——固まった。
ノートを受け取ろうとして、手が止まっている。目が合った。ゆうが軽く微笑むと、ひなたの頬に薄く赤みが差した。
「……ありがとう、ございます」
小さな声だった。でも確かに言った。
「うん」
それだけで終わった。ゆうはノートの整理に戻った。
でも——教室の空気が、また動いた気がした。
◇ ◇ ◇
── 相沢ひなた 視点 ──
心臓が、うるさい。
自分の席に戻って、ノートを机の上に置いて、それでもまだ胸の音が収まらなかった。
(落としたのは、本当に偶然だった)
ノートが机の端にあったのは気づいていた。でも授業中ずっと崎山くんを意識していて、それで注意が散漫になって——
(言い訳みたい。でも本当に偶然だった)
拾ってくれた。
それはまだ、わかる。近くにあったから、反射的に。そういうこともある。
でも——「どうぞ」と言いながら渡してきた。
目が合った。
笑った。
(笑った、崎山くんが)
隣の席になって、もう半年以上経つ。でも崎山くんと目が合ったのは、今日が初めてだった。いつも視線が合いそうになると、向こうが逸らすから。
今日は、逸らさなかった。
しかも笑った。
普通に、自然に、何でもないことみたいに。
(どうしよう)
どうしようって、何が、という話だけれど。
ひなたは机の上のノートを見た。崎山くんが触れたノート。表紙が少し温かい気がした——気のせいだとはわかっている。
周りを見ると、クラスの何人かがこちらを見ていた。
「見た?」という顔をしている子もいた。
ひなたは視線を前に戻した。耳が熱かった。
(ただノートを拾ってもらっただけ)
そう言い聞かせた。
でも——「ありがとうございます」に「うん」と返ってきた瞬間の、あの感じが、まだ胸の中に残っていた。
距離が、なかった。
崎山くんが相手を人として見ているのが、一言でわかった。
それだけのことが、ひなたには——どうしようもなく、大きかった。
◇ ◇ ◇
── 崎山ゆう 視点 ──
帰りのHRが終わって、教室が動き始めた。
ゆうが鞄を持って立つと、後ろの席の子たちが少し場所を空けた。ぶつからないように、という配慮だ。悪意はない。むしろ親切なのだとわかる。
廊下に出ると、田辺が壁際に立っていた。スマホを見ていたが、ゆうに気づいて少し顎を上げた。
「今日、どうだった」
短い問いだった。
ゆうは少し考えて、正直に答えた。
「なかなか面白かった」
田辺が少し目を細めた。呆れているのか、笑っているのか、判断しにくい顔だった。
「……そういう感想が出るのか」
「駄目だった?」
「いや」
田辺がスマホをしまいながら、ゆうと並んで廊下を歩き始めた。
「さっきのノート、見てた人多かったと思うぞ」
「そっか」
「気にならないの」
「落ちてたから拾っただけだし」
田辺がまた沈黙した。少し経ってから、
「……お前、やっぱり雰囲気変わったな」
「そう見える?」
「前は話しかけても返事なかった」
ゆうは少し驚いた。
「話しかけてたの? 俺に?」
「一回だけ。去年の春」
「……それは、すまなかった」
田辺がふっと短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「まあいい。今日からまたよろしく」
「こちらこそ」
二人で階段を下りた。
外に出ると、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
(今日は、いい日だった)
そう思った。
特別なことは何もない。ノートを拾って、出席の返事をして、授業を受けて、廊下で少し話した。
ただそれだけの一日。
でも確かに、何かが動いた気がした。
小さく、でも確実に。




