第8話「教室という別世界」
職員室は、廊下の奥だった。
担任——佐伯先生という三十代半ばの女性——はゆうを見て、ほんの少し目を細めた。驚きというより、確認するような目だった。
「崎山くん。体は大丈夫?」
「はい、もう平気です。ご迷惑おかけしました」
佐伯先生がまた少し目を細めた。今度は確かに、驚きが混じっていた。
(お礼を言うのも珍しいのか)
プリントの束を受け取りながら、ゆうは密かにメモを更新した。「担任へのお礼」も、この世界では標準装備じゃないらしい。
「無理しないでね。何かあれば言って」
「ありがとうございます」
先生がまた止まった。
ゆうはもう気にしなかった。
◇ ◇ ◇
教室のドアの前に立ったのは、HR開始の五分前だった。
中から声が聞こえる。女子の話し声、笑い声、椅子を引く音。普通の朝のざわめきだ。
ゆうは一度だけ息を吸って、ドアを開けた。
最初に変わったのは、音だった。
ざわめきが、一瞬だけ落ちた。完全に静まったわけじゃない。でも確かに、何かが抜けた。波が引くような、薄い沈黙。
視線が来た。
一つじゃない。十も、二十も。
(全員じゃないけど、かなりの数だな)
ゆうは立ち止まらなかった。自分の席に向かって歩く。記憶では窓側の中ほど——四列目の三番目。
歩くあいだ、教室がじわじわと音を取り戻していった。話し声が戻ってくる。でもトーンが、さっきとは少し違う。抑えた声で、何かを確認しあうような空気が流れていた。
(なるほど。ざわつかないんじゃなくて、ざわつき方が違うのか)
席に着いた。
鞄を机のフックにかけて、プリントの束を引き出しに入れる。
何事もなかったように、前を向いた。
◇ ◇ ◇
HRが始まると、佐伯先生が教室に入ってきた。
「崎山くんが今日から復帰です。体調が戻ったとのことで、普通通り授業に参加してもらいます」
それだけだった。特別な紹介も、拍手の促しもない。この世界では、男子の復帰をあえて目立たせない配慮があるらしい。記憶がそう言っていた。
出席確認が始まる。
五十音順に名前が呼ばれていく。女子の名前が続いて——
「崎山」
「はい」
教室が、ざわっとした。
小さなざわめきだ。声が大きかったわけじゃない。ただ、ゆうの「はい」は——前の崎山ゆうとは、たぶん質感が違った。
はっきりしていた。明るかった。そういう意図はなかったのに、気づいたら教室の空気を少し動かしていた。
(しまった、少し声が大きかったか)
いや、大きくはなかった。普通だった。
普通が、目立った。
出席確認が続く。ゆうは前を向いたまま、視線だけで教室の様子を確かめた。
自分の席の周りを見ると——右隣の席が空いていた。記憶では誰か座っていたはずだが、今日は欠席らしい。左隣は女子で、今は教科書を出すふりをしながら、明らかにこちらを意識していた。前の席も同じだった。
(みんな、意識はしてるんだな)
でも話しかけてくる気配はない。
距離を取りながら、でも気になる。
それがこの教室の、正直な空気だった。
◇ ◇ ◇
一時間目が始まると、教室はいつもの時間に戻った。
数学の授業だった。教科書を開いて、板書を写して、先生の説明を聞く。やることは変わらない。この世界の数学は、前の世界と同じだ。当たり前だけれど、少し安心した。
授業中、ゆうは何度か視線を感じた。
左隣の子が、時々こちらを見ていた。目が合いそうになると、すぐ黒板に戻る。前の席の子も同じだ。反射的に向いて、反射的に逸らす。
(見たいけど、見てはいけない——そういう感覚なのかな)
不思議な距離感だと思った。嫌われているわけじゃない。恐れているわけでもない。ただ、どう接していいかわからない——そういう感じに近い。
休憩時間になった。
女子たちは自然にグループを作って話し始める。ゆうの周囲だけ、少し半径が広かった。悪意ではなく、配慮の結果として。
田辺が教室の後ろで窓の外を見ていた。一人で、静かに。
もう一人の男子——松本という生徒は、女子のグループの外縁に座って、スマホを見ていた。話に入っているわけでも、完全に切り離されているわけでもない、あいまいな位置に。
(それぞれの、それぞれのやり方があるのか)
ゆうはプリントを整理しながら、教室の空気を静かに観察した。
敵意はない。悪意もない。
ただ——全員が、少しだけ遠かった。
◇ ◇ ◇
昼休みになる直前、佐伯先生が声をかけてきた。
「崎山くん、少しいい?」
廊下の隅で、先生は少し声を落として言った。
「今日、しんどくなったらすぐ言って。保健室も使えるから」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「……今日の崎山くん、なんか雰囲気違うね」
不意に、そう言われた。
ゆうは少し考えた。なんと返すべきか。正直に言うわけにもいかない。
「熱を出してから、少し考えることがあって」
「……そっか」
先生はそれ以上は聞かなかった。ただ、小さく頷いて、
「無理しないでね」
それだけ言って、職員室に戻っていった。
ゆうは廊下に一人残って、窓の外を見た。
校庭では、女子が数人、ボールを蹴っていた。笑い声が、ガラス越しに聞こえてくる。
(普通の学校だな)
当たり前のことを、改めて思った。
男女比がおかしくても、先生が生徒を気にかけても、教室の空気が独特でも——ここにいる全員が、それぞれの普通の中で生きている。
自分もそこに、今日から混ざっていく。
廊下の向こうから、昼休みのざわめきが流れてきた。




