第7話「登校風景」
朝の空気は、冷たかった。
玄関を出た瞬間、肺の奥まで透き通るような冷気が入ってきた。空は薄く曇っていて、遠くの山の稜線がぼんやりしている。雨になるかもしれない。
「行ってきます」
玄関から声をかけると、台所からたか子の「気をつけて」が返ってきた。廊下の奥からは、ことみの「行ってらっしゃい」も聞こえた。昨日よりはっきりした声だった。
ゆうは少し笑って、扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
通学路は、緩やかな坂が続く住宅街だった。
記憶にある道だ。でも記憶の中のそれは色が薄く、ただの「移動」として処理されていた。今はちゃんと見える。電柱の影、塀の隙間から顔を出した雑草、誰かが出しっぱなしにしたプランターの花——小さなものが、全部目に入ってくる。
(いい道だな)
そう思いながら歩いていると、前から人が来た。
同じ制服を着た女子生徒が二人、並んで歩いてくる。話しながら、笑いながら——ゆうの存在に気づいた瞬間、二人の動きが変わった。
笑い声が、止まった。
歩くペースが、わずかに落ちた。
視線がゆうに向いて、すぐ逸れた。
すれ違うとき、二人は自然に道の端に寄っていた。意識してやっているというより、体が勝手に動いている感じだった。
(……これが、か)
ゆうは特に何もしなかった。普通に歩いて、普通にすれ違った。
ただ——すれ違いざまに、軽く会釈した。
二人が、固まった。
背後で「え」という小さな声が聞こえた気がした。振り返らなかったから、確かめていないけれど。
◇ ◇ ◇
その後も、何度かすれ違った。
三人組の女子。自転車の女子。中学生らしい二人連れ。
全員が、同じように反応した。気づいて、距離を取って、視線だけが追いかけてくる。
ゆうはそのたびに会釈した。
会釈が返ってきたのは、一回だけだった。三人組の一人が反射的に頭を下げて、すぐ隣の子に小突かれていた。
(なるほど。会釈も珍しいのか)
メモしておこう、と思った。この世界では「すれ違いに会釈する」は男性のする行動として認識されていないらしい。
だからといってやめようとは思わなかったけれど。
◇ ◇ ◇
坂を上り切ったところで、同じ制服の男子と並んだ。
向こうも気づいて、少し目を細めた。お互い、同じ学校だとわかっている。
「おはよう」
ゆうが言うと、相手が一瞬だけ驚いた顔をして——それから、
「……おはよ」
短く返してきた。
名前は、記憶にある。同じクラスの男子——田辺という。無口で、基本的に単独行動が多い。前の崎山ゆうとは、挨拶すら交わしたことがなかったはずだ。
二人で並んで、しばらく歩いた。
会話はなかった。でも不思議と、それが苦ではなかった。
(男同士でもこうなのか)
男性同士は、接点が少ない。希少な同士で固まるかというとそうでもなく、むしろ互いに干渉しない距離感を保つのがこの世界の「普通」らしかった。
記憶にそう書いてあった。
学校の門が見えてきたとき、田辺が少し前に出た。ゆうより速い歩幅で、自分のペースに戻っていく。
(ああ、ペースを合わせてくれてたのか)
気づいたら、田辺はもう数歩先にいた。
ゆうはその背中を見ながら、少し面白いと思った。
◇ ◇ ◇
校門をくぐると、空気が変わった。
敷地内には生徒がちらほらいて、談笑したり、スマホを見たり、それぞれに朝の時間を過ごしている。大半が女子だ。当たり前だけれど、改めて見ると——やはり少し、違和感がある。
そしてゆうが門をくぐった瞬間、半径数メートルの空気が変わったのがわかった。
誰かが気づいた。
気づいた誰かが、隣の誰かに何かを言った。
視線が、じわじわと集まってくる。
(……これは、なかなかだな)
ゆうは立ち止まらなかった。普通に歩いた。視線を受け流しながら、昇降口に向かう。
途中、目が合った女子生徒が、すぐに逸らした。
ゆうは小さく会釈した。
相手が、固まった。
もう驚かなかった。
そういうものだ、とわかってきた。
昇降口のドアを開けながら、ゆうはことみの言葉を思い出した。
(お兄ちゃんの「普通」が、たぶんみんなと違う)
そうだな、と今は素直に思った。
違う。でも、だから何だという話でもある。
自分は自分の普通で、生きていくだけだ。
靴を履き替えて、廊下に踏み出した。
教室まで、あと少し。




