第6話「学校に行く日」
明日、学校に行く。
それだけのことなのに、ゆうは夜になってから妙に部屋が静かに感じた。
鞄を確認した。教科書、ノート、筆箱。崎山ゆうの記憶を参照しながら、一つずつ確かめる。体育着は明日でいい、と記憶が言っていた。プリントの類は長期欠席の間に担任がまとめてくれているはずで、登校したら職員室に取りに行く。
段取りは、わかる。
問題は——その先だ。
(どんな場所なんだろう、ここの学校は)
記憶にはある。教室の配置も、担任の名前も、クラスメイトの顔も。でもそれは「前の崎山ゆう」が見ていた景色だ。感情のフィルターが薄くて、ほとんど記号みたいに処理されていた記憶。
自分の目で見たものじゃない。
ゆうは机の椅子に座って、窓の外を見た。夜の住宅街は静かで、遠くにコンビニの明かりがぼんやり光っていた。
(男子が少ない教室、か)
記憶によれば、クラスに男子は三人だ。三十二人クラスで、三人。残りの二十九人が女子。
比率で言えばまだマシな方で、学校によっては男子が一人か二人というクラスもあるらしい。
どんな空気なんだろう。
前の崎山ゆうには、それが「普通」だったから、たぶん何も感じていなかった。でも今の自分には——少し、想像がつかない。
◇ ◇ ◇
コンコン、と扉が鳴った。
「どうぞ」
入ってきたのはことみだった。パジャマ姿で、手に何かを持っている。近づいてきて、机の端に置いた。
栄養ドリンクだった。
「……念のため」
「ありがとう」
ことみが頷いて、でも出て行かなかった。扉のそばに立ったまま、少し迷うような間があった。
「……学校、怖い?」
思ったより直接的な質問だった。
ゆうは少し考えてから、正直に答えた。
「怖いというか——どんな感じか、ちょっと想像できなくて」
「想像できない?」
「久しぶりだから」
ことみが少し考える顔をした。それから、ゆっくり言った。
「……お兄ちゃんが行ってたころは、たぶん今と同じだよ。賑やかな感じじゃないけど、静かすぎるわけでもない。ただ、お兄ちゃんが来ると……」
そこで一回、言葉が止まった。
「……みんな、ちょっと緊張すると思う」
「緊張? 俺が?」
「男子が来るから。久しぶりに登校するから。……どっちもあると思う」
ゆうはそれを聞いて、少し考えた。
(そういうものか)
自分が緊張させる側になるというのは、前の世界ではあまり経験がなかった。どちらかといえば自分が周囲に合わせる方で、存在感を消すのが得意な側だった。
でもここでは、いるだけで目立つらしい。
「そっか。じゃあ、なるべく普通にしてれば大丈夫かな」
ことみがまた止まった。
今度は少し、困ったような顔をしていた。
「……お兄ちゃんの『普通』が、たぶんみんなと違うと思う」
「どういう意味?」
「この前みたいに、挨拶とか……ありがとうとか、普通に言うじゃない」
「うん」
「それが、普通じゃない人たちの中に行くってこと」
ゆうは黙った。
ことみの言葉の意味を、ゆっくりかみ砕く。
そうか——この家で起きたことが、学校でも起きるということか。いや、家族よりもっと距離が遠い相手に対して、それが起きるということか。
(なるほど)
「教えてくれてありがとう。参考になった」
ことみが少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと息を抜くように言った。
「……ちゃんと帰ってきてね」
「帰るよ。学校だし」
「そういう意味じゃなくて」
そこで終わった。
ことみは何かを言いかけて、やめて、「おやすみ」だけ言って出ていった。
扉が閉まる。
ゆうは机の上の栄養ドリンクを見た。
ラベルに「疲労回復」と書いてあった。
(……ちゃんと帰ってきてね、か)
その言葉の重さが、じわじわと染みてきた。
ことみはたぶん、学校という場所を少し恐れていた。男性が吸い込まれていく場所として。距離を取ることを教えられた場所として。
だから——帰ってきてほしかったのかもしれない。
変わらずに、ここに。
◇ ◇ ◇
その夜、ゆうはなかなか眠れなかった。
怖いわけじゃない。不安でもない。ただ、明日の景色が全部未知で——それが妙に、静かな興奮として胸の中にあった。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
遠くで、猫の声がした。
ゆうは目を閉じたまま、考えた。
普通に挨拶する。
普通に話す。
普通に笑う。
それだけでいい。
それだけが——たぶん、ここでは一番難しいことなのだと、ことみが教えてくれた。
(明日、楽しみだな)
そう思ったら、すとんと眠れた。




