第4話「母の話」
ことみは、歩きながら考えていた。
学校までの道は、片道二十分。毎日同じ道を歩いて、毎日同じ角を曲がって、毎日同じ坂を上る。考え事をするには、ちょうどいい時間だ。
今日考えているのは、お兄ちゃんのことだった。
(おいしい、って言った)
朝ごはんのとき。お味噌汁を飲んで、独り言みたいに。
お母さんが箸を止めた。ことみも止まった。でも誰も何も言わなかった。
言えなかった、が正しいかもしれない。
食器を洗うのも手伝っていた。お母さんの隣に、普通に並んで。
「行ってきます」も言った。
どれも、普通のことだ。
でも——お兄ちゃんがそれをするのは、普通じゃなかった。
◇ ◇ ◇
── 回想 三年前 ──
ことみが小学六年生のとき、お父さんがいなくなった。
正確には、出ていった。荷物をまとめて、静かに。
喧嘩もなかった。怒鳴り声もなかった。ある朝目が覚めたら、お父さんの靴がなくて、クローゼットが半分空いていた。
お母さんは何も言わなかった。
ことみも、聞けなかった。
お兄ちゃんは——当時中学一年生だったお兄ちゃんは——その日の夕食を黙って食べて、「ごちそうさま」も言わずに部屋に戻った。
それがいつも通りだったから、ことみは余計に怖かった。
── 回想 二年前 ──
中学に入ってすぐのころ、ことみはお兄ちゃんに話しかけようとしたことがある。
学校でクラスの男子に声をかけられた話をしたかった。何の話でもない、ただの報告だ。でも「男子と話したの?」って顔をされるのが嫌で、誰にも言えていなかった。お母さんにも。だから、お兄ちゃんなら、って思ったのだ。
廊下で声をかけた。
「ねえ、お兄ちゃん」
お兄ちゃんは振り返った。目が合った。
でも何も言わなかった。
返事を待っているのか、聞こえていないのか、もう話が終わったと思っているのか——ことみにはわからなかった。三秒くらい経って、お兄ちゃんは部屋に入っていった。
ことみはそのまま、自分の部屋に戻った。
話しかけるのをやめた。
それからは、必要なことだけ言うようにした。
「お風呂空いてる」「ご飯できたって」「おやすみ」。
それ以上は、いらないと思った。
── 回想 一年前 ──
お母さんと二人でご飯を食べていたとき、ことみはこっそり聞いた。
「お兄ちゃんって、ああいう人なの?」
お母さんは少し間を置いてから、こう言った。
「……この子たちは、ああなるのよ。しょうがないの」
この子たち、というのは男の子のことだと、ことみにはわかった。
学校でも習った。男性は保護されている。近づきすぎてはいけない。負担をかけてはいけない。それは家族でも同じで、女親や姉妹は特に気をつけなきゃいけない、と。
だからお母さんも、距離を取ってきたのだ。
だからことみも、そうしてきた。
それが正しいことだと、思っていた。
── 現在 ──
ことみは坂の途中で立ち止まった。
後ろから自転車が来て、すり抜けていく。風が制服の裾を揺らした。
(でも)
お兄ちゃんは「ありがとう」と言った。
「おはよう」と言った。
「おいしい」と言った。
一緒に皿を洗った。
しょうがない、じゃなかった。
そう決まってるわけじゃなかった。
ことみはそのことを、うまく言葉にできなかった。
ただ、なんとなく——胸の中の何かが、少し狭くなった気がした。
悲しいのか、嬉しいのか。
それとも、ずっと信じてきたことが少しだけ揺らいだときの、あの感じなのか。
わからないまま、ことみはまた歩き始めた。
学校まで、あと十分。
◇ ◇ ◇
その夜、ことみはベッドの中で天井を見ていた。
お兄ちゃんの部屋から、かすかに物音がした。起きているらしい。
明日は学校に行くと言っていた。久しぶりの登校だ。
(大丈夫かな)
そう思った自分に、ことみは少し驚いた。
心配、している。
お兄ちゃんのことを。
いつからだろう。いや——もともとそうだったのかもしれない。ただ、気にしてはいけないと思っていただけで。
ことみは布団を顎まで引き上げた。
目を閉じた。
明日、「行ってらっしゃい」が、もう少しちゃんと言えたらいいな。
そんなことを思いながら、眠った。




