第3話「おはようの重さ
翌朝、六時半に目が覚めた。
体のだるさはほとんど抜けていた。頭も、昨日より格段にクリアだ。ゆうはカーテンを少し開けて、朝の光を確認した。晴れている。空が妙に澄んでいて、どこかよそよそしい感じがした。
着替えて、廊下に出る。
台所から、出汁の匂いがしていた。
(起きてるのか、母さん)
リビングに入ると、たか子が台所に立っていた。こちらには気づいていない。味噌汁の鍋をかき混ぜながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
テーブルにはすでに、三人分の朝食が並んでいた。
「おはよう」
自然に、出た。
それだけのことだった。
たか子が振り返る。
目が合った。
一瞬——本当に一瞬だけ、彼女の表情が止まった。驚き、というより、何か大切なものを急に目の前に出されたときの顔に近かった。
「……おはよう」
返ってきた。
それだけで十分だと思うのに、たか子はそこで目線を鍋に戻してしまった。何か言いかけて、やめたような間があった。
ゆうは椅子を引いて座った。
しばらくして、廊下からパタパタと小走りの音がして——ことみが入ってくる。寝癖が一本立っていた。
「あ、もう起きてる」
ことみがゆうを見て、少し体が止まった。昨夜の「ありがとう」がまだ残っているのかもしれない。でもすぐに目を逸らして、冷蔵庫から麦茶を出し始めた。
三人分のコップに麦茶を注いで、テーブルに置く。一つはゆうの前にも。
(気を遣ってくれてる)
「ありがとう」
ことみが、ぴたっと止まった。
麦茶のポットを持ったまま、固まっている。
「……べつに」
そう言って冷蔵庫に戻す。顔は見えなかったが、耳が少し赤かった。
◇ ◇ ◇
三人で食べる朝食は、静かだった。
それ自体は変わらない。崎山家の朝は、たぶんずっとこうだった。テレビもつけない。余計な話もしない。各自が黙々と食べて、終わったら流しに運ぶ。
でも——何かが、違った。
ゆうが味噌汁を一口飲んで、「おいしい」と言った。
それだけだ。独り言みたいな小さな声だった。
たか子が、箸を止めた。
ことみが、味噌汁を見た。
誰も何も言わなかった。
でも食卓の空気が、少しだけ変わった。
固かったものが、一枚剥がれたような。
うまく言葉にはできないが、ゆうにはそう感じられた。
◇ ◇ ◇
食べ終わったあと、ゆうが流しに食器を運んでいると、たか子が横に来た。
「……洗っておくから、置いといていい」
「俺も手伝う」
たか子が止まった。
ゆうはそのまま水を出して、スポンジを手に取った。やり方はわかる、記憶にある。
しばらくの間、二人並んで食器を洗った。
たか子は何も言わなかった。ゆうも何も言わなかった。ただ水の音と、食器が触れ合う小さな音だけが続いた。
最後の茶碗をすすいだとき、たか子が小さく息を吐いた。
「……熱、もう大丈夫?」
「うん。もう平気」
「そう」
それだけだった。
でもたか子の声は、昨日より少しだけ柔らかかった。
◇ ◇ ◇
廊下で、ことみとすれ違った。
学校の鞄を持って、玄関に向かうところだった。
「行ってきます」
ゆうが言うと、ことみが一瞬、足を止めた。
「……行ってらっしゃい」
小さな声だった。
玄関の扉が閉まる。
台所から、たか子の声が聞こえた。
「気をつけてね」
追いかけるような声だった。もうことみには届かないとわかっていても、それでも言わずにいられなかったような。
ゆうはその声を聞きながら、玄関で靴を履いた。
(この家、悪くないな)
ただそう思った。
特別なことは何もない朝だった。
挨拶をして、ご飯を食べて、食器を洗って、行ってきますを言った。
それだけのことが、この家にはなかったのかもしれない。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。
学校まで、歩いて二十分。
まだ知らない道を、ゆうはゆっくりと歩き始めた。




