第2話「妹の距離」
夜になった。
熱は下がった。体はまだ少しだるいが、動けないほどじゃない。リビングで雑炊を食べて、また部屋に戻ったゆうは、ベッドに腰をかけたまま天井を見ていた。
(この家、静かすぎるな)
前の記憶でも、崎山家はいつもこんな感じだったらしい。母はよく気を遣ってくれるが、必要以上に踏み込んでこない。妹は兄の部屋の前を通るとき、足音を消す。テレビの音量は常に小さい。
誰かに遠慮しながら、全員が生活している家だ。
(原因は俺——前の俺、か)
感情を出さない。返事が少ない。関わりを避ける。
この世界の「普通の男子」として育った崎山ゆうは、たぶんそういう人間だった。家族ですら、距離を取ることが正しいと思っていたのかもしれない。
コンコン、と扉が鳴った。
「ゆう……お盆、回収してもいい?」
妹の声だ。
ことみ——崎山ことみ、中学三年生。記憶の中の彼女は、いつも少し遠くにいた。
「どうぞ」
扉がそっと開いた。
ことみが入ってくる。目線は床に向いていて、まっすぐ机のお盆に向かって歩く。無駄な動きがない。素早く、でも音を立てないように。まるで、なるべく気配を消そうとしているみたいだった。
お盆を手に取って、すぐ出て行こうとする。
「ことみ」
名前を呼んだだけだった。
それだけで、ことみが止まった。背中が少し強張るのが見えた。
「……なに?」
振り返らない。お盆を胸の前で抱えたまま、扉の方を向いている。
「飯、うまかった」
しばらく、何も聞こえなかった。
ことみが動かない。ゆうも何も足さない。ただ静かな部屋に、遠くから車の音だけが通り過ぎていく。
◇ ◇ ◇
ことみはその言葉の意味を、すぐには処理できなかった。
お兄ちゃんが、感想を言った。
ご飯の、感想を。
(……え?)
変なことを言われたわけじゃない。普通の一言だ。でも「普通」じゃないから、うまく受け取れない。お兄ちゃんはいつも、こういうことを言わない人だった。ご飯を出しても「うん」か黙って食べるかで、「うまかった」なんて言葉、ことみは聞いたことがなかった。
(熱で、なんか変になった?)
そんな考えが頭をよぎる。でもさっきのリビングでも、お母さんにお礼を言っていた。お母さんが「え」って顔してた。あれ、ことみも見ていた。
なんか、違う。
お兄ちゃんが、違う。
「……母さんが作ったやつだから」
精一杯の返しがそれだった。
意味のある返しかどうかも、よくわからない。でも黙って出て行くのも違う気がして、それだけ絞り出した。
「そうか。でも、ことみも手伝ったんじゃないの」
また止まった。
今度は驚きより、少し——怖いに近い何かが来た。
(なんで知ってるの)
見てたの、と聞こうとして、やめた。お兄ちゃんの部屋から台所は見えない。わかるわけがない。でも当てていた。
玉ねぎの薄切りが少し不揃いだったから、って気づいたのかもしれない。お母さんの切り方とことみの切り方は違う。前から違った。
(……気にしてたんだ)
その事実が、じわじわと染み込んでくる。
「……ちょっとだけ」
ことみは扉のノブに手をかけながら、それだけ言った。
声が、少しかすれた。
「そっか。ありがとう、ことみ」
お盆を持っていない方の手で、ことみはそっと目の端を押さえた。
お兄ちゃんに見えないように、廊下に出てから。
◇ ◇ ◇
扉が閉まった。
ゆうはベッドに横になって、天井を見た。
(泣いてたかな、あれ)
わからない。でも、ちょっと声がおかしかった。
飯がうまかったと言って、ありがとうと言っただけだ。そんなことで泣くのか、と思う。いや——泣くほど、前の俺は何も言ってこなかったということか。
(そうか)
それだけ考えて、ゆうは目を閉じた。
体はまだ少し熱を持っていた。布団が重かった。でも、眠れそうだった。
明日は、学校に行ける気がした。
この家の、もう少し奥まで——歩いていける気がした。




