第7話「ひなたが、踏み出した」
木曜日の五時間目は、英語だった。
教科書を読み上げて、訳して、先生に当てられた生徒が答える。繰り返しのリズムが続く中で、ゆうは窓の外を少し見ていた。曇り空だった。昨日より気温が下がっている。
後ろの席の子が消しゴムを落とした。コロコロと転がって、ゆうの椅子の脚に当たって止まった。
拾って、後ろに差し出す。
「……あ、す、すみません」
受け取る手が、少し震えていた。
(緊張してる)
「どうぞ」
それだけ言って、前を向いた。先生がちょうどこちらの列に視線を向けていたが、特に何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
放課後になって、教室が動き始めた。
ゆうはプリントを片付けながら、今日の帰り道のことを考えていた。買い物を頼まれていた。卵と豆腐。母さんのメモが鞄の中にある。
「あの」
声がした。
顔を上げると、ひなたが立っていた。机の横、人一人分の間合いを空けて。両手で教科書を胸の前に持っていた。
「……昨日の数学の、ノート。見せてもらえますか」
(ひなたが、自分から来た)
昨日の数学は確かに難しかった。証明問題で、途中から板書が追いつかなくなった生徒が何人かいた。
「いいよ。どこからわからなくなった?」
ひなたが少し目を丸くした。
「……三番の、途中からです」
「ちょっと待って」
鞄からノートを出して、三番のページを開いた。机の端を少し空けて、置く。
「ここで補助線を引いてるんだけど、見える?」
ひなたが少し前に出た。ノートを覗き込む。教室の他の生徒が動いている中で、二人だけ止まっていた。
「……これ、授業でやりましたっけ」
「やった。先生が黒板の端に書いたやつ。消すの早かったから見逃したかも」
「あ、そこです。消えてて」
「写す?」
「……いいんですか」
「どうぞ」
ひなたが自分のノートを出して、書き写し始めた。ゆうはその間、窓の外を見ていた。曇り空がだいぶ暗くなっている。帰りに雨が降るかもしれない。
◇ ◇ ◇
ひなたが書き終えて、ノートを返してきた。
「……ありがとうございました」
「うん」
ひなたが鞄を持って立ち上がりかけて、少し止まった。
「あの……崎山くん、数学得意なんですか」
「普通かな。証明は好きだけど」
「好き、なんですね」
「筋道が決まってるから。一個ずつやれば必ず着くし」
ひなたが少し考えるような顔をした。それから、小さく言った。
「……私、苦手なんですよね。どこから手をつければいいかわかんなくて」
「わからなくなったら、また聞いて」
ひなたが顔を上げた。
少し、驚いた目をしていた。
「……いいんですか。迷惑じゃないですか」
「迷惑じゃない」
ひなたがゆうを見ていた。何かを確かめるような、でも確かめ方がわからないような、そういう顔だった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……じゃあ、また」
「うん」
ひなたが歩いていった。
教室の出口で、友人らしい子と合流して、一緒に廊下に消えた。
◇ ◇ ◇
ゆうはノートを鞄に入れながら、今のやり取りを少し振り返った。
(ひなたが自分から来た)
それが、少し意外だった。
最初の日、ノートを拾って返したとき、ひなたは固まるだけだった。次の日、「おはようございます」が返ってきた。昼休みに声をかけたとき「迷惑じゃないです」と言ってくれた。
今日は——自分から来た。
(少しずつ、動いてるんだな)
大きいことは何もない。数学のノートを見せただけだ。でも、ひなたにとっては大きかったのかもしれない。
廊下に出ると、冷たい空気が流れていた。
鞄のメモを確認する。卵と豆腐。
(雨、降る前に帰れるかな)
それだけを考えながら、階段を下りた。




