第5話「村瀬に、伝えた」
翌日、村瀬さやかを見かけたのは朝だった。
昇降口で靴を履き替えているところだった。顔色は昨日より戻っていた。友人と二人で何か話しながら、笑っていた。
(体は大丈夫そうだな)
それを確認して、ゆうは通り過ぎた。
声をかけるタイミングは、今じゃない。友人と一緒のところに割り込むのは、また別の空気を作る。
一人のときを、待った。
◇ ◇ ◇
機会が来たのは、昼休みの終わりごろだった。
図書室の前の廊下。村瀬が一人で歩いていた。
ゆうは少し迷って——迷ったのは一秒か二秒だ——声をかけた。
「村瀬さん」
村瀬が振り返った。ゆうを見た瞬間、肩が少し上がった。昨日の昼休みを思い出したのかもしれない。
「昨日のこと、少しだけ話せますか」
「……は、い」
廊下の端に寄った。二人の間に、人一人分の距離を保った。
「昨日、声をかけたことで——何か言われたりしましたか」
村瀬が少し目を伏せた。
「……少し、聞かれました。友達とか、クラスの子に」
「どんなことを」
「崎山くんと、どういう関係なのって。付き添ってもらったって聞いたって、言われて」
ゆうは少し息を吸った。
「それで、困りましたか」
村瀬が顔を上げた。少し迷うような表情をして、それから正直に言った。
「……困った、というか。びっくりしました。声をかけてもらうこと自体が、あんまりなかったので」
「迷惑でしたか」
「迷惑じゃ……ないです」
少し間があった。村瀬が続けた。
「ただ……なんで声をかけてくれたのか、わからなくて。それがずっと引っかかってます」
「具合が悪そうだったから」
「それだけですか」
「それだけです」
村瀬がゆうを見た。探るような目ではなく——確かめるような目だった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……そうですか」
それだけだった。
否定も、肯定も、感謝も、それ以上は出てこなかった。
ただ「そうですか」という言葉が、二人の間に静かに落ちた。
◇ ◇ ◇
「もし周りから何か言われて、それが続くようなら——俺が誤解だと説明します。言ってください」
村瀬が少し目を丸くした。
「……それは、大丈夫です」
「そっか。よかった」
「あの」
村瀬が、小さく言った。
「……ありがとうございました。昨日」
「いえ」
「廊下で、誰も来なかったので……助かりました」
ゆうは少し考えてから、正直に言った。
「俺がいたから、他の人が来れなかったのかもしれません。そこは申し訳なかった」
村瀬が、驚いた顔をした。
それから——少しだけ、笑った。声には出なかったが、口の端が動いた。
「……崎山くん、変わってますね」
「そうですか」
「普通、そういうこと言わないので」
「普通がどこにあるか、まだよくわかってないので」
村瀬がまた少し笑った。今度は少しだけ、はっきりとわかる笑い方だった。
「……そうですか」
チャイムが鳴った。
村瀬が「失礼します」と言って、歩き始めた。
ゆうも教室に向かった。
◇ ◇ ◇
放課後、田辺に話した。
「村瀬さんと話した。迷惑じゃなかったって言ってた」
田辺がしばらく黙った。それから言った。
「……そうか」
「昨日の話、考えてたんだけど」
「うん」
「田辺は動かないことを選んだんだろ。それは間違いじゃないと思う。この世界でずっと生きてきたら、そうなるのが正直なところだと思う」
田辺が何も言わなかった。
「でも——俺は多分、また似たことがあったら動くと思う。それで誰かの空気を変えてしまっても。そこはごめんなさいって言うしかない」
田辺がゆうを見た。少し、珍しそうな顔をしていた。
「……お前は、不便なやつだな」
「そうかもしれない」
「でもまあ——村瀬さんが助かったのは、本当だろうから」
それだけ言って、田辺は先に歩き始めた。
ゆうはその背中を見ながら、少し息を抜いた。
(不便なやつ、か)
否定はしなかった。
でも——不便なまま、ここにいることにした。
それで誰かに迷惑をかけたときは、ちゃんと向き合う。
それだけが、今の自分にできる答えだった。




