第4話「村瀬さやかの話」
昼休みの廊下は、いつもより少し騒がしかった。
教室を出て、自販機に向かうつもりだったゆうは、廊下の角を曲がったところで足を止めた。
壁際に、女子が一人いた。
壁にもたれて、片手を胸に当てている。顔が白い。目を閉じていた。
(体調が悪いのか)
廊下の人の流れは続いていた。何人かが村瀬の横を通り過ぎた。
一人が足を止めた。村瀬の顔を見て、何か言いかけた——でも視線がゆうに来て、止まった。男子がいる。その一拍の間に、足が再び動き始めた。
別の子も同じだった。気づいて、立ち止まりかけて、ゆうを見て、行った。
(俺がいるから、声をかけにくいのか)
逆説だと思った。男子がいるせいで、助けに来られない。
ゆうは立ち止まった。
「大丈夫ですか」
女子が目を開けた。ゆうを見て、一瞬——固まった。
驚き、というより、処理が追いつかない顔だった。
「……あ、は、はい」
「顔色が悪いみたいですけど。保健室、行けそうですか」
女子がまた固まった。視線が泳いだ。ゆうではなく、その周辺——廊下を歩く他の生徒の方を、一瞬確認するような目だった。
「……あの」
「無理そうなら、一緒に行きます」
女子がまた目を泳がせた。
それから小さく——本当に小さく、頷いた。
◇ ◇ ◇
保健室まで、廊下を並んで歩いた。
女子は少しふらついていた。ゆうは手を貸そうかと思ったが、やめた。この世界での距離感を、体が先に判断した。
ただ、転びそうになったときだけ支えられるように、少し近い距離を保って歩いた。
保健室の扉を開けると、養護の先生がすぐ来てくれた。
「村瀬さん、どうしたの?」
名前がわかった。村瀬、という子らしい。
村瀬が「廊下でちょっと」と答えるのを聞きながら、ゆうは先生に「廊下で見かけたので」と一言だけ伝えた。先生が「ありがとうね」と言った。
それで終わりだと思った。
踵を返して、廊下に出た。
(自販機、まだ行けるかな)
それだけを考えながら、来た道を戻った。
◇ ◇ ◇
午後の授業中、ゆうはいくつかの視線に気づいた。
朝とも、昨日とも、少し違う質の視線だった。
好奇心、という感じでもない。何かを確かめるような——あるいは何かを決めようとしているような、そういう目だった。
(……何かあったか)
授業中は考えても仕方がないので、前を向いていた。
放課後、田辺が教室の外で待っていた。
「昼休み、村瀬さんに付き添ったんだって」
「保健室まで。それだけだけど」
田辺が少し間を置いた。それから廊下を歩きながら、低い声で言った。
「お前がやったことは間違いじゃない。でもここじゃ、それで済まないことがある」
「……どういうこと?」
「声をかけた、付き添った——それだけで、相手の子の周りの空気が変わる。わかるか」
ゆうは黙った。
「男子が気にかけた、って話になると——村瀬さんが注目される。本人が望んでなくても」
「……村瀬さんに、迷惑だったかな」
「本人はそう思ってないと思う。でも、周りがそうさせない」
田辺が、少し歩くペースを落とした。
「俺も昔、似たことやった。中学のとき、具合悪そうな子に声かけて——あとでその子が色々言われたって聞いた。だから今は、動かないようにしてる」
淡々とした声だった。感情を乗せていない。でも——それだけに、重かった。
(田辺は、諦めて動かないことを選んだのか)
否定できなかった。
田辺が選んだのは、この世界で生まれ育った人間の、正直な答えだと思った。
「お前がどうするかは、お前が決めることだけど」
田辺がそれだけ言って、階段を下りていった。
◇ ◇ ◇
一人になった廊下で、ゆうは壁にもたれた。
頭の中で、昼休みの光景を整理する。
村瀬は顔色が悪かった。壁にもたれて、目を閉じていた。
周りの誰も動かなかった。
ゆうが声をかけた。保健室まで付き添った。
それだけだ。
でも——それだけで、村瀬の周りの空気が変わった。
本人が望んでいなくても。
(俺の「普通」が、この世界では普通じゃない)
それは前から知っていた。でも今日は——知っているだけじゃ足りない、ということを知った。
自分の「普通」が誰かに当たって、その人の生活を変えてしまうことがある。
悪意はない。でも、だから無害とも言えない。
(じゃあ、どうすればよかったのか)
答えが出なかった。
動かなければよかったのか。
でも、あのまま通り過ぎることが、ゆうにはできなかった。
目の前で誰かが具合悪そうにしていて、声をかけないで歩き続ける——それが「正解」だとは、どうしても思えない。
(でも、その「正解」がこの世界では正解なのかもしれない)
廊下の端で、しばらく立っていた。
答えは出なかった。
でも——少なくとも、村瀬に一度会って話をしないといけない、とは思った。




