第2話「昇降口の、五秒」
放課後の昇降口は、いつも少し混む。
今日は特に何もなかった。授業を受けて、田辺と少し話して、それだけの一日だった。靴を履き替えながら、そんなことを考えていた。
靴紐を結んで、立ち上がろうとしたとき——
背後で、鈍い音がした。
振り返ると、荷物が床に散らばっていた。教科書が一冊、ファイルが一冊、クリアケースの中身が数枚——昇降口の端の床に、扇状に広がっている。
持ち主はすぐわかった。黒髪を一本に結んだ女子が、少し離れた場所に立っていた。後ろから来た生徒の鞄がぶつかったらしく、相手はすでに「ごめんなさい」と言いながら行ってしまっていた。
女子が、荷物を見ていた。
周りにも人がいた。靴を履き替えている子、通り過ぎる子、立ち話をしている子——誰も動かなかった。
(……あ)
考えるより先に、しゃがんでいた。
一番近くにあった教科書を拾う。ファイルを拾う。クリアケースの中身を端からそろえる。床は冷たかった。靴底の音が、周囲の喧噪の中で妙にはっきり聞こえた。
数秒で全部まとめた。立ち上がって、女子に差し出す。
「気をつけて」
それだけ言って、昇降口を出た。
◇ ◇ ◇
帰り道を歩きながら、ゆうは特に何も考えていなかった。
落ちていたから、拾った。それだけだ。
ただ——一つだけ、頭に残ったことがある。
(誰も動かなかったな)
あれだけ人がいて、誰も動かなかった。目線がちらっと向いていたのは見えていた。気づいていなかったわけじゃない。でも体が動かなかった——いや、動かさなかった。
(「男性の荷物に触れるのは失礼」という感覚か)
この世界では女性が男性に不用意に触れることを避ける文化がある。配慮として。でも結果として——荷物が落ちても、誰も拾えない場面が生まれる。
(配慮が積み重なって、誰も動けなくなってる。なんか、不便だな)
率直にそう思った。
坂を下りきったところで空を見上げた。夕方の雲が西から伸びていた。明日は天気が崩れるかもしれない。
さっきの女子のことは、もうほとんど頭になかった。顔は見たが、名前は知らない。別のクラスの子だと思う。
(気をつけて帰れたらいい)
そう思いながら、歩き続けた。




