第1話「隣の席、翌朝」
朝のホームルームまで、あと十分。
教室に入ると、すでに半分ほど席が埋まっていた。昨日と同じ空気だ——気づいた何人かの視線が来て、すぐ逸れる。
もう驚かない。
おはようと言いながら自分の席に向かった。
左隣の席に、相沢ひなたがいた。ノートを開いて下を向いていた。でも近づいてきたのは絶対に気づいていた。肩が、わずかに固まったから。
「おはよう」
ひなたが顔を上げた。一瞬、目が合った。
「……お、おはようございます」
昨日より、ちゃんと返ってきた。
(昨日は固まるだけだったから、進歩だな)
ゆうは特に何も足さず、鞄を下ろして席に着いた。教科書を出して、今日の時間割を確認する。一時間目は数学だ。
チャイムまでの数分、教室はいつも通りのざわめきが続いた。
ただ——一つだけ、昨日と違うことがあった。
ひなたの後ろの席の子が、友人に何かを囁いていた。視線がこちらに来て、すぐ逸れた。廊下からも、ちらっと覗くような目が見えた気がした。
(昨日のノートの件、まだ話になってるのか)
田辺が後ろから肩を叩いたのは、そのタイミングだった。
「隣のクラスにまで聞こえてきたぞ、昨日の件」
「拾っただけなんだけど」
「わかってる。でも相沢さん、廊下で誰かに何か言われてたから」
それを聞いて、少し眉が寄った。
(ひなたが、か)
ノートを拾ったことが、彼女の一日を変えてしまったかもしれない。悪いことをしたつもりはない。でも——良かれと思っただけで、人の周りの空気が変わる。
それが、この世界のルールらしかった。
チャイムが鳴って、佐伯先生が入ってきた。
ゆうは前を向きながら、頭の隅で一つだけ決めた。
(昼休み、ひなたに確認しよう)
◇ ◇ ◇
昼休み、廊下で偶然すれ違ったタイミングで声をかけた。
「相沢さん。昨日のことで、なんか言われた?」
ひなたが立ち止まった。廊下の端で、少し表情が固まる。それから首を小さく振った。
「……大丈夫です。ちょっと聞かれただけで」
「そっか。もし変なことになってたら、言って。俺のせいで迷惑かけてたら申し訳ないから」
ひなたが、止まった。
廊下の喧噪の中で、ひなただけが静止した。
「……迷惑じゃないです。全然、迷惑じゃないです。むしろ……ありがとうございました」
「うん。よかった」
それだけで終わった。会釈して、廊下を歩き始める。
背後でひなたがまだ立っている気配がした。振り返らなかったが、少し気になった。
(ちゃんと大丈夫だったなら、いい)
◇ ◇ ◇
放課後、教室に一人残ってプリントを整理しながら、ゆうは今日一日を振り返った。
ノートを拾っただけで噂になる。声をかけただけで、相手の周りの空気が変わる。廊下でひなたに一言確認しただけで、また誰かに見られた。
(小さいことが、全部でかく伝わるんだな、ここは)
怖いかというと——正直、まだよくわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
自分の「普通」が、この世界では普通じゃない。それは疑いようがない。
だから——どうするか、は、少し考えないといけないのかもしれない。
窓の外で、グラウンドの砂埃が風に巻き上がっていた。




