第10話「夜、ことみが話しかけてきた」
夕飯は、にぎやかだった。
にぎやか、といっても大騒ぎじゃない。ただ——会話があった。
ゆうが「今日から学校だったんだけど」と切り出すと、たか子が「どうだった」と聞いた。ことみが「うん、どうだった」と続けた。二人がほぼ同時に言って、少し顔を見合わせた。
ゆうはその顔が少しおかしくて、笑いながら話した。
出席の返事でざわついたこと。田辺と廊下で話したこと。佐伯先生が「雰囲気違う」と言ったこと。
全部じゃない。でも、話せる範囲で。
たか子が静かに聞いていた。ことみが時々「それで?」と先を促した。
(これが、食卓か)
ゆうは味噌汁を飲みながら、そう思った。
前の世界でも、こういう時間はあった。でも転生してからここで初めて——本当の意味で、誰かと夕飯を食べている気がした。
◇ ◇ ◇
食後、ゆうは部屋に戻った。
机に座って、今日のプリントを広げる。数学、現代文、英語。抜けていた分の課題を確認して、どこから手をつけるか考えていると——
コンコン、と扉が鳴った。
「どうぞ」
ことみだった。
パジャマ姿で、手ぶらで、少しだけ迷ったような顔をして入ってきた。部屋の端に立ったまま、すぐには話し始めなかった。
(珍しいな。用件なしで来たのか)
「座る?」
ゆうがベッドの端を指すと、ことみが少し目を丸くした。それからゆっくり近づいてきて、端っこに浅く腰をかけた。
しばらく、沈黙があった。
嫌な沈黙じゃない。ことみが何かを考えている沈黙だ。ゆうは急かさずに、プリントに目を落としていた。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「学校、どうだった? 本当のところ」
夕食で聞いたじゃないか、と思ったが——「本当のところ」という言葉が引っかかった。
ことみはお母さんの前では聞けないことを、聞きに来たのだ。
ゆうは少し考えて、正直に言った。
「面白かった。思ってたより、ずっと」
「……怖くなかった?」
「怖い? 何が?」
「みんなに見られるの。変な感じになるの。……男子って、学校しんどいって言う人多いから」
ゆうは少し驚いた。
「そういう話、誰かから聞いたの?」
「友達のお兄ちゃんが、高校でしんどくなって……休みがちになったって。それから転校して」
ことみが膝の上で指を組んだ。
「だから、お兄ちゃんも——そうなるのかなって、少し思ってた」
ゆうはそれを聞いて、黙った。
ことみは心配していたのだ。ずっと。熱で倒れる前から、たぶんその前からも、ずっとどこかで。でも踏み込めなかった。踏み込んではいけないと思っていたから。
それが、今夜——こうして部屋に来た。
「しんどくはなかった。本当に」
ゆうははっきり言った。
「見られるのも、距離取られるのも、なんか観察してるみたいで面白かった。田辺って男子と少し話せたし、先生も悪い人じゃなかった」
「……本当に?」
「本当に」
ことみがゆうの顔をじっと見た。嘘を探すような目だった。でもしばらくして、ふっと肩の力が抜けた。
「……よかった」
小さな声だった。
でも、その二文字の中に、たくさんのものが入っていた。
◇ ◇ ◇
それからしばらく、ことみは部屋にいた。
特に何かをするわけじゃない。ゆうがプリントをやって、ことみがベッドの端に座ってスマホを見て、たまに何かを言い合った。
「田辺くんって、去年も同じクラスだよね」
「そうみたい。去年話しかけてたらしい、俺に。覚えてなかったけど」
「……それ、ひどくない?」
「ひどいな。謝った」
「謝れるんだ」
「当たり前じゃないの」
ことみがそこで少し笑った。
声には出さなかったけれど、口の端が確かに上がった。
(笑った)
ゆうはそれを横目で見て、プリントに戻った。
◇ ◇ ◇
九時を過ぎたころ、ことみが立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
扉に向かって歩いていって、ノブに手をかけて——ことみが振り返った。
「……お兄ちゃん、これからも、ちゃんと帰ってきてね」
前と同じ言葉だった。
でも今夜のそれは、昨日より少しだけ——軽かった。
不安じゃなくて、お願いとして。
「帰るよ。毎日」
ことみが頷いた。
今度は、顔を逸らさなかった。
「うん」
扉が、静かに閉まった。
◇ ◇ ◇
一人になった部屋で、ゆうはペンを置いた。
窓の外は静かで、遠くに街の明かりがぼんやり見えた。
転生して、何日が経っただろう。
熱が下がった日から数えると、まだ一週間も経っていない。
その間に——
母と、扉越しに話した。
妹に、ありがとうと言えた。
家族三人で、朝ごはんを食べた。
学校に行って、出席の返事をして、ノートを拾って、廊下で笑った。
どれも、小さなことだ。
取り立てて言うほどのことじゃない。
でも——この世界では、それが全部、少し違う重さを持っていた。
(普通って、案外難しいんだな)
ゆうはそう思って、少しだけ笑った。
難しいけれど——できないことじゃない。
そしてできたとき、確かに何かが変わる。
扉の向こうで、家族の気配がした。
お母さんが廊下を歩く音。ことみの部屋の電気が消える気配。
ゆうはもう一度ペンを持った。
プリントの残りは、まだある。
明日も、学校がある。
明日も、普通に生きる。
(それで、十分だ)




