第20話 消えかけた刻印と、祈ってしまった手
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朝から、胸がざわついていた。
理由は分かる。
分かりたくないのに、分かってしまう。
手首の刻印――黒い痣が。
昨日より、薄い。
消えかけている。
(……おかしい)
今まで、そんなことは一度もなかった。
刻印は増えるだけで、薄くなったことはない。
疼くことはあっても、消えることはない。
なのに。
「消える」という現象だけが、あり得ないほどはっきり起きている。
(もし……)
指先が冷たくなる。
(一つ目の刻印が“私”で)
(二つ目が“祈った相手”だったら)
――消えかけているのは、私じゃない。
私が祈った先が。
祈りのせいで、繋がった先が。
(……ガルド)
考えた瞬間、息が詰まった。
体が勝手に立ち上がっていた。
椅子が鳴る。
周りの視線が集まる。
「セラさん、どこへ行くのですか!」
担任の声。
「セラさん!」
誰かが追ってくる気配。
でも、私は振り返らなかった。
今行かなきゃ。
今行かなかったら、ずっと後悔する。
刻印が薄くなる理由を、
“見ないふり”してしまう。
だから――行く。
***
「……起きろよ」
うちは、何度目か分からない声で吐き捨てた。
返事はない。
ガルドは、動かない。
重い。
あまりに重い。
血の匂いが濃い。
湿地で吸い込んだ泥と血が混ざって、最悪の臭いになっていた。
(ふざけんなよ)
死なないって言っただろ。
死なないやつと組みたいって言った私が、
最初の仕事で相棒を死なせたら――笑い話にもならない。
「……死んだら許さないから」
言葉が震える。
震えているのに、手は動く。
止血。
縛る。
締める。
でも止まらない。
傷が深すぎる。
肋が折れてる。顎の跡が残ってる。
腹の奥まで噛まれてる。
出血が多すぎて、意識が戻る気配がない。
「……くそ」
道を探す。
街道まで引きずるしかない。
ぬかるみに足を取られながら、何度も転びそうになって、
それでもガルドの襟を掴んで引きずった。
街道に出た時、馬車が来た。
運のいいことに、荷運びの商人だった。
「乗せて! 今すぐ!」
「え、な、なんだその血――」
「いいから! 急いで!」
言い争う余裕もない。
商人が顔色を変えて、二人がかりでガルドを荷台に乗せた。
「とにかく急いで!」
「わ、わかってますが道が悪くて――」
「いいから早く!」
「は、はい!」
馬車が走る。
揺れが傷に響く。
ガルドの口から、息が漏れるたびに薄く血の泡が出た。
(まずい)
昼過ぎ、ようやく街に入る。
「そのまま診療所まで!」
「わかりました!」
馬車は止まらず、ギルド管轄の診療所へ突っ込むように着いた。
医者は手早かった。
服を裂き、縫い、止血し、固定して。
それでも顔色は変わらないまま、最後に言った。
「……ダメだ」
呼吸が止まる。
「縫合はしたが、もう助からないと思った方がいい」
「……何とかしてよ」
声が低くなる。
医者は首を横に振る。
「まだ息があるのが奇跡だ。正直、ここまで持ったのが――」
「奇跡じゃない」
歯を食いしばる。
「うちが運んだ。うちが止血した。うちが――」
「それでもだ」
医者は淡々と言った。
「この出血量と損傷だ。
助かる理由がない」
「……なんでよ」
喉の奥が痛い。
怒鳴りたいのに、声が出ない。
(死ぬなよ)
(死ぬなって言っただろ)
***
私は、ギルドへ走った。
意味のない行動だと分かっているのに、
足だけが勝手に動いた。
扉を押し開ける。
「ミルダさん!」
受付のミルダが驚いて顔を上げる。
「セラさん……?」
私は息を吐きながら言った。
「ガルド、帰ってきましたか?」
「いえ……まだ戻っていません」
その一言で、胸のざわつきが一段深くなる。
(……まだ)
(まだ戻ってないのに、刻印が薄い)
「どうかされましたか」
「……なら、大丈夫です」
嘘だった。
私はギルド前の広場で立ち尽くした。
何をすればいいか分からなかった。
その時。
馬車が、あり得ない速度で横切った。
血の匂いがする。
人の叫び声がする。
馬車は少し先の診療所の前で止まった。
荷台に、見慣れた大剣が見えた。
(……ガルド)
足が勝手に動いた。
診療所の扉を開ける。
血の匂い。
濃い。
見つけた。
ベッドの上で、ガルドが横たわっていた。
顔色が悪い。
目は閉じている。
呼吸が――薄い。
「……やだ」
声が漏れた。
私はベッドの横に立ち、手首を押さえた。
刻印は、薄くなっている。
(……私のせいだ)
(私が祈ったから、繋がった)
(繋がったから、今……)
祈らないと決めていたのに。
でも、ここで祈らないなら、
私は一生、これを背負う。
私は、目を閉じた。
奇跡なんていらない。
ただ――
「……生きて。お願い。私のせいで死なないで」
声にならない声で、そう願った。
「誰だよ、お前……」
弓使い――リィナが睨む。
その目が、私の手首で一瞬止まった。
「……っ」
ガルドの胸が、大きく上下した。
医者が息を呑む。
「……脈が、戻ってる……?」
リィナがベッドに駆け寄る。
「おい、起きろ……!」
私は、ふらついた。
足元が抜けるような感覚。
世界が遠のく。
手首を見る。
刻印が――濃くなった。
――代わりに、遠くで何かが“産まれた”気配がした。
そして。
強烈な痛みが襲ってきた。
「いゃァァァ」
身体の内側が引き裂かれるような痛み。
痛みで、意識が遠のく。
「……おい……?」
リィナの声が聞こえた気がした。
私は答えられなかった。
***
「……ここ、どこだ」
目を開けると、汚い天井だった。
建物の中。薬草の匂い。血の匂い。
足先が重い。
体を起こそうとしても、痛みが走って動かない。
「リィナか?」
隣で、椅子が軋んだ。
「本当に治ったんだ」
リィナの声だった。
妙に冷えている。
「……治った?」
「医者が言ってた。奇跡だって」
「……セラが来たのか」
「来た」
リィナは短く答える。
「いきなり来て、祈った」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……セラは、どこだ」
「隣の部屋」
リィナの声が少しだけ苛立つ。
「急に腕抑えて気絶した」
「……痣か?」
「知らないって」
沈黙。
俺は天井を見たまま、息を吐いた。
俺の知らないところで、
“世界”が俺を拒んだまま、
セラが痛みを抱え、俺を戻した。
(……最悪だ)
助かったのに、胸が冷える。
「……リィナ、ありがとう」
リィナが黙る。
それが答えだった。
俺は、笑った。
怒りに近い笑いだった。
「……世界は、通す気がないな」
助かった?
……違う。
ねじ込まれただけだ。
俺は、ゆっくり目を閉じた。
次に目を開けた時、
俺はきっと――
もっと大きく拒まれる。
そしてその時、
セラはもう、祈れないかもしれない。
もっと強くならないと。
リミッターを外そう。




