第19話 理の印と、歪鱗の主
***
寮の夜はいつも静かだ。
世界が遠い。
腕が痛い。
疼く、じゃない。熱でもない。
刃物を当てられているみたいに、刻印の内側が「割れろ」と言ってくる。
祈っていない。
祈る気にもなれない。
それなのに、身体だけが勝手に反応している。
私は机の下で手首を握り潰した。
痛みで現実に縛りつけないと、心が傾きそうだったから。
(ガルド……)
名前が浮かぶだけで、胸が苦しくなる。
心配しているのか、苛立っているのか、自分でも分からない。
でも、分かることが一つだけある。
――この痛みは、「遠く」の出来事と繋がっている。
祈っていないのに。
まだ何もしていないのに。
刻印が、ひとつ増えた。
***
湿地の夜は、音がない。
草が揺れているのに、風はない。
水が波立っているのに、虫の声がしない。
――静かすぎる。
俺の頬を裂いた“何か”は、まだそこにいたはずだ。
だが次の瞬間、空気がふっと軽くなる。
「……消えた?」
リィナが、弓を構えたまま呟いた。
俺は答えない。
呼吸だけを整える。
矢が止まった場所。
月光の下で、落ちかけた矢が重力を思い出したみたいに、ぽとりと沼へ落ちた。
「……空中で止まるなんて、あり得ない」
「でも、いま……戻った」
リィナの声が震えている。
震えているのに、弓は揺れていない。
(こいつ、怖がり方が上手い)
俺は足元をずらす。
ぬかるみが靴底に吸い付く。
踏ん張れない。
「ガルド、あれ……」
リィナが視線で示す。
残りのアリゲーターは三体。
さっきまで確実にいた。
二体は、同じように唸り、同じように尾を揺らしている。
だが――一体だけ違う。
動かない。
沼に半身沈めたまま、こっちを見ている。
威嚇もしない。鳴きもしない。
逃げる気配もない。
「……おい」
俺は低く言った。
「まだ終わってねぇ」
「わかってる」
リィナが吐き捨てる。
「でも、さっきの“透明なの”がいなくなったなら――」
「いなくなったんじゃない」
俺は、目を細めた。
「見た。……測った。……線を引いた」
「は?」
「俺たちを、世界が“把握した”ってことだ」
リィナが舌打ちする。
「何それ。気持ち悪い」
「同感だ」
二体が、じり、と距離を詰めてくる。
普通の獣の目だ。
欲と飢えと恐怖が混ざった目。
一体は、動かない。
その目だけが、妙に澄んでいる。
澄んでいるのに、温度がない。
「……あいつ、鱗の色」
リィナが呟いた。
月光の下で、沈黙の個体の鱗は草色じゃない。
黒ずんで見える。
苔が張り付いたような緑じゃなく、濡れた鉄みたいな暗色だ。
「……気づいたか」
俺は剣を握り直す。
右手の大剣。
左手の剣。
ここからは、二刀で行く。
だが、この相手の硬さは分かってる。
「先に二体潰す」
「了解」
リィナが矢を番える。
「そいつは……最後にする?」
「違う」
俺は沈黙の個体から目を離さない。
「最後に残すな。……最後に残る」
「……最悪」
リィナが息を吐いた。
二体が同時に来る。
左の個体が噛みつき、右が尾で薙ぐ。
「っ……!」
踏ん張れない。
足が滑る。
だが、ここで下がったら沼に飲まれる。
俺は噛みつきを左剣でいなし、尾を大剣で受けた。
ガン、と衝撃が腕に響く。
「硬っ……!」
歯が食いしばられる。
腕が痺れる。
リィナの矢が飛ぶ。
一本目、関節。
二本目、目。
個体が怯んだ。
「今だ!」
俺は一歩踏み込む。
踏み込むというより、泥を踏み抜く。
大剣を振り下ろし、首の付け根へ刃を通す――
「……っ」
通らない。
刃が鱗に弾かれる。
「まだ硬いかよ!」
なら、通る場所。
腹。喉。関節。目――
俺が狙いを変えた瞬間、もう一体が尾を振るう。
「くっ!」
避ける。
避けきれず、背中が掠める。
熱が走る。
裂けた。
「ガルド!」
「気にすんな!」
リィナの矢が、尾の付け根を貫いた。
動きが止まる。
俺は迷わず、喉を突いた。
左剣で突き、右で薙ぐ。
今度は通った。
血が沼に落ちる。
黒い筋が伸びる。
「一体!」
叫ぶと同時に、最後の“普通”の個体が距離を詰める。
だが――
その動きが、途中で止まった。
まるで、誰かの合図を待つみたいに。
そして、沼の中の一体が、初めて動いた。
ぬるり、と。
這い上がる速度が異常だった。
水の抵抗を無視している。
泥を裂いて、地面を“掴む”ように上がってくる。
「……来る!」
リィナが矢を放つ。
ヒュッ。
矢は確かに命中するはずだった。
喉の柔らかい場所を狙った。
だが――
当たらない。
矢が、ほんの数センチ“ずれる”。
「……は?」
リィナの声が裏返る。
矢は鱗に弾かれ、沼へ落ちた。
次の矢。
次の矢。
全部、ずれる。
ずれている。
狙いが外れてるんじゃない。
空気が、微妙に押している。
風じゃない。
湿地の匂いでもない。
――理屈が動いている。
「……さっきの“透明”の置き土産か」
俺が呟いた瞬間、沈黙の個体が加速した。
巨体に似合わない速さ。
さっきまでのアリゲーターとは違う。
踏み込むんじゃない。滑っている。
沼の表面を“走って”いる。
「……っ!」
俺は迎撃に出た。
大剣を振る。
だが、当たらない。
いや、当たったのに――
手応えが消える。
刃が、鱗を滑って抜ける。
摩擦がないみたいに。
「何だこれ……!」
次の瞬間、尾が来た。
避けたつもりだった。
だが、尾の先が“伸びた”。
伸びたんじゃない。
尾が通る軌道が、俺の避けた先へ寄ってきた。
――押された。
鈍い音。
「ぐっ……!」
肋が鳴った。
息が止まる。
膝が落ちる。
(折れた……いや、ヒビか)
「ガルド!!」
リィナが叫ぶ。
俺は立つ。
立てる。
だが息が吸えない。
沈黙の個体は、止まらない。
噛みつき。
俺は左剣で口をこじ開ける。
歯が刃を噛んだ。
ギチ、と嫌な音がする。
そこへ尾。
避けられない。
俺は大剣を盾にした。
ガン、と衝撃。
腕が吹き飛びそうになる。
足元が滑る。
沼に落ちる――
「っ、ガルド!」
リィナが走った。
木に跳びつき、枝へ登り、視点を上げる。
(地形を使うのが早い)
そして矢を放つ。
今度は“狙わない”。
沈黙の個体の目じゃない。
関節でもない。
――足元。
矢が泥へ刺さる。
その瞬間、矢羽の根元から細い麻縄がほどけて走った。
最初から巻き付けてあった――仕込みだ。
「罠か!?」
俺が叫ぶより先に、
木の上のリィナがもう一本を番える。
狙うのは、沈黙の個体じゃない。
――さっき刺した矢。
「……何して――」
二本目の矢が飛ぶ。
ヒュッ。
矢は杭のすぐ横を通り、
麻縄の途中に作られた“輪”を正確に拾って、泥へ突き立った。
――輪が完成する。
二本の矢の間に麻縄が張られ、
輪っかだけが、地面すれすれに浮いた。
「っさい、踏ませる!」
リィナが叫ぶ。
次の瞬間、
沈黙の個体が踏み込む。
前脚が、輪に“入った”。
リィナはその瞬間を待っていた。
木の上から麻縄を引く。
ギュン、と音がして、
輪が一気に締まり、前脚の付け根に食い込んだ。
――重いほど、逃げられない。
沈黙の個体が暴れる。
――そのたび、輪が“肉”まで沈む。
重さが、自分の脚を自分で縫い留めていく。
「……っ」
あの個体が初めて、動きを止めた。
ほんの一瞬。
だが、十分だ。
「――今!」
俺は踏み込んだ。
「……いつからそんなの用意してた」
俺が吐き捨てると、
リィナが歯を見せて笑う。
「最初の矢が止まった時点から。ずっと作ってた」
(こいつの弓はゼット以上だ)
沈黙の個体の動きが、ほんの一瞬鈍る。
その一瞬で、俺は踏み込んだ。
(通る場所を探せ)
(硬いなら、硬いまま割れ)
ゼットの声が頭を刺す。
俺は大剣を、ただ振らない。
体ごと叩きつけた。
刃じゃない。
重さだ。
鱗を割るんじゃなく、骨を折る。
「――ッ!!」
想定外なら通る。
衝撃が返ってくる。
手首が砕けそうだ。
だが、沈黙の個体が初めて、声を出した。
鳴き声じゃない。
息が漏れる音でもない。
――痛みの音だ。
「……効く!」
俺は二度目を叩きつける。
三度目。
四度目。
鱗が割れる。
ひびが走る。
そこへリィナが矢を撃ち込む。
今度はずれない。
割れた場所に、矢が吸い込まれる。
「ガルド! そこ! 裂けてる!」
「分かってる!」
俺は左剣を逆手に握る。
刃を短く。
突き込むために。
沈黙の個体が尾を振るう。
――また“押し”が来る。
だが、今度は読めた。
避けない。
前へ。
尾の内側へ潜る。
「……っぐ」
肩が裂ける。
血が出る。
だが、距離が詰まった。
俺は割れた鱗の隙間へ、左剣をねじ込んだ。
奥まで。
骨まで。
「……止まれ」
言葉が漏れる。
「止まれよ、世界」
沈黙の個体の動きが止まる。
いや、止まったんじゃない。
刃が“支点”になった。
俺は大剣を、最後に振り下ろした。
割れた鱗の線に沿って。
――断。
胴が裂ける。
内臓が泥に落ちる。
巨体が、沼へ崩れた。
静寂。
俺は剣を下ろす。
息が乱れる。
肋が痛い。
血が垂れる。
(……瀕死には届かない。だが、近い)
「……終わった?」
リィナが木の上から聞く。
「違う」
俺は答えた。
「まだ、普通のが残ってる。
……いや。
最初から、ここで落とす気だったのか」
刹那、横から“顎”が来た。
反応はできた。
だが身体が動かない。
音が遅れて、骨の内側で鳴った。
「……ぐ」
胃が、ひっくり返る。
「ガルド!」
リィナの弓が光る。
連射。
口が緩む。
大剣をアリゲーターの眉間に何とか突き刺した。
「クソが!」
歯が身体に突き刺さってる。
リィナの声が遠くで歪む。
「ガルド、……聞こえる?……冗談は許さ――」
視界が消える直前、泥の上で“輪郭のない影”が一度だけ吠えた。
――世界が、俺を拒んだ。




