第四幕 従順な娘
カステリ家の広間は、朝から異様な熱気に包まれていた。 召使たちは花を運び、絹のリボンを柱に結び、厨房では香辛料の匂いが立ちのぼる。 ほんの数日前まで喪に沈んでいた家とは思えないほど、祝祭の準備は着々と進んでいた。
ガリオン・カステリは、執務椅子に腰を下ろし召使いに命じる。
「料理人どもは揃っておるな? 火の加減を誤るような素人は、今すぐ追い出せ」
「心得ております、旦那様。厨房は今、祝宴の火が早くも跳ね始めたようでございます」
その時、扉の向こうから声が響いた。
「パリラス様、ご到着でございます」
婚約者パリラスが広間に通される。
礼儀正しく微笑みながらも、その表情は緊張に染まっていた。
「おはようございます、カステリ閣下。ご準備の様子、拝見して胸が高鳴ります」
「よく来た。娘は今、僧ローレンスの元へ行っておる。漸く心を入れ替えたようだ」
パリスとガリオンが軽快な調子で話していると、ナースが奥から声を上げた。
「まぁ! お嬢様が戻られましたわ。晴れやかなお顔ですこと」
マリエッタが、広間へ居る皆の元と歩み寄る。
漆黒のドレスに身を包み、背筋は凛と伸ばして。
その顔には、穏やかな笑みを浮かべている。
ガリオンが立ち上がり、にこやかに声を掛けた。
「おお、マリエッタ。なんと清らかな顔だ。昨日までのやつれた姿とはまるで別人だ。普段のお前らしい顔になった。心を入れ替えたのだな?」
マリエッタは一歩進み、ガリオンの側で膝をついた。
「父様、申し訳ありませんでした。ティベリオの死が余りにも悲しくて。とても婚儀を行う気持ちになれませんでしたの。でも、僧ローレンスとお話をすることで、乗り越えましたわ。私は従順な娘に戻りました。家の意思を継ぎますわ」
その言葉に、ガリオンの顔が綻ぶ。
「よし、よし。立て、マリエッタ。これでこそ我が娘だ」
マリエッタは立ち上がり、パリラスに向き直る。
「今朝、僧ローレンスの庵でお会いした時、慎みを忘れぬ範囲で……ではありましたが。私からの愛情は、お示ししたつもりです」
パリラスは微笑み、ゆっくりと頷いた。
カステリ夫人が娘の手を取り、ナースに言う。
「見てごらんなさい、ナース。この子の顔ったら、まるで陽だまりの中に立っているみたい」
「ええ、奥様。いつもの愛らしいお嬢様のお顔ですわ」
ガリオンは満足げに、高らかに宣言した。
「よし! では明朝だ。この結び目は、夜明けとともに締めよう。祝いの朝を、これ以上待つ理由はない」
カステリ夫人が驚いたように言う。
「でも、婚礼は二日後のはずでは?」
マリエッタやナース、周りに居た従僕や仕え人たちも驚愕の表情を浮かべた。
「いや、明日だ。準備は私がやる。寝ずにでも整えてみせよう。娘が戻ってきたのだ。これ以上の喜びがあるか」
マリエッタは、ナースに目を向けた。
「ナース。部屋へ戻って、明日のための装飾を選びたいの。手伝ってくれる?」
「もちろんですとも、お嬢様」
ガリオンが頷いた。
「行け、ナース。娘を頼むぞ。 マリエッタ、今夜はゆっくり休むのだ。明日は早い。心も体も、晴れやかにその日を迎えるのだぞ」
「はい、父様。……ありがとうございます」
マリエッタは一礼し、ナースとともに広間を後にした。
マリエッタのその背中に、誰も疑念を抱かなかった。
彼女が向かうのは、眠りという名の別れであると言うのに。
*
カステリ邸の西棟、マリエッタの部屋は、夏の夕陽の名残が白の壁を染めていた。
室内には控えめな薔薇の香が薫っている。部屋の隅には、小箱に収められたレースの手袋や髪飾りが整然と並び、まるで明日の朝がほんとうに祝宴の幕開けであるかのようだった。
ナースは、あれこれと装飾品を手に取っては、陽気に声をかけた。
「お嬢様、やはりこのリボンが映えますわ。きっとパリラス様もお気に召しますよ」
マリエッタは小さく笑った。
曇りひとつないその穏やかな表情に、誰も疑いの影を落とすことはなかった。だが、その内側にはたったひとつの選択が、深く密やかに抱かれていた。
そこへ、軽やかに扉をノックする音がした。
「入って」
マリエッタの声に応えて現れたのは、カステリ夫人。
上質な薄手のレースの羽織を身に纏いながら、娘を気遣う眼差しがある。
「調子はどう? ナースに任せきりだから、私も手伝おうと思って」
そう言うと、夫人はテーブルの上の装飾品に目を走らせる。
「ありがとう、母様。でも……既に必要なものはだいたい揃ってるわ」
マリエッタはふんわりと頭を下げた。
「ナースと母様が一緒に整えてくれたおかげよ。あとは少しだけ、一人で神に祈る時間を持ちたくて」
その声音に夫人は目を細めたが、何も言わずに頷いた。
「ええ、もちろん。ゆっくり休むのよ。明日は早いから」
夫人はそっと、ナースの腕に触れる。
「行きましょう、ナース」
「はい、奥様。お嬢様、おやすみなさいませ」
扉が静かに閉まった。
マリエッタ一人残された私室の空気が、緩やかに沈んでゆく。
それは孤独という名の、完全な静寂だった。
部屋の椅子に座ったまま、マリエッタは閉じた扉を見つめた。
そして、掠れる声で呟いた。
「さようなら……神様だけがご存じね。もう、皆と二度と会えないかもって」
指先を震わせながら、胸元に隠していた小さな銀の小瓶を取り出す。
今朝、僧ローレンスの庵で手渡された仮死の秘薬。
それがマリエッタの手の中で、静かに横たわっていた。