第四幕 縋る祈りと秘薬
マリエッタの母、カステリ夫人が去った直後、乳母のナースがマリエッタの私室へ入って来た。
「さぁさぁ、お嬢様。悲しみに沈む気持ちは理解できます。が、前を向かねばなりません。婚儀に向けて、衣の準備を進めて参りましょう」
ナースの言葉に、マリエッタは固まった。
「あなたは、この婚儀を進めたほうが良いと言うの……?」
「はい。このご縁はお嬢様にとっての幸であると」
「それが私の幸せ? そう思うの? 私は既に、あの人の妻なのに?」
「もちろんでございます。フェリオはもう、罪人なのです。そして、ティベリオ様の仇。そのような者がお嬢様を幸せに出来るとは、到底思えません」
「あなたは……、味方ではなかったのね」
マリエッタは震える手で、髪留めを外した。
「とんでもございません。私はいつでもお嬢様の……」
ナースが言い終わる前に、マリエッタの小さな、だが硬い声がそれを遮った。
「味方でも何でもないわ! 私の心を知ろうともせず、周りの想いだけを押し付けて! それを幸だという人の顔など見たくもない!」
マリエッタの慟哭を投げつけられたナースは、そのまま何も言わず頭をひとつだけ下げ、部屋から静かに出て行った。
一人残されたマリエッタは、部屋の中で乾いた笑いを零した。
これで彼女は味方を、完全に失ってしまったのだ。
*
僧ローレンスの庵には、灰色の光が差し込んでいた。
午前中でありながら、その明るさはどこか霞がかっていて、命の気配よりも記憶の重みを感じさせる。
その静けさを破ったのは、若々しい声だった。
「僧ローレンス、今日は吉報がございます」
パリラスが現れた。
絹の上着に微笑を乗せ、彼の足取りは軽い。
言葉には誇らしさと、祝福を告げる者の自負が見えた。
「カステリ閣下による、正式な決定です。私とマリエッタ嬢の婚姻の儀を、三日後に執り行います。それに際して、僧ローレンスに儀式の取り仕切りをお願い申し上げたいのです」
ローレンスは、眉を寄せながら目を伏せた。
「……急ですね」
その一言に込められたものを、パリラスは汲むことなく朗らかに続ける。
「マリエッタ嬢のご心痛が癒えることを、皆が望んでおります。結婚がその手立てとなるならば、私も誠心誠意、努める所存です」
ローレンスは返す言葉を持たなかった。
彼の祈りも策も、今や届かぬ場所に置き去りになろうとしている。
その時、庵の扉が沈む音と共に再び開いた。
マリエッタが、黒のローブに身を包んで現れた。
目の下には眠れぬ夜の痕。
喪に伏す少女。それでも、凛として立つ姿がそこにあった。
パリラスが振り返える。そして、微笑んだ。
彼にはその笑顔しか、今のマリエッタには差し出せるものがなかった。
「これは……私の婚約者殿。ヴェローナの空も、貴方の美しさには敵いません」
マリエッタはパリラスの姿を見た後、そのまま視線を下に向ける。
「貴方が私を愛すると信じております。三日後の婚儀は素晴らしいものとなるでしょう」
続けて言葉を紡いだパリラスに、目を逸らしたままマリエッタは答えた。
「それは……。あなたがそう、仰られるのであれば、そうなのでしょう」
何も否定せず、何も肯定しないその言葉に、パリラスは暫く口を閉ざした。
けれど、礼を失わぬようにと、笑みの形だけを残して頭を下げ、庵を去っていった。
扉が閉まったあとも、空気は重たく乾いたまま。
ローレンスは黙って、その沈黙に寄り添うように立ち続ける。
「……僧ローレンス」
マリエッタがようやく言葉を紡ぎ始めた。
「私、自分がどうなっているのかもう、分からないのです。ティベリオの死がこんなにも痛いのに、フェリオがそれを為したと知っても、彼を想う心は消えなくて。その彼が追放されて、わたしの前から居なくなった今、 なぜ新しい婚姻を与えられて、笑顔を返さなければならないのか―― 何ひとつ納得できていないまま、式の準備が進んでゆくのです」
そして、袖の奥から、小さな刃を取り出して見せた。
「このままなら、私は……」
それを見たローレンスの目が見開かれる。
「待て!」
思わず声を荒げ止めた。
そして目を彷徨わせるように動かしたローレンスは、棚の奥に置かれていた一つの瓶を見つけた。光にすら気づかれないほど長い間、封じられていたもの。
彼は急ぎそれを手に取ると、マリエッタに向き直った。
「待ちなさい、マリエッタ嬢。私は……一つの希望を、今見つけた。だがこれは、ひどく危ういものだ。それでも、絶望よりは遥かにましなはず」
マリエッタがその声に、顔を上げた。
その瞳には絶望に混じり、微かに希望に縋りたい想いが滲んでいる。
ローレンスは瓶を差し出した。
「これは仮死の秘薬。この液を口にすれば、あなたは四十二時間――まるで亡くなったように見える。呼吸も、脈も、体温も消える。誰もがあなたを死んだと思うだろう。その間に私はフェリオへ知らせを送り、 彼に――あなたを霊廟から連れ出させる」
マリエッタは震える手で、その瓶を受け取った。
「わたし……生きていてもいいんでしょうか。ティベリオの死を受け止めきれず、彼を手に掛けたフェリオを愛したまま、そして家の名と責務を捨てようとする、そんな罪を抱える私が。そんなままでも、生きていいって、神は……神様は許してくれますか」
ローレンスは、余りにも痛すぎる少女の叫びに胸が苦しくなった。
――あぁ神よ。あなたはまだ、若い命に試練をお授けになられるのですか。
マリエッタを慈しむように見たローレンスは、ゆっくりと頷いた。
「あなたの心が愛のままである限り、 神はそれを罰とは呼ばないと――私は信じる」
マリエッタは弱々しく微笑んだ。
それは“信じる者の笑み”ではなく、“縋る者の笑み”だった。
そして彼女は、足取り確かに扉へ向かう。
毅然とした足音を残して。
自分の命を、最後の希望となる祈りに変えるために。