表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

第四幕 縋る祈りと秘薬

 マリエッタの母、カステリ夫人が去った直後、乳母のナースがマリエッタの私室へ入って来た。


「さぁさぁ、お嬢様。悲しみに沈む気持ちは理解できます。が、前を向かねばなりません。婚儀に向けて、衣の準備を進めて参りましょう」


 ナースの言葉に、マリエッタは固まった。


「あなたは、この婚儀を進めたほうが良いと言うの……?」


「はい。このご縁はお嬢様にとっての幸であると」


「それが私の幸せ? そう思うの? 私は既に、あの人の妻なのに?」


「もちろんでございます。フェリオはもう、罪人なのです。そして、ティベリオ様の仇。そのような者がお嬢様を幸せに出来るとは、到底思えません」


「あなたは……、味方ではなかったのね」


 マリエッタは震える手で、髪留めを外した。


「とんでもございません。私はいつでもお嬢様の……」


 ナースが言い終わる前に、マリエッタの小さな、だが硬い声がそれを遮った。


「味方でも何でもないわ! 私の心を知ろうともせず、周りの想いだけを押し付けて! それを幸だという人の顔など見たくもない!」


 マリエッタの慟哭を投げつけられたナースは、そのまま何も言わず頭をひとつだけ下げ、部屋から静かに出て行った。


 一人残されたマリエッタは、部屋の中で乾いた笑いを零した。


 これで彼女は味方を、完全に失ってしまったのだ。



 僧ローレンスの庵には、灰色の光が差し込んでいた。

午前中でありながら、その明るさはどこか霞がかっていて、命の気配よりも記憶の重みを感じさせる。


 その静けさを破ったのは、若々しい声だった。


「僧ローレンス、今日は吉報がございます」


 パリラスが現れた。

 絹の上着に微笑を乗せ、彼の足取りは軽い。

 言葉には誇らしさと、祝福を告げる者の自負が見えた。


「カステリ閣下による、正式な決定です。私とマリエッタ嬢の婚姻の儀を、三日後に執り行います。それに際して、僧ローレンスに儀式の取り仕切りをお願い申し上げたいのです」


 ローレンスは、眉を寄せながら目を伏せた。


「……急ですね」


 その一言に込められたものを、パリラスは汲むことなく朗らかに続ける。


「マリエッタ嬢のご心痛が癒えることを、皆が望んでおります。結婚がその手立てとなるならば、私も誠心誠意、努める所存です」


 ローレンスは返す言葉を持たなかった。

彼の祈りも策も、今や届かぬ場所に置き去りになろうとしている。


 その時、庵の扉が沈む音と共に再び開いた。


 マリエッタが、黒のローブに身を包んで現れた。


  目の下には眠れぬ夜の痕。

喪に伏す少女。それでも、凛として立つ姿がそこにあった。


 パリラスが振り返える。そして、微笑んだ。

彼にはその笑顔しか、今のマリエッタには差し出せるものがなかった。


「これは……私の婚約者殿。ヴェローナの空も、貴方の美しさには敵いません」


 マリエッタはパリラスの姿を見た後、そのまま視線を下に向ける。


「貴方が私を愛すると信じております。三日後の婚儀は素晴らしいものとなるでしょう」


 続けて言葉を紡いだパリラスに、目を逸らしたままマリエッタは答えた。


「それは……。あなたがそう、仰られるのであれば、そうなのでしょう」


 何も否定せず、何も肯定しないその言葉に、パリラスは暫く口を閉ざした。

けれど、礼を失わぬようにと、笑みの形だけを残して頭を下げ、庵を去っていった。


 扉が閉まったあとも、空気は重たく乾いたまま。

ローレンスは黙って、その沈黙に寄り添うように立ち続ける。


「……僧ローレンス」


 マリエッタがようやく言葉を紡ぎ始めた。


「私、自分がどうなっているのかもう、分からないのです。ティベリオの死がこんなにも痛いのに、フェリオがそれを為したと知っても、彼を想う心は消えなくて。その彼が追放されて、わたしの前から居なくなった今、 なぜ新しい婚姻を与えられて、笑顔を返さなければならないのか―― 何ひとつ納得できていないまま、式の準備が進んでゆくのです」


 そして、袖の奥から、小さな刃を取り出して見せた。


「このままなら、私は……」


 それを見たローレンスの目が見開かれる。


「待て!」


 思わず声を荒げ止めた。

そして目を彷徨わせるように動かしたローレンスは、棚の奥に置かれていた一つの瓶を見つけた。光にすら気づかれないほど長い間、封じられていたもの。


 彼は急ぎそれを手に取ると、マリエッタに向き直った。


「待ちなさい、マリエッタ嬢。私は……一つの希望を、今見つけた。だがこれは、ひどく危ういものだ。それでも、絶望よりは遥かにましなはず」


 マリエッタがその声に、顔を上げた。

その瞳には絶望に混じり、微かに希望に縋りたい想いが滲んでいる。


 ローレンスは瓶を差し出した。


「これは仮死の秘薬。この液を口にすれば、あなたは四十二時間――まるで亡くなったように見える。呼吸も、脈も、体温も消える。誰もがあなたを死んだと思うだろう。その間に私はフェリオへ知らせを送り、 彼に――あなたを霊廟から連れ出させる」


 マリエッタは震える手で、その瓶を受け取った。


「わたし……生きていてもいいんでしょうか。ティベリオの死を受け止めきれず、彼を手に掛けたフェリオを愛したまま、そして家の名と責務を捨てようとする、そんな罪を抱える私が。そんなままでも、生きていいって、神は……神様は許してくれますか」


 ローレンスは、余りにも痛すぎる少女の叫びに胸が苦しくなった。

 

 ――あぁ神よ。あなたはまだ、若い命に試練をお授けになられるのですか。


 マリエッタを慈しむように見たローレンスは、ゆっくりと頷いた。


「あなたの心が愛のままである限り、 神はそれを罰とは呼ばないと――私は信じる」


 マリエッタは弱々しく微笑んだ。

それは“信じる者の笑み”ではなく、“縋る者の笑み”だった。


 そして彼女は、足取り確かに扉へ向かう。


 毅然とした足音を残して。


 自分の命を、最後の希望となる祈りに変えるために。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ