第三幕 旅立ちと反抗
夜明け前。
まだ蝋燭の火が揺れていた。
そのやわらかな灯りの中、フェリオとマリエッタは静かに身を寄せていた。
言葉もなく、ただ、呼吸と体温だけが夜の名残を伝えていた。
窓の外から、小鳥の囀りが聴こえる。
「……雲雀が鳴いてるわ。自由でいいわね、雲雀は」
マリエッタがぽつりと呟く。
朝という現実を拒むように、彼女は目を伏せる。
「違うよ」
フェリオはそっと微笑んだ。
「あれは雲雀なんかじゃない。ナイチンゲールだ。夜の鳥が、まだ僕たちの時間を守ってる。だから……まだ朝じゃない」
マリエッタはそっと彼を見上げる。
「本当に……?」
その声は震えていたが、祈るような想いが込められていた。
再び聞こえてくる、鳥の歌うような鳴き声。
しばらくの沈黙ののち、フェリオが言った。
「……もう、行かなければ」
マリエッタは小さく首を振った。
「行かないで」
その声は、自分の心を引き留めるための呪文のように響いた。
フェリオは彼女の手をそっと取る。
夜の温もりが、まだその掌に残っていた。
「君が望むなら、残るよ。捕まっても、処刑されても――君がそう言うなら、僕はここにいる」
マリエッタの瞳が大きく揺れた。
「だめっ……逃げて。お願い、逃げて! 死なないで。それだけは、いや。あなたがいなくなるのは……もっといや」
ふたりは黙って見つめ合った。
その沈黙の中には『一緒にいたい』という切実な願いがふたつ分、重なっていた。
フェリオは、マリエッタの髪にそっと触れた。
ひと房を指に巻きつけ、そのままほどかずに留めたまま、指で優しく撫でている。
「この夜を、忘れないで」
マリエッタは頷いた。
「忘れない。あなたがここにいたこと。私が、ここにいたこと。そして――愛してたこと。それだけは、絶対に」
ゆらり、と蝋燭の炎が揺れる。
やがてフェリオは静かに立ち上がり、扉の前へ向かった。
扉が開く。
朝の風が差し込み、マリエッタの髪とカーテンを照らす。
フェリオの影が、光の中に静かに溶けていった。
*
夜はすでに遠のき、朝の気配が部屋の隅々にまで行き渡っていた。
マリエッタは、ベッドの縁に座っていた。
重ねた手は胸元にあり、その指先には、消えかけた記憶のような熱がまだ残っていた。
その時、扉が音もなく開いた。
「おはよう、マリエッタ」
声をかけたのは、カステリ夫人――マリエッタの母だった。
やや掠れた声には落ち着いた調子が保たれていたが、その奥に何かを覆い隠すものが見え隠れしている。
「顔色は昨日よりは悪くないわね。少しは眠れたのかしら」
マリエッタは返事をしなかった。
それを気にも留めず夫人は数歩、部屋に入った。
「昨夜は、皆が疲れ切っていたわ。……ティベリオのこと、私も悔しくて堪らないの。あの子は家の未来だったのに……本当に惜しい子を亡くしたわ」
言葉の端々に悲しみを滲ませながらも、その声には涙の重さはなかった。
寧ろ、それを過ぎ去った出来事として処理するような、均された語り口だった。
そして間をおかず、言葉を切り替える。
「でもね、今日ここに来たのは、あなたに嬉しい知らせがあるからよ」
マリエッタは、ようやく顔を上げた。
「……嬉しい?」
「ええ。お前の婚姻が決まったの。三日後、屋敷で正式な儀が行われるわ。お相手はパリラス卿」
母は、春の新調ドレスを話すように軽やかに言った。
「ティベリオがいなくなって、家の均衡が崩れかけている今、あなたが後ろ盾となるのは、家にとって大きな意味を持つ。皆、お前に期待しているのよ。誇りに思っていいわ」
マリエッタはしばらく黙っていた。
その沈黙は拒絶でも反抗でもなく、覚悟を刻むための時間。
「……私は、行きたくありません」
その言葉は小さく、だが明確だった。
母の表情がぴたりと止まり、空気が微かにピリっとする。
「何を言っているの。これはもう決まったことよ」
声の温度がほんのわずか下がる。
「お前の感情で、家の決定が揺らぐと思って?ティベリオの犠牲を無駄にしないためにも、これはお前が背負うべき務めなの」
それでも、マリエッタは目をそらさなかった。
「……私は、行きたくありません」
二度繰り返されたその言葉に、母は短く息を吐いた。
表情は崩れず、言葉にも乱れはなかった。
「……父様に、そう言うといいわ」
それだけを残して、母は背を向けた。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
朝の光が壁を照らす中、マリエッタは動かず、ただその場に座り続けた。
彼女の中にある何かが、音もなく壊れていた。