第三幕 ふたつの裁定
庵の奥、石壁に囲まれた静かな部屋。
フェリオは机の上に置かれた剣を見つめていた。
鞘に戻したはずなのに、刃の冷たさがまだ手に残っている。
「……マルセロは、俺のために死んだ」
声は低く、誰に向けたものでもなかった。
「俺が剣を抜かなかったから。 あいつが代わりに立った。 止められたはずだった。なのに、俺は……」
拳が震える。ローレンスは黙って見守っていた。
「マリエッタの存在が……俺の心を柔らかくしたのか? それとも、あいつを失った怒りが、俺を壊したのか……」
フェリオは剣に手を伸ばし、そっと鞘ごと持ち上げた。
その重さが、今はただ苦しかった。
「……あいつの命で、俺は何を守ったんだろうな」
その時、扉の外で足音が止まった。ローレンスが立ち上がる。
「誰だ」
「太守の使者です」
声が返る。 ローレンスは扉を開けた。
使者は二人の衛兵を従えていた。
「フェリオ・ヴェルナ。 お前がこの庵に居ると聞き、太守より命を預かって来た」
フェリオは立ち上がる。
剣はまだ手の中にあったが、抜かれなかった。
「……命令を」
使者は巻物を広げた。
「ティベリオ殺害の件、ならびに街の秩序を乱した責任により、 お前は本日限りでヴェローナの街を去ることを命じられた。 明朝までに街を出なければ、次は命をもって償うことになる」
沈黙が落ちる。
その中で、ローレンスが一歩前に出た。
「この庵は、争いを避ける者の為にある。 太守はそれを理解しておられる筈だ」
使者は頷いた。
「今夜までは庵に留まることを許されている。 だが夜が明ければ、庇護は解かれる」
フェリオは剣を机に置いた。 その音が、部屋の空気を切った。
扉が閉まる音が、石壁に響く。
フェリオは椅子に座ったまま、拳をきつく握った。
「追放……?」
ローレンスは静かに頷いた。
「太守の命だ。ティベリオを殺した以上、街にとどまることは許されぬ」
「……死刑ではなく、追放」
フェリオは高らかに笑った。乾いた音だった。
「それが慈悲だとでも?」
ローレンスは言葉を選ぶように、フェリオに言い聞かせるように話す。
「命がある。それは……」
「命があっても、マリエッタに会えないなら、それは死と同じだ」
フェリオは立ち上がり、机を殴りつける勢いで叩く。
「俺は彼女と誓った! この命を、彼女と共に生きると!」
「フェリオ。怒りに飲まれるな。お前はまだ、生きている」
「生きているだけじゃ足りない! 意味がない!」
そうして、数刻が過ぎた頃。
再び扉を叩く音がした。
ローレンスが開けると、ナースが立っていた。
フェリオの処分は、既にカステリ家にも届いたのだろう。
彼女の顔には、疲弊と焦燥が色濃く浮かんでいた。
「……マリエッタ様が、あなたに会いたがっておられます」
フェリオは振り返り、目に光が戻る。
「彼女は……無事か?」
「はい。でも……とても、悲しみ、泣いておられました」
フェリオは拳をほどいた。
「……会わせてくれ。今夜だけでいい。彼女に、顔を見せたい」
ローレンスはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「夜が深まれば、誰の目も届かぬ。ナース、フェリオの案内を頼む」
ナースは黙って頭を下げた。
フェリオはローレンスに向き直る。
「……ありがとう、僧ローレンス」
「礼は要らぬ。だが、忘れるな。 お前たちの愛は、もうふたりだけのものでは無い。 争いの火を越えて、なお残るものにせねばならぬ」
フェリオは頷いた。
その目には、まだ怒りも悲しみもあった。
だがその奥に、確固たる意志が灯っていた。
深くひとつ息を吐き、剣をもう一度見つめる。
そして、言葉を漏らす。
「……マルセロ」
その名が喉を通った瞬間、 痺れるような痛みが、奥から込み上げてきた。
言葉では届かない。
けれど、親友の名を呼ばずにはいられなかった。
*
その日の宵、カステリ家の空気は、固く、沈んでいた。
ティベリオが帰らぬ者となった知らせが届いて、まだ数時間。屋敷の奥には、香も祈りも追いつかないまま遺された彼の身体が横たわり、 誰もが言葉を選びかねていた。
廊下では召使たちが足音すら忍ばせ、控えの者たちの間では、そっと目配せだけが交わされている。喪の悲しみと、言い知れぬ不安。家の中には、どこか“空白”のようなものが漂っていた。
その中心にある応接間では、ガリオン・カステリが座していた。
蝋燭の灯りは静かで、窓は重く閉ざされたまま。
その前に立つのは、弔問に来たばかりのパリラス。
無言のまま、少しだけ背を丸めて、家長の言葉を待っている。
「……あの子は、私の甥だったが――」
ガリオンは机の上で組んだ指を、深く睨みつけた。
「この家にとっては、それ以上の存在だった。 若さと情熱を持ち、我らの名を未来へ繋ぐ柱として……誰もが、そう信じていた」
部屋には、僅かに蝋が溶ける音だけが残る。
「だが、その柱が失われた。今、この家には空洞がある。 それを埋めねば、いずれ崩れる。人の心は弱い。名も、地位も、噂ひとつで傾くのだ」
パリラスは言葉を挟まず、ただ静かに頷いた。
自身の足元に目を落としながら、その沈黙を“答え”として差し出した。
ガリオンの声は、わずかに低くなる。
「三日後。親族と近しい者を呼び、マリエッタとの婚姻の儀を執り行おう」
それは、命令であり、宣言だった。
既に誰の同意も待っていない。悲しみより早く、家のかたちを整える。
それが、ガリオン・カステリの采配だった。
パリラスは、ゆっくりと頭を下げた。
「お応えできること、心より光栄に存じます。 たとえ今は、彼女が私を望まぬとしても…… 私は、彼女の傍に立ち続けられる者でありたいと願っております」
それきり、ふたりは言葉を交わさなかった。
ただひとつ、蝋燭の火だけが揺れていた。
奥の廊下では、だれかが嗚咽を堪えている。
けれど、この扉の中では――その音は届かない。