第三幕 悲劇の幕あけ
夏の陽は高く、空は澄み渡っていた。
だが、街の空気にはどこか張り詰めたものが漂っていた。
マルセロは広場の噴水の縁に腰を下ろし、剣の柄を指でなぞっていた。
「暑っちぃな。こういう日は、血の気の多い連中が騒ぎ出す」
そこへ、フェリオの従兄弟で幼なじみの青年、ベンヴィードが駆け寄ってきた。
「マルセロ、聞いたか? カステリ一門のティベリオが、フェリオを探してるらしい」
マルセロは眉をひそめた。
「……やはり来たか」
通りの向こう、ティベリオの影が浮かび上がる。
鋭い視線が、一閃のようにこちらを射抜いた。
「マルセロ。フェリオはどこだ」
マルセロはすっと立ち上がる。
鞘に添えた手が、剣の柄をなぞるがまだ抜かない。
「知ってても言うわけねぇだろ? 会ってどうする気だ」
ティベリオが一歩、踏み込む。
「はっ! フェリオは悪党だ。家門に対する敵であり、排除すべき対象だ」
「お前の口から、あいつの名を聞くたび……吐き気がする」
「なら、お前が代わりに死ねばいい」
マルセロの声が鋭く返る。
「構えろ。今すぐにだ」
火花のような音を立てて、鞘が裂ける。
鋼が空を斬るように抜かれ、二人の距離が一気に詰まる。
踏み込んだ足音が床石を打ち、次の瞬間には斬撃の間合い――
「マルセロ! やめろ!」
その声が空を裂いた。
フェリオが駆けてくる。足元がもつれそうなほどの全力で。
けれど、マルセロは振り返らない。
剣を構え直し、敵から目を逸らさずに言った。
「遅い。こいつは――もう! 剣を抜いた! 穏便になんて済むわけがない!」
それを聞いたフェリオは、ティボルトに向き直り言う。
「ティベリオ、俺はお前と争うつもりはない!」
言われたティベリオは、思いきり眉を寄せた。
「……何を言っている? 腰抜けが」
「理由は言えない。だが、今の俺はお前と剣を交えることは出来ない」
マルセロは一瞬目を見開き、直ぐにフェリオを睨んだ。
「ふざけるな。こいつはお前を侮辱してるんだぞ!」
ティベリオは冷笑し、マルセロに向き直る。
「ならば、お前が代わりに倒れるがいいだろ。小物が」
マルセロは剣を構えた。
「望むところだ!」
激しい剣戟が交わされる。
フェリオは止めようと間に入った、その瞬間――
マルセロはフェリオを避けようとして、隙が生まれた。
ティベリオの刃がその隙を見逃さず、マルセロの脇腹を深く貫いた。
「……がはっ!」
血飛沫が、空中に咲いた。
世界の色が抜け落ちたかのように、周囲の時間が緩やかに歪んでいく。
マルセロは膝をつき、フェリオにしがみつく。
「っ……くっだらねぇ……こんな争いのせいで……俺は……」
フェリオは彼を抱きかかえ、必死に呼びかける。
「マルセロ! しっかりしろ……! マルセロ!」
マルセロは血に濡れた手で、フェリオの肩を掴む。
「ヴェルナ家も……カステリも……俺たちの命を……なんだと思ってるっ」
そして、最後の力で呟いた。
「……この争いに……呪われてしまえ……」
そのまま、マルセロは崩れ落ちた。
フェリオは動けなかった。
沈黙の中、血の匂いだけが濃くなっていく。
だが、やがてゆらりと動いたその目には、怒りと悲しみが燃えていた。
「ティベリオ……」
ティベリオが振り返る。
「ふっ。ようやく剣を抜く気になったか?」
フェリオは剣を抜き放った。
「これは決闘じゃない。――裁きだ!!」
刹那、ふたりの剣がぶつかり合い、火花を撒き散らす。
風がうねる。空気が裂ける。
そして――フェリオの一閃が、ティボルトの胸を貫いた。
ティベリオは何も言わず、そのまま崩れ落ちた。
フェリオは血に染まった剣を見下ろし、しばらくその場に立ち尽くす。
遠くで鐘の音が鳴っていた。
それは、誰も望まなかった悲劇の始まりを告げる音だった。
刹那、ベンヴィードが叫んだ。
「早く逃げろ! フェリオ! 仇だろうが何だろうが、家同士の争いは理由にならない! ティベリオを殺した今、お前は追われる側だ!」
*
午後の終わり間際の光が、窓辺の白いカーテンを透かしていた。
マリエッタは荷物の包みを整え、最後に白百合のブーケをそっと重ねた。
「あと少し」
この部屋を出る。フェリオと一緒に。
ふたりで決めた。今日、ここから共に歩み始めると。
鏡の前に立ち、髪を整える。
指先が少し震えていた。けれど、それは恐れではなかった。
「迎えに来てくれる」
そう、信じていた。
扉の外で、靴が止まる音がした。
マリエッタは扉の方へ振り返る。
「……ナース?」
扉が開くとそこには、ナースが立っていた。
だが、彼女の顔を見た瞬間、マリエッタの心臓が一拍、止まった。
その表情は暗く、まるで幽霊のように生気というものが感じられなかったのだ。
「……何? どうしたの?」
マリエッタの問いに答えようと、ナースは言葉を探していた。
だが、時間は待ってはくれない。
「街で争いがありました」
マリエッタは一歩、前に出る。呼吸が徐々に浅くなってくる。
「誰が」
「ティベリオ様が……亡くなりました」
「ティベリオ……誰が……?」
「……フェリオ様です」
沈黙。空気が重くなる。
部屋の光が、急に冷たく感じられた。
「……迎えには?」
ナースは俯いたまま、答えられなかった。
「来られないの?」
「太守から、フェリオ様へ追放の命が出ました」
マリエッタは、何かを掴もうとするように壁に手をついた。
「今日、出るはずだったのに」
ナースが近づこうとしたが、マリエッタは動かなかった。
「私たち、夫婦になったのに」
机の上のブーケが視界に入る。
朝と同じ姿で、そこにある。 でも、もう何も同じじゃない。
「……フェリオ……っ」
その名を呼んだ瞬間、
涙が零れていく。
声も出ないまま、マリエッタはその場に膝をついた。