第二幕 愛の確信
朝のヴェローナの街路はすでに賑わっていた。石畳を踏みしめる馬車の音、露店の呼び声、騎士たちの談笑が交わり、街は活気に満ちている。
しかし、その喧騒の中にフェリオの姿はない。
「まったく……どこへ消えたんだ?」
マルセロは溜息をつき、通りを歩きながら周囲を見回した。
昨夜の舞踏会の後、フェリオは明らかに様子がおかしかった。まるで別人のように生き生きとし、何かを決意したような目をしていた。
「余程のことがあったんだな……まさかまた、ロラインのことで悩んでねぇだろうな」
その時、通りの向こうからフェリオが現れた。
マルセロは腕を組み、ニヤリと笑った。
「おいおい、フェリオ。またロラインのことで悩んでたのか?」
フェリオは軽くため息をつく。
「ロラインのことは終わった」
「終わった? たった一晩で? お前の恋は風よりも早いな!」
フェリオは微笑みながら答えた。
「そうかもしれないな」
マルセロは更に揶揄うように言った。
「青白い顔のロラインに苦しめられ過ぎたか? 余り悩みすぎると、気が触れるぞ?」
フェリオは笑いながら首を振った。
「そんなことはない」
その時、通りの向こうからカステリ家の乳母――ナースが歩いてくるのが見えた。
マルセロは眉をひそめる。
「……カステリ家の者が何故、こんな所に?」
ナースは躊躇うことなく、フェリオとマルセロに歩み寄った。
「フェリオ・ヴェルナに話があるの」
マルセロは軽く笑って肩をすくめた。
「急にどうした? カステリ家側の人間がフェリオを探すとは……珍しいな」
ナースは真剣な目を向けた。
「マリエッタ様からの伝言があるのよ」
マルセロの表情が変わる。
「マリエッタ?」
ナースの言葉を聞いたフェリオが、慌てた様子で前に出る。
「俺を探しているのか?」
ナースは振り返り、彼をじっと見た。
「……マリエッタ様からの言葉を預かってる」
フェリオは冷静にナースを見つめる。
「言え」
ナースは躊躇いながらも、低い声で告げた。
「マリエッタ様は今日の午後、僧ローレンスの庵へ向かうとのこと」
フェリオの目が鋭くなる。
「本当か?」
「ええ。ただし、私は理解できない。なぜあなたなのか? どうしてこんなにも急ぐのか」
フェリオは低く、短く言った。
「それを知る必要はない」
ナースはなおも、疑いの目をフェリオに向ける。
「あなたが本気でなければ……マリエッタ様を傷つけることになる」
「俺は誓う。これは本気だ。マリエッタに伝えてくれ。今日の午後、僧ローレンスの庵で結婚しようと」
ナースはじっと彼を見つめ、しばらく沈黙した。
やがて、諦めたように頷いた。
「……なら、急ぐことね」
そう言ってナースは踵を返し、通りの喧騒の中へと消えていった。
マルセロはその背を見送り、ゆっくりとフェリオの方へ向き直る。
「……お前まさか……カステリ家の娘が? 恋の相手か?」
フェリオは軽く笑い、肩をすくめた。
「ああ。そういうことだ。だがこれは本物だ」
マルセロはしばらく沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……ほんと、お前ってやつは」
その声には、呆れと共に、確かな友情の温度が宿っていた。
*
陽は高く昇り、庭の白薔薇が風に揺れている。
マリエッタは噴水の縁に腰を下ろし、扇を握ったままじっと門の方を見つめていた。
「まだ戻らないの……?」
彼女の声は、誰に向けたものでもなく風の中に消えてゆく。
ナースがフェリオに伝言を届けに出てから、すでに一刻以上が過ぎていた。
「こんなに長くかかるなんて……何かあったのかしら」
マリエッタは立ち上がり、庭を行ったり来たりし始める。
「もしかして、フェリオが断った? いいえ、そんなはずない。あの人の目は……あの夜、確かに私を見ていた」
彼女は胸元を押さえ、大きく深呼吸をした。
「でも……もし、あの人が来なかったら? もし、ナースが戻らなかったら?」
その時、門の向こうから足音が聞こえた。
マリエッタは振り返り、駆け寄る。
「ナース!」
ナースは少し息を切らしながらも、穏やかな笑みを浮かべていた。
「お嬢様……お待たせしました」
「どうだったの? フェリオは……何て?」
ナースはわざとらしく腰を摩りながら言った。
「まったく! あの若造たちときたら、口が軽くて、冗談ばかりで……」
「ナースっ! お願い、今はその話じゃなくて……!」
マリエッタの焦れた声に、ナースはようやく真面目な顔になる。
「フェリオ様は今日の午後、僧ローレンスの庵でお待ちです」
マリエッタは呼吸の仕方を忘れたかのように、言葉を失った。
「……本当に?」
「ええ。あの方は、こう仰りました。『これは本気だ。マリエッタに伝えてくれ。今日の午後、庵で結婚する』と」
マリエッタは目を伏せ、震える両手を胸元で握った。
「……ありがとう、ナース」
ナースは頷き、そっと彼女の肩に手を置いた。
「さあ、お支度を。午後はすぐに来ますよ」
マリエッタは空を見上げた。
雲ひとつない青空が、未来を祝福しているかのように広がっていた。
*
庵の中は、時が止まったようだった。
石造りの壁に差し込む光が、祭壇の白百合を淡く照らしている。
僧ローレンスは日課の祈りを終え、スッと立ち上がる。
「この結びが、争いを鎮める種となればよいのだが……」
扉が開き、フェリオが現れる。 その顔には、緊張と決意が入り混じっていた。
「僧ローレンス」
「来たか、フェリオ。顔が晴れておるな」
「ああ。今日という日を、俺は一生忘れない」
ローレンスは微笑みながら頷いた。
「いいか? 覚えておくんだ。愛は火のようなもの。急ぎすぎれば燃え尽きる。穏やかに、深く、育てるのだ」
フェリオは静かに頭を下げた。
その時、外から軽やかな足音が響く。
扉が再び開き、マリエッタが現れる。
彼女は白のワンピースドレスを身に纏っていた。飾り気はないが、縫い目一つにまで丁寧な手がかけられているとわかる――
簡素でありながら、選び抜かれた上質の布。
その手には、小さなブーケ。 白百合、スズラン、勿忘草――
凛とした花々が束ねられ、彼女自身の決意を形にしたかのように揺れていた。
フェリオはその姿を見て、息を呑んだ。
「……マリエッタ」
「来ました」
ふたりは見つめ合うそれだけで、言葉はなくとも通じ合えた。
ローレンスは祭壇の前に立ち、彼らを手で招く。
「では、始めよう。神の御前にて、ふたりの誓いを結ぶ」
フェリオとマリエッタは並んで立ち、互いの手を取り合った。
ローレンスの声が、庵の静寂に響いた。
「汝、フェリオ・ヴェルナは、この者を妻とし、喜びの時も苦しみの時も、共に歩むことを誓うか?」
「誓います」
「汝、マリエッタ・カステリは、この者を夫とし、喜びの時も苦しみの時も、共に歩むことを誓うか?」
マリエッタは一瞬だけ目を伏せ、そして真っ直ぐフェリオを見つめた。
「……誓います」
ローレンスは両手を掲げ、静かに告げた。
「今この時、神とこの場にいる者の前で、ふたりは夫婦となった」
フェリオとマリエッタは、ゆっくりと唇を重ねる。
二人の愛は確信へと変わった。
ナースは目頭を押さえ、ローレンスは微笑みながら目を閉じた。
風が白百合の花を揺らす音が、庵の奥まで忍び込んでくる。
まるで二人を祝福するかのように。