第二幕 月下の誓い
フェリオは壁の陰に身を潜め、息を殺した。
カステリ家の庭は、夜の静寂に包まれている。
ここへ来るまで、何度も迷った。
この屋敷に忍び込むことが、どれほど危険かは分かっていた。
だが、それでも彼は来た。
舞踏会で交わした視線が、頭から離れない。
あの一瞬の輝きが、ただの幻ではないことを確かめたかった。
彼女は本当に、自分を見ていたのか?
それとも、あれはただの夢だったのか?
フェリオは庭の奥へと足を進めた。
月光が白い石畳を照らし、風が梢を揺らしている。
そして――
バルコニーの上に、マリエッタがいた。
彼女は静かに夜空を見つめている。
フェリオは思わず立ち止まった。
心臓が強く打つ。
彼女が、そこにいる。
偶然なのか、それとも運命なのか。
彼女の姿を見つけた刹那、胸の奥に熱が広がる。
彼女も、今夜の舞踏会を思い出しているのだろうか?
その答えを知る前に、彼女の声が夜に溶けた。
「あぁ……フェリオ……どうしてあなたは……フェリオなの?」
フェリオは、胸に湧き上がる喜びを抑えることができなかった。
彼女が自分の名を呼んだのだ。
「ヴェルナ家の者でなければ……その名を捨ててくれるのなら」
バルコニーの縁に手を添え、彼女は微かに首を振る。
「私に愛を誓ってくれるのなら、私もカステリの名を捨てられるのに……っ!」
フェリオは影の中でじっと動きを止める。
彼女も、同じ苦しみを抱えている。同じ思いでいる。
舞踏会で交わした視線が確かだったことを、今、彼は悟る。
「マリエッタ」
彼は月光の下に一歩踏み出し、その視線を受け止める。
マリエッタは驚いたように、声のした方へ顔を向けた。
影から現れたその姿に、目を見開いた。
「……フェリオ?」
名前を確かめるように、その姿を確認するように。
バルコニーの縁をぎゅっと握る指先に、力が入る。
フェリオは僅かに口元を上げた。
「ああ。マリエッタ。この名が、俺自身の心を変えるわけじゃない」
そして、何かを決意した瞳でマリエッタを見上げ、愛おし気に告げた。
「君が俺の名を呼ばないでくれたら、俺はその名を捨てよう。そうすれば名の壁を越えられる」
「それは……誓いなの?」
フェリオは静かに頷く。
「そうだ。君に誓うよ。俺を信じて。俺の心は君のものだ。そして君の心が欲しい」
「言葉だけなら、誰にでも言えるわ」
フェリオはバルコニーの下で立ち尽くした。
「俺は言葉だけで終わらせるつもりはない」
「ならば、証を見せて?」
「君が望むなら、どんな証でも。月に誓おう」
「誓うなら……月ではなく、あなた自身の心に誓って」
フェリオは息を吐き、目を閉じた。
「俺は心に誓う。君を永遠に愛すると」
マリエッタの表情がわずかに緩む。
「だったら」
彼女はためらうように言葉を紡いだ。
「だったら! いっそ今、誓って。明日なんて待てない」
マリエッタは、夜空を見上げて続けた。
「これが夢でもいい。嘘でもいい。けれど……あなたが今ここにいるなら
――私と、今夜……永遠を誓ってくれる?」
フェリオの胸が、強く脈打った。
「マリエッタ……」
「だって、あなたが帰ってしまったら……もう二度と会えない気がするの」
彼は力強く頷いた。
「君が信じられなくなる前に、俺の全てをかけて誓おう」
激情の余熱を隠すように、マリエッタの声は微かに震えていた。
「……でも、今夜の誓いだけじゃ、まるで夢みたいで……怖いの」
そっと視線をフェリオに落とす。
彼の姿を目に焼き付け、胸に刻み付けるかのように。
「明日、僧ローレンスの元へ行って……そこで誓いを交わしてくれる?」
フェリオは大きく頷いた。
「必ず行くと約束する」
マリエッタはバルコニーから少し身を乗り出し、名残惜しそうにフェリオを見つめた。
「夜が、終わるのね……この愛の蕾は、夏の夜の風で美しい花となるかもしれない。私の胸の中にある想いと同じものが、あなたの心にあると信じているわ……。あなたと離れるのが辛い」
「でも夜が終わるからこそ、俺たちは新しい朝へ進める」
二人の間に流れる少しの静寂。
そして、マリエッタは明日の希望へと賭けた。
「おやすみなさい、フェリオ。次に会うその時まで、夢の中でも私を忘れないで」
「おやすみ、マリエッタ。夢の中へだって会いに行って見せるよ。おやすみ」
フェリオはその言葉を告げると、ゆっくりと背を向け庭を後にした。
夜の誓いはふたりにとって、希望の明日へと続いていく。
――はずだった。
*
フェリオは朝の光の中を歩いていた。
夜の誓いがまだ胸の奥に熱を残している。
マリエッタの言葉が、彼の心を揺るがした。
『明日、僧ローレンスのもとへ行って……そこで誓いを交わして』
その約束を果たすために、彼は今ここにいる。
僧ローレンスの庵は、丘の上に佇んでいた。
石造りの建物の壁には蔦が絡み、庭には薬草が整然と植えられている。
朝の光が木の格子窓から差し込み、穏やかな空気がそこにはあった。
フェリオは扉の前で一度深く息を吸った。
扉を叩くと、しばらくして中から低い声が響いた。
「誰だ?」
フェリオは迷わず答える。
「フェリオ・ヴェルナです。話がしたい」
扉がゆっくりと開き、ローレンスが姿を現した。
「フェリオ……こんな朝早くに、何の用だ?」
「俺は、マリエッタ・カステリと結婚したい」
ローレンスの眉がわずかに動いた。
「……マリエッタ・カステリだと?」
フェリオは頷いた。
「昨夜の舞踏会で出会った。彼女と話し、全てが変わった」
「昨夜の舞踏会で? それほど短い時間で、何が変わったというのだ? それにお前は、違う女性を想っていたんじゃないのか?」
「今ならわかる。あれは恋でもなんでもない。ただの幻想だった。俺は真の愛、そして美を知った」
「ほう?」
「本物に出会えば、霞んでしまう。俺はマリエッタと出会い、確信したんだ。運命を」
「お前は本当に、この誓いを現実にする覚悟があるのか?」
「ある。俺は彼女と共に生きる」
少しの思沈後、ローレンスはゆっくりと息を吐いた。
「……若者の愛は目に宿っている、心ではなくな……だが、もしこの結婚が平和への一歩ならば、私がそれを叶えよう」
フェリオの胸が高鳴る。
「本当に?」
「だが、誓いは言葉だけではない。お前はこの決断を、行動で示さなければならない」
「俺は何があっても、彼女との誓いを守る」
ローレンスは、フェリオの目を真っ直ぐ見ながら頷いた。
「ならば、準備をしよう」