第二幕 運命の歯車
豪奢なシャンデリアが黄金の光を落とし、広間は絢爛たる装飾が施されている。
楽師達の演奏が流れ、人々が優雅に煌びやかな仮面を付けステップを踏んでいた。
仮面舞踏会――
名前も素顔もその本音さえも、仮面の奥に隠して。
誰もが一夜の役者となり、芝居がかった戯れに身を委ねる。
その夢は儚く、そして甘やかに夜を彩っていた。
*
フェリオは仮面を直しながら、広間の隅へと歩を進めた。
マルセロが隣で陽気に微笑む。
「見ろ、貴族どもの仮面舞踏会だ。まるで別世界だな」
フェリオは仮面の奥から広間を見渡す。
「華やかだが、いくら隠そうとも本質は変わらない」
人々の間を抜けながら。
フェリオの視線が、ある人物に惹きつけられた。
雷に打たれたような衝撃。
息が止まるほどの胸の高鳴り。
柔らかなローズピンクのドレスが揺れる。
その人の微笑みはまるで、音楽そのもののように軽やかだった。
優雅に舞う姿に、目を離せなくなった。
マルセロは隣で杯を傾けながら、彼の視線に気づいた。
「おい……えっ? まさか、一目惚れってやつか?」
フェリオはゆっくりと目を逸らそうとする。
「そんなことはない」
しかし、その瞬間。
彼女がふっと、フェリオの居る方へ視線を向けた。
二人の視線が交わりあう。
だが直後、彼女は視線を外し軽く身を引く。
まるで、何かを避けるように。
フェリオは無意識に足を動かしていた。
行ってしまう?
彼女は人々の間をすり抜け、広間の奥へと向かおうとしていた。
フェリオは慌てて後を追う。
「待ってくれっ」
彼女は振り返り、ふわっと花が咲くように微笑んだ。
そして小首を傾げて、小鳥が鳴くような声で返事をした。
「どうして?」
「この夜が終わる前に、もう少しだけ――」
フェリオは仮面の奥で息を整えつつ、平静を装いながら声を出す。
「巡礼者が聖堂に祈るように、この手を預けてもいいか?」
彼女は暫く彼を見つめたあと、ゆっくりと手を差し出し、唇の端を上げる。
「巡礼者の願いなら、拒む理由はないわね」
その仕草全てが、舞台上の誰よりも美しく見えた。
フェリオはその手を取り、仮面越しに思わず口元を綻ばせる。
その瞬間、二人だけの舞踏会が始まった。
音楽も、ざわめきも、遠のいてゆく。
「罪を清める方法を教えてほしい」
と彼は言う。
「祈りを捧げることね」
と彼女は応える。
フェリオは彼女の手を唇へと近づけた。
だが彼女はその手をスッと引いた。
「偽りを許す夜に、そんな言葉を言うあなたは誰?」
「ただの旅人さ。たまたま月のもとへ迷い込んだだけ」
「旅人なら行くべき場所があるはず。だけど……その目は彷徨っているわ」
「行き先を失ったのかもしれない。君を見た瞬間に」
ほんのひと欠片の音も残さず、彼女は笑った。
「甘い言葉は舞踏会の魔法と同じ。朝が来れば、消えてしまうわ」
「なら、夜の間だけでいい。この魔法を信じてみないか?」
二人は仮面のまま、再び踊り出す。
踊りながら、彼は吐息交じりに囁く。
「この手は祈りの場のようだ。触れるのが罪なら、口づけで許しを請おう」
彼女は一歩踏み出しながら言う。
「巡礼者は手を合わせ祈るもの。唇を使う必要はないわ」
「でも聖者にも唇はある。巡礼者にも」
「それは祈りの言葉を紡ぐためのものよ」
「ならば、君の許しを得るために──この唇を使わせて欲しい」
仮面はつけたまま。ただ、距離だけが確かに縮まっていく。
「動かずにいてくれ。祈りが叶う瞬間に」
フェリオは彼女に、躊躇いがちに口づけた。
「まるで教科書通りのキスね」
唇が離れ、仮面の下の目を合わせて微笑あう。
今度はごく自然に、再びその唇が重なった。
「ふふっ。教科書通りね」
楽しそうに同じ言葉を繰り返した彼女は、やがて仮面の紐にそっと指を添えた。
「見てはいけないはずのものを、見ようとしてるのね?
素顔を知れば、魔法が溶けるかも。それでもいいの?」
「ああ。見せて欲しい。仮面の下の君と、漸く出会えた気がするんだ」
フェリオも応えるように仮面を外し、そして――
月光の下で二人の素顔が交差した。
それと同時に。
その幻想を裂くように、遠くの方から鋭い声が飛んできた。
「――様っ!」
彼女が振り返った先の向こう。
そこに立つのは──カステリ家の者。
現実が、二人の間に割り込んでくる。
「今夜は、ここまでね」
そう告げて、彼女は静かに身を引いた。
フェリオは、その手を離したくなかった。
けれど彼女は、毅然とした背を見せて去っていく。
彼はその背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……名前を、聞いていない」
「フェリオ……」
近づいてきたマルセロが、低い声で告げる。
「彼女はカステリ家の娘、マリエッタだ」
そう聞いたフェリオは、息を呑んだ。
カステリ家──
この街で、最も遠い存在のはずだった。
祈りを交わすように手を重ね、唇を重ねた、あの時間。
それは名を持たぬが故の、ひとつの確かな愛があった。
*
一方でマリエッタは、ナースに導かれながら小さく呟く。
「……あの人は」
マリエッタの声を拾ったナースは、ため息をつき低く答える。
「フェリオ・ヴェルナ。ヴェルナ家の時期当主ですよ」
その名前を聞いた瞬間、マリエッタの足が止まった。
何かが、鋭く胸を貫くような感覚。
言葉が、喉の奥で形を失う。
視界の端で、フェリオの姿が揺らぐ。
彼の名が、彼の家が、すべての意味を変えてしまう。
この夜の奇跡が、ただの幻想だったと告げられたのだ。
*
夜の静寂がヴェローナの街を包み込む。
舞踏会の余韻がまだ空気に残る中、フェリオは石畳の道を歩いていた。
「おい、フェリオ!」
背後からマルセロの声が響く。
「どこへ行くつもりだ?舞踏会は終わったんだぞ!」
フェリオは足を止めず、ただ前を見つめる。
「少し、風に当たりたいだけだ」
マルセロは苦笑しながら、肩をすくめた。
「風に当たる? それとも、誰かを探してるんじゃないのか?」
フェリオは答えない。
マルセロは軽く仮面を指で回しながら、陽気に続ける。
「いいか、フェリオ。舞踏会の魔法は夜が明ければ消えるんだ。甘い言葉も、優雅な踊りも、すべては一夜限りの夢なんだ」
フェリオは立ち止まり、夜空を見上げる。
「それでも、今夜だけは信じてみてもいいだろう?」
マルセロはため息をつき、フェリオの肩を軽く叩いた。
「好きにしろよ。俺は酒場へ行く。お前も来るなら、今のうちだぞ?」
フェリオは微笑み、ゆっくりと来た道を戻るように歩き出した。
「俺は……別の場所へ行く」
マルセロは彼の背中を見つめながら、苦笑した。
「まったく。あいつは夢追い人だな」